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「花には香り本には毒を――サド裁判・埴谷雄高・澁澤龍彦・道元を語る」細註 トロツキー「わが生涯」の翻訳には、澁澤龍彦氏の旧友・野沢協氏も「林茂」名で参加しており、そのいきさつを記した澁澤氏の手紙を、出口裕弘氏が「澁澤龍彦の手紙」(朝日新聞社、1997年)のなかで紹介している。それによれば、「澁澤龍彦翻訳全集6」(河出書房新社、1997年)に付された巖谷國士氏の解説に若干の訂正も必要かと考えられるので、以下に紹介しておく。「最近、野沢にも会った。野沢と、ぼくと、浜田泰三と、栗田勇と四人で、トロツキーの「わが生涯」を翻訳することになったからです。これはヤッツケ仕事で、一月足らずのうちに原稿をまとめ、大急ぎで出版します。ぼくは、おそるおそる、野沢にトロツキーの翻訳をすすめてみたところ、意外にも彼は快諾したので、かえって拍子抜けしてしまった。」前掲の巖谷國士氏の解説によれば、野沢協氏は「当時すでに都立大学に奉職しており、その関係もあってペンネーム(=林茂)を使ったのではないかとも考えられる」とし、「野沢協がなにかの事情で翻訳を中断せざるをえなかった」というが、上に引用した澁澤氏の手紙の続く部分では、 「また野沢の翻訳の早いこと、われわれ他の三人を唖然たらしめるものがあった」とある。出口裕弘氏が推測するように、「野沢協が快諾したので拍子抜けしたとは、そのころの野沢協がまぎれもない日共党員だったからのことである。いうまでもなかろうが、かつて正統共産主義からすると、トロツキーは最大の異端者だった」という事情が澁澤氏の手紙の背景にあるとすれば、野沢氏のペンネーム使用や途中での翻訳中断も、これとからむ問題と考えるのが妥当であろう。こうした事情にもかかわらず野沢氏を「わが生涯」の翻訳に引き込んだところに、引用者としては、澁澤氏が野沢氏を単なる翻訳仲間を越えた共闘の同士と考えていたためと読み込んでみたい。ここで再度巖谷氏の解説に戻れば、「澁澤龍彦はむしろ自発的に、野沢協の分をカヴァーしようと申しでたという。彼の訳出部分が三箇所にわたり、しかもそのうちの一章(43)が離れたところにあるのは、あるいはそんな再分担の結果であったかもしれない」というが、やむなく翻訳中断した野沢氏の分を澁澤氏がすべてカヴァーしたというのも、たんなる「ヤッツケ仕事」以上の意味がそこにあったからではないか。 野沢氏と澁澤氏については、出口裕弘氏の次の文章も参照していただきたい。 「西新橋の病院に入ってから十一カ月、澁澤は私に晴朗な顔しか見せようとしなかったと、先に書いた。だが、一度だけ例外があった。彼の死の前日、八月四日のことである。この日私は、野沢協といっしょに彼の病室へ行こうと思い立ち、電話で、付き添っていた龍子夫人に都合を訊いた。すると、出口はおととい来て、さんざん喋ったばかりなのにどうしたんだ、野沢が来るというのは、おれがそろそろ死にそうな気配だから、一目会っておこうという心算か。本人がそういっていると告げられ、こちらとしては一言もなく、引き下がった。」(「澁澤龍彦の手紙」、朝日新聞社、1997年)なお野沢協氏は、「わが生涯」の翻訳中断後、「キリスト教暴露」(ドルバック著)、「幽閉者ーーブランキ伝」(ジェフロワ著、加藤節子氏との共訳)の翻訳を現代思潮社から刊行している。 |