花には香り本には毒を――サド裁判・埴谷雄高・澁澤龍彦・道元を語る
石井恭二著
現代思潮社の社主として戦後の出版界に一つの時代を築いた石井恭二氏の「花には香り本には毒を」が刊行された。これは石井氏がかかわった本のあとがき、裁判での陳述、石井氏へのインタビューなどを集成したもの。以下にその感想文を書こうと思っているのだが、いざ書き出してみるとなかなか難しい。 同書は、サブ・タイトルを「サド裁判・埴谷雄高・澁澤龍彦・道元を語る」と銘打ってあり、文字通り、その4項目について記されているのだが、それぞれの項目と私の関わり方が異なるために全体をとおした評価がしずらいのだ。そこで、本書の配列に従うのではなく、書きやすいところからはじめて、私なりの感想というか要約を記していくことにしよう。
現代思潮新社、2002年
まずは「澁澤龍彦」の項。
この部分は、「澁澤龍彦と戦後日本」という論考と「サド裁判前後」というインタビュー(聞き手は松山俊太郎氏)からなる。インタビュー「サド裁判前後」は、「澁澤龍彦全集」(河出書房新社)の月報用に行われたものだが、現代思潮社からサドの「悪徳の栄え」が出版された経緯や、「悪徳の栄え・続」の発売禁止処分とそれに続くサド裁判にまつわるエピソードがいろいろ出てきて、時代の証言としておもしろい。
「最初に(鎌倉・小町の澁澤邸に)行った時に、実は「悪徳の栄え」の翻訳がもうほとんどできていたの、抄訳の。その場でサッと目を通したんだ。そうしたらあの時、相当僕は、感動したというか、驚いたというか。(中略)それで、そうか、サドというのはやっぱり見当つけただけのことはあるなということで、こいつを出したい、と。だけれども、こいつの翻訳を仕上げて本にするためには、ちょっと時間がかかるということで先にのばし、第一回はやはりアンリ・ルフェーヴルの「マルクス主義の現実的諸問題」の森本(和夫)訳。現実的というのはアクチュアルという諸問題と、それから「悲惨物語」(澁澤訳のサド小品集)を出すことに決めたんだ。つまり僕の布石としては、ヤワでないアナーキズム。それからマルクス主義の源泉に戻れ、と。要するに反スターリン主義だね。そんな話はその時は澁澤としなかったけれども、要するに一国社会主義といったようなインチキ。マルクスには、そういう概念はないから、そこに戻りまして、つまりビラ撒きのつもりで始めましたよ」(括弧内は引用者・如月による補足)
現代思潮社からの出版に先立ち、1956年〜57年に彰考書院から澁澤龍彦氏訳のサド選集(3巻)が出ているが、この彰考書院も左翼系出版社である(註1)。石井氏の発言とあわせ、1950年代当時の日本の出版界におけるサドの位置づけがうかがえる。ちなみに、澁澤氏が「悪徳の栄え」の翻訳を抄訳でと考えていたのは、猥褻性や思想的な危険性・過激さを恐れていたからではなく、全訳しても同じようなことの繰り返しが多くて冗長と判断していたためという。澁澤氏としても、サドのオリジナルを一気に翻訳・紹介するのではなく、少しずつ紹介していくという戦略があったのだ。
石井氏によれば、「悪徳の栄え」は1959年に初版二千部を刊行したがまったく売れず、同年刊行された続編が発売禁止処分になってからその話題性で売れ出したという。この時、「よく読んでみると、あれ(「悪徳の栄え・続」)はもともと抄訳だということもあるし、いけませんよというところを切ったって全然変わらないんだな。変わらない以上は、原本を出すとまたトラブルを起こす、と。印刷屋もこうるさいことになるだろうし、澁澤をそこまで巻き込むのも気の毒という感じがあったので、いけませんというところを抜いて出した」(括弧内は引用者・如月による補足)という。警察の捜索があった時、とっさの判断で石井氏はオリジナルの紙型を隠し複写した型をわたしたので、原型は無傷のまま石井氏の手元に残っており、これを使って再版することも、物理的には可能な状態にあったのだ。
インタビューの先の部分では、亡くなる直前に澁澤氏を訪ねたとき、「結局はすべて、あれが出発点だったんだよな」と、澁澤氏がサド裁判の意味を大きくとらえていたことも披露される。
このインタビューと比較すると、「澁澤龍彦と戦後日本」は文章が硬直していて私は好まない。
続いて「サド裁判」の項。
この部分は、「立言」「被告人意見陳述」「最終意見陳述」「裁判随想」「「サド裁判」あとがき」「出版の自由について」およびインタビュー「サド裁判と現代思潮社の時代」(聞き手は安島真一氏)からなる。
まず「悪徳の栄え・続」が刑法175条違反の容疑(猥褻文書販売、同所持、註2)によって発売禁止となり、その後石井氏と澁澤氏が起訴された経緯を一応確認しておかなくてはならないが、警視庁はすべての出版物が刑法に違反しているかどうか精査しているわけではなく、摘発のきっかけは、「こんな本があるけれどもけしからんじゃないか」というような主旨の一般からの投書だったという。そこで警視庁の風紀取締係が読んで、「これは猥褻だ」ということになったのである。この発売禁止処分が「悪徳の栄え・続」刊行の翌60年。裁判は61年にはじまり、62年、東京地裁で「無罪」とされるが、検察側の上告があり、最終的に69年最高裁で有罪が確定する。
石井氏は、「ヤワでないアナーキズム。それからマルクス主義の源泉に戻れ」(前出)ということを信条に現代思潮社を興し(註3)、自己の思想的信念にもとづいてサドの翻訳を出版しているので、この発売禁止処置を、「本事件は刑法に名をかりた、悪質な思想弾圧であり、出版の自由の抑圧であることは明白であります。事柄は、国家権力というものの本質につらなることではあるが、私は、ここで強く、出版と思想の自由を主張する義務を負うものであります」(「被告人意見陳述」)と受け止める。この裁判は、少なくとも被告人の考えとしては、「芸術か猥褻か」すなわち、「問題の表現は猥褻であるが、芸術表現として許容されなくてはならない」というレベルで争われたのではなかったのである。
より具体的に石井氏の言葉を引用してみよう。
「あれはしかじかのものである。それは猥褻である、といった判断において、権力の猥褻性は実現するものと考えられます。本来、人間性において、猥褻性などというものは、ありもしないものであります。この嫌な、暗い、抽象的な、隠微な言葉は、健康な人民の精神にとって無縁であり、社会を支配するものたちの側から押しつけられる道徳律の最も闇黒の部分を象徴するものであります。その故にこそ、人間の精神史は、封建社会より近代社会へ向かって、一枚一枚と、その夜の霧のような、このヴェールを引きはいで、苦闘を重ねてきていることは、人類の文化史、文学史、美術史を、ひもとくまでもないのであります。しかも、本書は、最初に述べたように刑法175条のいう、正常、非正常をとわず、何ら情念に働きかけるようなものの全くない抽象的思想小説であり、本書を読んで、読者カードを寄せられた読者の反応を調査しても、そのことは明らかであります。巷間、枕草紙などといって結婚する子女に、それを持たした風習さえあったというユーモラスなもしかすると深刻な例をとれば、しかしそのような春本春画のかわりに本書「悪徳の栄え」を新婚の娘たちに持たせるかどうか。本書がそのようなこととは、全く無縁のものであることは、言明することさえ馬鹿げています」(「被告人意見陳述)
また、「最終意見陳述」で石井氏は次のように述べている。
「著作物は、どんな本の場合でも明白に社会的に無害であります。では、何故、著作物に関する裁判が起るのかといえば、その時代の道徳、法制、行政、一切を含めた社会構成の支配性、秩序性の運動から起ることは明らかであり、歴史上の幾多の禁書の例が、時代時代によって変転するのを見てもわかる通りにそれは、法律、政治のキャムペーンによるものであって、当該の一冊の書物ないし著作に発するものではないと考えるのであります。すなわち、法廷における、一冊の書物の価値判断は、法律、政治の貧弱なキャムペーンの儀式であります」
論告求刑では、「悪徳の栄え・続」の部数が二千部であることから情状酌量が適用されるのであるが、石井氏はそれを検察側の論理矛盾とする。なぜなら、「検事は、論告においても、この書物が僅少部数ではあっても公刊されたこと、したがって、この本が醇良なる家庭内で朗読されたり、本など読みもしない青少年の手に入る機会が充分にあることを立証しようと、懸命に努力していたのであるからだ」(「裁判随想」)という。
多面的な要素をもった「サド裁判」に関する言説を以上ですべて要約し得たと主張するつもりはないが、その一端はこれで理解してもらえるのではないか。
「サド裁判」の項の紹介を続けよう。今度は石井氏がテープ2本分も語ったというインタビュー「サド裁判と現代思潮社の時代」から。
「要するにサドを出版するという意図自体が、先ほどから話しているようなことであり、澁澤だって同じだったわけですから、文壇的な騒ぎにしたって意味がないわけですよ。文壇としての芸術裁判なんていうことになると、文壇にはくだらない連中がたくさんいるので、「芸術か猥褻か」なんていう意味不明なことを必ず言い出すわけですよ。猥褻で何が悪いという具合にはならないわけです。「芸術か猥褻か」というのがどれだけくだらない論争かっていうことはチャタレイ裁判ではっきりしている。あれはやめようと。それよりも「別個に進んで一緒に撃て」というトロツキーの戦術で行こうと。方法論から何から一緒に決めて、一致協力して行きましょうなんていうスターリン主義的なことはやめましょうと。ひとつのイデオロギーに統一して、それで喧嘩をしましょうということになると必ずプロスターリン主義が出るわけです。プロというのはシンパシーのことですが、当時の進歩主義イデオロギーです。この辺になってくると僕の独壇場になってくるわけだ(笑)。こういうことを澁澤に言うと、彼は勘がいいからすぐわかるわけ。すぐわかるということは、もともとわかる素質が下地としてあるわけで、そういう思想的な下地が充分にある男だったんですよ。」
そうしたプロセスのなかで、現代思潮社からトロツキーの自伝「わが生涯」のフランス語版を翻訳しようという企画が興り、澁澤氏もそれに参加することになったという(註4)。
さて今度は「埴谷雄高」の項。
この部分は、「埴谷雄高氏」「追悼 埴谷雄高」「埴谷氏と正法眼蔵」からなる。
実は、これを書いている時点で私は埴谷雄高氏の著作を未だ一冊も読んでいない。読みたいと思って気にしつつ、なぜか読む順番が回ってこないのだ。したがって、この項についての積極的なコメントは不可能に近い。ともかく石井氏の文章を紹介しておこう。
石井氏が畏敬の対象であった埴谷と直接知り合うきっかけとなったのは、現代思潮社から刊行された「歴史の証人(総和と余剰・第二部)」(アンリ・ルフェーヴル著/森本和夫訳)への埴谷氏の書評を通して。1960年5月の「週刊読書人」に掲載されたその書評が、「私の出版意図を見事に、まったく丸ごと見てくれている」(「追悼 埴谷雄高」)と感じた石井氏は、同年のうちに埴谷氏の短編小説集「虚空」を、また翌年「不合理ゆえに吾信ず」を続けて刊行する。その後、埴谷氏はサド裁判の特別弁護人を引き受け、石井氏とより深くかかわるようになる。
埴谷氏と道元を「日本思想史において、その思想と論理の幅と深さ、また論理の徹底性において二本の指を屈する」(「埴谷雄高氏」)思想家と評する石井氏がまとめた埴谷文学の主題は、「「戦争と革命」に本質的に内在する「政治と存在」として捉えられるものである。そして、政治に対する根元的な否定は存在の側からは、「存在の革命」でなければならない。「死霊」をはじめとする氏の小説の目指すところは、言葉をつづめて言えば、存在の探求であり意識の実験である」(同前)とする。
さて私個人にとって埴谷雄高氏が気になるのは、こうした現代思潮社とのかかわりとは別に、「近代文学」から「犀」へと続く文学同人ともかかわりを持ち続けていたという点。「犀」の同人から出発した加賀乙彦氏の長編処女作「フランドルの冬」(1967年)の帯(推薦文)は、埴谷氏が書いている(註5)。
最後はようやく「道元」の項。
この部分は、対談「正法眼蔵を語る」(対談相手は松岡正剛氏)、「文学について」「自著を語る「正法眼蔵の世界」」「自著を語る「正法眼蔵覚え書」」「寝ぼとけ」「十二巻本正法眼蔵について」からなる。
ただし、埴谷雄高氏の項と違い、こちらは私としても道元へのアプローチに関して発言したいことがあるので、この項について語るのは別の意味で難しい。
さて、石井氏と道元だが、氏は現代思潮社設立以前から道元(「正法眼蔵」)に関心をもち、自分なりに「正法眼蔵」を読んでいたという。 「私が「正法眼蔵」に親しんできたのは二十歳台以来のことだった。日本古典のうち、最難解をもって知られる「正法眼蔵」ではあるけれど、その明晰な弁証法的論理とともに、目眩くような「われという存在」と「生きるという時間」が透徹した万華鏡のように開かれる、美しく豊かな詩的イメージとリズム感あふれる名文の魅力は私を捉えて離さなかった。しかし、この道元の大著を注釈を付け現代文に翻訳して刊行することになるなどとは思いもよらぬことだった。そのきっかけは、故埴谷雄高氏が、ふとした機縁から私がそれまでメモしていた「正法眼蔵」の注と訳文の一部を読まれた直後に、「驚いた、もっと読みたい」と大声で電話されてきたことからであった。埴谷氏が対策「死霊」の第九章を執筆されていたさなかのことで、そのときの埴谷氏の激励が私に「正法眼蔵」の全訳を促した。」(自著を語る「正法眼蔵の世界」)
石井氏の「正法眼蔵」への傾倒は半端ではない。氏には、「注釈・現代訳 正法眼蔵」(河出書房新社、全五巻)、「現代文 正法眼蔵」(河出書房新社、全六巻)、「正法眼蔵の世界」(河出書房新社)、「正法眼蔵覚え書」(現代思潮新社)という注釈書・著書がある。
石井氏による道元思想の位置づけだが、「道元は日本曹洞宗を開いた人ですが、その思索を読むと、道元はインド仏教だけでなく密教もふまえていることがわかるんです」(「文字について」)、あるいは、「(禅の始祖)達磨という人は、真言密教を、それもずっと紀元前にまで遡って考えているのだろう。その教えが、六祖の大鑑慧能においてさらに独自の展開を遂げるわけです。そのなかに密教系のものが伝わる。それが(師の)如浄を通じて道元にもつながる。こういう道筋でないと理解がつかないんですね。私はそのように理解しています」(「正法眼蔵を語る」、括弧内は引用者・如月による補足)と、テクストそのものの読みから、普通の仏教史の専門家が思いつかないところ(密教)に結び付けて道元をとらえている点に、まず惹かれる。
ところで石井氏は、これを思想史のなかで孤立した解釈と考えているのであろうが、ここで私が言及したいのは、中世史研究者・黒田俊雄氏が提唱した「顕密体制論」と道元の結びつきという視点である。
黒田氏によって、まず「平安初期の天台・真言および南都仏教は、三大勢力を形成してたがいに抗争しながらも、「最後は密教の大潮流に合流して、台密・東密・南密(若し斯様な言葉が許されるならば)の三流となり了」り、「平安期の信仰は殆んど全く密教であり、密教の裏書に依って生命を保っている」さえいわれる状態になったのである。しかもこの密教化ともいうべき現象は、仏教だけのことではなかった」(「中世における顕密体制の展開」、「日本中世の国家と宗教」所収、岩波書店、1975年)という点が確認され、さらに進んで、通常浄土思想の影響拡大を中心に叙述される院政期から中世にかけての宗教界も、「十一世紀には顕密の一致・円融あるいは相互依存的な併存を最も妥当なものとみなす体制が確認されることになったといえる」(同前)と、密教を核にみていくべきことが提案されている。この「顕密体制論」を援用すれば、「歴史」のなかで密教思想と道元を結び付けて考え、道元思想のなかに密教の影響を読みとることになんら矛盾はないのである(註6)。少なくとも私はそう考えている。したがって、前方後円墳を持ち出したりする石井氏の「構造的」な道元思想の前史理解の方法には疑問を感じる。私はそれを、道元が生きた院政期の歴史をより実証的に見ていくなかで説明できるのではないかと考えているのだ。少なくともそれが、拙論「院政期社会の言語構造を探る」の最終的な意図の一つではある。
それはさておき、石井氏の道元テクストの読みそのものは非常に深い。以下にその一端を紹介しよう。
「例えば「光明」。この言葉にも、必ず闇黒が裏打ちされています。私がそれに気付いたのは、「光明巻」を読んでいたときなんです。色には赤白青黄黒の五色があるんですが、なぜか道元は「光明巻」では、引いた原典から黒を抜くんです。なぜかと読み進めましたら、その巻の後書にこういう意味を示唆する文章が置かれていたんです。「この光明という言葉は、闇黒に置き換えてもすべて通じる…」と。他の巻でも、いわゆる、この娑婆世界とか煩悩とかいった人生の火宅ですが、これを抜きにして覚りなんかあるわけがないと、考えてみろ、仏教だけを抜き出して火宅から抜け出られるなんてあり得ないだろ、と言っているんです」(「正法眼蔵を語る」)
この読みをさらにつきつめるとどうなるか。
「たとえば、「正法眼蔵」の光明巻、仏の光明、人間の光明、自己光明というものを全部裏返すんですよ。道元の自己光明の世界を、自己闇黒の世界にひっくり返すんです。仏性も魔性に転換・逆転する。魔性を見つめなければ仏性も見えませんからね、「仏界にも魔界にも活計する」という言葉を道元は何度も繰り返して用いています。そういう具合に「正法眼蔵」を読むと、これがサドになるわけ。面白いでしょう。僕は現代思潮社をやる前から「正法眼蔵」を読んでいたから、別に偶然でも何でもない。現代思潮社の石井が何で「正法眼蔵」の全訳などをするんだという向きがあるかもしれないけど、あれをひっくり返すと実はサドになってしまう」(「サド裁判と現代思潮社の時代」)
以上でもおわかり頂けるように、「花には香り本には毒を」には、さまざまなスタイルの文章および語りが並置されており、その意味では不統一であるが、内容のおもしろさはその不統一を補って余りある。巻末に1958年から92年まで現代思潮社が刊行した書籍の一覧がついているのも、石井氏の「思想」を語る本としては首尾一貫している。
ただし、それぞれの文章が書かれた時点でのアクチュアリティーをもつものでもあるだけに、初出が記していないのは画竜点睛を欠く。
【参照】
「澁澤龍彦の青春」〜「澁澤龍彦が見た18世紀思想界」(小サイト内)
平成15年6月27日