井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約

 以下、井筒俊彦氏の論考「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」を要約紹介します。引用にあたり、「あと」「もの」などに付された傍点はすべて省略しましたので、正確な表記は原著でご確認ください。またページは、当論考を最初に収載した著作『コスモスとアンチコスモスーー東洋哲学のために』(岩波書店、1989年)、井筒俊彦著作集第9巻『東洋哲学』(中央公論社、1992年)の順に併記してあります。



 華厳思想を語るにあたって、井筒氏は、まず、華厳的な思想はインド特有のものではなく、プロティノス(205年−270年、ヘレニズム期ギリシアの新プラトン派哲学者、イスラーム哲学に深く影響)、ゾロアスター、スフラワルディー(1154年−91年)やイブヌ・ル・アラビー(1165年−1240年)らのイスラーム思想、荘子の思想と共通点をもつことを強調する。

 「事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線ーー存在の「畛」的枠組みとでもいったらいいかと思いますがーーを取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
 「畛」的枠組みをはずして事物を見る。ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ。(中略)
 しかし、それよりもっと大事なことは、東洋的哲人の場合、事物間の存在論的無差別性を覚知しても、そのままそこに坐りこんでしまわずに、またもとの差別の世界に戻ってくるということであります。つまり、一度はずした枠をまたはめ直して見る、ということです。そうすると、当然、千差万別の事物が再び現われてくる。外的には以前とまったく同じ事物、しかし内的には微妙に変質した事物として。はずして見る、はめて見る。この二重の「見」を通じて、実在の真相が始めて顕になる、と考えるのでありまして、この二重操作的「見」の存在論的「自由」こそ、東洋の哲人たちをして、真に東洋的たらしめるもの(少なくともその一つ)であります。」(18〜9頁、130〜1頁)
 「「畛」すなわち事物相互を存在論的に分別している境界枠を、はずすとかはめるとか、口で言えば、すこぶる簡単なことのようですけれど、実際には非常にむつかしい。特に、はずすことがむつかしい。とても普通の人に出来るようなことではありません。ましてや、はずしてはめる、しかも両方を同時に行うことなど、問題外です。もともと華厳哲学の基礎となった『華厳経』の存在風景は、法身仏の、海印三昧と呼ばれる禅定体験のさなかに顕現した形而上学的ヴィジョンだ、といわれていることからもわかりますように、透徹しきった三昧意識の所産であって、普通の人間の表層意識的事態では全然ないからです。」(21頁、132〜3頁)

 論考のなかで、井筒氏が意図的に「東洋」を強調し、また仏教からではなく東洋思想全体の枠組みのなかから華厳を語り出しているのは、この論考がもともとスイスのエラノス学会で、仏教に対する基本的知識がほとんどない欧米人の聴衆を前にして行われた講演(講演者は、他に生物学のポルトマン、原子物理学のサンブルスキーら)だからである。ちなみに、井筒氏がいう「東洋」は、イスラーム思想はもとより、『旧約聖書』の世界やプロティノスを含む。

 「「事」的存在世界とは、前述のごとく、無数のものが、それぞれ(相対的に)他から独立しーーつまり、互いに相異しながらーー自立している分別の世界。様々に異なる事物が、緊密な相互連関性において日常的存在秩序をなしている。この存在秩序の成立根拠は、それを構成しているものが、それぞれ自立しているということです。AとBとが、互いに相異して、AはどこまでもAであり、BはどこまでもBであってこそ、AとBとの結びつき、存在秩序、というものが考えられるのですから。
 ものそれぞれの自立性。AをAたらしめ、AをBから区別し、Bとは相異する何かであらしめる存在論的原理を、仏教の術語では「自性(じしょう)」(svabhava)と申します。「空」の導入は、まさに存在のこの「自性」的構造の中核を破壊します。その意味での存在解体なのであります。『華厳経』のいわゆる「一切は、本来、空なりと観ず」とはそのこと。我々なら存在解体とでもいうところを、仏教は「一切皆空」と表現するわけです。」(23〜4頁、134〜5頁)
 「存在は、常識的には、それぞれが自己同一的に自立する無数の事物からなる「世界」という形の、がっしりした構造体として表象されているのですが、そこに「空」の覚知の光が射しこむと、今まで恒常不変であるかのごとく見えていたこの存在の分別的秩序が揺らぎだし、解体してしまう。(中略)
 存在解体の一応の終点と、今、申しましたが、事実、解体にはそのあとがあるのでして、実は、そこでこそ華厳哲学はその独自性を発揮するのであります。「理事無礙」と「事事無礙」も、すべて存在解体のあとの問題、存在解体の、いわば華厳的な後始末なのです。」(24〜6頁、135〜6頁)

 「この後始末を主題的に取り上げる前に、存在「空」化のもうひとつの側面、つまり、認識主体とそれの関わりという重大な問題がある」(26頁、136頁)として、井筒氏は、次に認識主体の問題を説明する。

 「存在を「空」的に見るためには、それを見る主体、つまり意識の側にも「空」化が起らなくてはなりません。意識の「空」化が、存在「空」化の前提条件なのであります。ここで「空」化されるべき意識というのは、普通、仏教で「分別心」と呼ばれている我々の日常意識のこと。「分別心」という表現そのものが示すごとく、そしてまた私が前節で縷々述べてまいりましたように、様々な事物のひとつ一つに「自性」を認めて分別し、存在を差異性の相において見ようとする日常的主体に深く沁みついた認識傾向を意味します。このような意識が「空」化されなければならない、というのであります。」(26頁、136〜7頁)
 「「妄念」、すなわち存在分別的意識は、一体、どこから起ってくるのか。この意識の成立の基盤をなす事物の「自性」妄想は何によって惹き起されるのか。先に私は、意識の「空」化が存在「空」化の前提条件であると申しましたが、意識の「空」化は、この問いにたいする正確な答が突きとめられないかぎり、実現不可能であるあるはずです。もし「自性」なるものが実存せず、従って事物の自己同一的実体性も存在論的虚像にすぎないとすれば、そもそも何に唆されて意識はそのようなものを分別し出すのか。それが重大な問題になってくるのであります。
 この問いにどう答えるか。答え方のいかんによって、哲学が決定的に性格づけられてしまいます。仏教にかぎらず、一般的に東洋哲学には、言語にたいする根深い不信があることは皆様ご承知のことと思いますが、この場合、華厳も、ナーガールジュナ(龍樹)以来の伝統に従って、言語を「妄念」の源泉と考えます。人間の意識の働きは、コトバによって根源的に支配されている。コトバというより、もっと正確には、「意味」の支配です。この点で、華厳哲学は、唯識派の言語哲学に全面的に依拠しております。」(27〜8頁、137〜8頁)

 ここで、唯識哲学の措定する意識構造モデルにおける深層領域「アラヤ識」(一切の存在者のもととなる「種子(しゅうじ)」を貯えている蔵識)が紹介されたあと、次のように続けられる。

 「深層意識的意味エネルギー(「種子」のこと;註・引用者)は、全体が一様に等質的な存在可能の流れではなくて、いわば、強弱いろいろに度合の違う凝固性の差異によって区切られているのが特徴です。なかでも特に凝固度の高いところは、「名」によって固定されて独立し、記号学のいわゆる「シニフィアン」ー「シニフィエ」結合体となって、表層意識で正式の言語記号として機能する。
 今日の記号論の常識からすれば、「シニフィアン」に裏打ちされない「シニフィエ」などというものは、理論的にあり得ないわけですけれど、唯識の「種子」理論を意味論的に読みなおすためには、それをいささか拡張解釈して、まだ「シニフィアン」を見出すに至っていない、潜在的、暗在的「シニフィエ」というようなものを措定して考えたほうがいい。要するに、まだ「名」によって固定されていない、凝固しかけの「意味」可能体が、「アラヤ識」のなかに、たくさん揺れ動いている、というわけです。」(29頁、139頁)
 「こう考えてみますと、「空」は本源的に存在の前言語的あり方であり、意識論的にも存在論的にも、「コトバ以前」でなければなりません。そして「コトバ以前」が、ここでは第一義的に「意味以前」として理解されなければならないということは、すでに述べたところから明らかであろうと思います。」(30頁、140頁)
 「存在「空」化の前提条件である意識「空」化は、従って、唯識哲学のコンテクストで申しますと、「アラヤ識」の「空」化ということになります。意識の「アラヤ識」的深層レベルにおける意味形象(=存在形象)の生成機能をぴたっと停止させてしまうこと。まがうかたなき「アラヤ識」の「無」化、「空」化です。唯識哲学では、しかし、これを「アラヤ識」の「空」化とはせずに、「アラヤ識」を「無垢識」に転成させること、あるいは、「アラヤ識」のさらに奥底に「無垢識」と呼ばれる絶対的深層レベルを拓くこと、というふうに考えます。(中略)
 ところが、意識の「空」化がここまで来て、存在が完全に「空」化されますと、そこに突然、実に意外な事態が起ってくる。つまり、今まで「三界虚妄」などといわれていた分別的存在世界が、逆に虚妄ではなくなってくるのです。
 元来、「無垢識」は「空」そのものであり、いわゆる根源的「無分別智」なのでありまして、もしこの識が何かを見るとすれば、「空」だけしか見ないはずです。ところが、この「無分別智」が、「無分別」的でありながら、しかも、様々に「分別」された存在世界を見る、ということが起る。」(31〜2頁、140〜1頁)

 以上で存在「空」化と認識主体との関わりについての考察を終え、井筒氏の叙述は「存在解体のあと」へと進む。

 「存在解体にはあとがある、と私は申しました。存在解体の後。前にも言ったことですけれど、大乗仏教にかぎらず、一般に東洋哲学の主流をなす思想伝統の根柢には、多くの場合、存在解体がありまして、それがいろいろな形で現われてきます。しかし東洋思想の立場から申しますと、存在解体そのものよりも、むしろ、存在解体の後で、一体、何が起るのか、ということのほうがもっと大事なのです。勿論、哲学的な存在ヴィジョンとして、ということですが。」(33頁、142頁)
 「存在解体のあとは、存在解体の跡を意味する、とも私は申しました。存在解体、すなわち存在「空」化は、禅定体験上の事実として、極限的境位においては、文字どおりの「空」(虚空)であり、一物の影もとどめぬ絶対「無」であるにしても、一瞬の閃光にも比すべきこの存在の絶対的「空」化体験に続いて成立する「空」意識にとっては、解体されつくした存在の残す崩れ跡が、ありありと見えてくるのであります。」(34頁、142〜3頁)

 このような見地に立って、「空」をもう一度見なおしてみると、「空」が決して単純に存在否定的ではなくて、存在肯定的であることがわかってくるという。

 「「空」は、元来、字義そのものからして、何もない、がらんどう、ということで、存在の全面的否定です。しかし「空」には、同時に、存在肯定的側面がある。絶対的な「無」には、絶対的であるだけにかえって「有」に向う顔がある、とでも申しましょうか。『老子』の一節に言われているとおりです。「天地の間は、其れなおタク籥(ヤク)のごときか。虚にして屈きず、動いて、愈出づ」(天地之間、其猶タク籥乎。虚而不屈、動而愈出)、と。天と地の間(全宇宙)にひろがる無辺の空間は、ちょうど(無限大の)鞴(ふいご)のようなもので、中は空っぽだが、動けば動くほど(風が)出てくる、というのです。
 仏教の「空」の構想にも、この点では、これとまったく同じ考え方が働いています。」(35頁、143〜4頁)
 「同じ「空」哲学でも、「真空」的側面に力点をおくか、「妙有」的側面を前方に押し出すかによって、存在論の構図が著しく変ってきます。華厳哲学は、その中心部分をなす存在論において、後者の立場を取る、つまり、根本的に「有」的であり、存在肯定的であります。但し、存在肯定的とはいっても、一度完全に「空」化され解体された存在の肯定しなおしなのであって、解体以前の素朴な日常意識の存在肯定とは、まったく思惟レベルが違います。意味的虚構としての「自性」を取り去られ、実体性を奪われた事物がどんな新しい秩序を構成するか、それが華厳的存在論のテーマなのでありまして、要するに、さっきお話した「存在解体のあと」の存在論です。」(36頁、144頁)

 「妙有」的側面が脚光を浴びて前に現われ、「真空」的側面が背後の闇に隠れる場合、「空」は、強力な存在肯定原理として機能しはじめる。

 「元来、存在「無」化のプロセスの終点として現成した「空」が、今度は、かぎりない存在エネルギーの創造的本源として、積極的に働きだすことになる。そのような形で、否定から肯定に向きを変え、「有」的原理に転換した「空」を、華厳哲学は「理」と呼びます。「理」は「事」と対をなして、華厳的存在論の中枢をなす重要な概念です。
 しかし、たとえ「理」という仮面をつけて哲学的思惟の舞台に登場しても、「空」は以前として「空」。そして、「空」は「空」であるかぎり、存在否定的性質を失うことはないはずです。「理」における「空」のこの否定的契機は、存在論的無分別(無分節)という形で保持されます。すなわち、「空」は、ここでは、「コトバ以前」、つまり、コトバの深層的意味エネルギーによる存在分節の前、という資格で現われてくるのです。
 「コトバ以前」ということ自体は、前に存在「空」化のプロセスをご説明した時、触れました。が、あの場合と今の場合とでは、その方向性が根本的に違います。前のコンテクストでは、「無分節」は「無」を意味した。絶対無分節、一物も分別、分節されていない、従って何ものも無い。ところが、今の場合では、無分節は、すなわち、分節可能性です。絶対無分節は、無限の分節可能性。先刻、『老子』の宇宙的鞴の比喩に関連して申し上げたことを思い出していただきたいと思います。それ自体が完全に中空で、からっぽだからこそ、動けば動くほど、かぎりなく風が出てくる。「空」(=「理」)は、絶対無分節であるからこそ、無限に自己分節していく可能性でもある。まだ何ものでもないから、かえって、何ものにもなれるのです。」(36〜7頁、144〜5頁)
 「このように考えられた「空」が、すなわち、華厳哲学の「理」。無限の存在可能性である「理」は、一種の力動的、形而上的創造力として、永遠に、不断に、至るところ、無数の現象的形態に自己分節していく。無分節の存在エネルギーが自己分節することによって成立するそれらの現象的形態のひとつ一つが、それぞれもの(「事」)として我々の目に映じるのです。「空」(「理」)の、このような現われ方を、華厳哲学の術語で「性起」と申します。」(38〜9頁、146頁)

 「理」の様々な自己分節は、存在世界、万象差別の世界を現出するもの、つまり、一切存在の根基であり根源である。

 「絶対無分節者の自己分節などと申しますと、あたかも「理」が無数に分裂してばらばらになるかのように聞えるかもしれませんが、無論、そんなことはあり得ません。もともと「分節」とか「(妄)分別」とかいうのは、すでにご説明しましたように、窮極的には、我々の意識の深層領域にひそむ様々な「意味」的「種子」の喚起する虚構の区別にすぎないのですから、現象界にどれほど多くの事物の形姿が分節し出されましょうとも、その源になる「理」そのものにはなんの変化もない。前にもちょっと出しましたが、仏典でよく使う通俗的な比喩で申しますなら、海面に立ち騒ぐ波浪と海水そのものとの関係のようなもの。どんなに多くの波が、現に、水面上で分節差別されていても、水それ自体は常に平等一味、というわけです。この意味で、「理」は、虚空が一切処に遍在しながら無差別不分であるごとく、「遍一切処、恒常不変」といわれます。
 「分節」ということを、以上のように理解した上であれば、我々は安んじて、こう言うことができると思います。「理」は、本来、絶対無分節であるが、しかも現象的には千差万別に分節されて現われる、と。」(39〜40頁、147頁)
 「このように、本来は絶対的に無分節である(すなわち「空」である)「理」が、一切のもの、ひとつ一つのものという形で、自己分節的に、現象してくる。そこに、我々が通常、「現実」とか経験的世界とか呼び慣わしている現象的存在次元、森羅万象の世界が生起する。要するに、「理」の「事」的顕現です。それを華厳では「性起」という術語で表わすのであります。
 「性起」の意味を理解する上で、華厳哲学的に一番大切な点は、それが挙体「性起」であるということです。つまり「理」は、いかなる場合でも、常に必ず、その全体を挙げて「事」的に顕現する、ということ。だから、およそ我々の経験世界にあるといわれる一切の事物、そのひとつ一つが、「理」をそっくりそのまま体現している、ということになります。どんな小さなもの、それがたとえ野に咲く一輪の花であっても、いや、空中に浮遊する一微塵であっても、「理」の存在エネルギーの全投入である、と考える。これが華厳哲学の特徴的な考え方であります。(中略)
 以上で、「理」と「事」との関係がどのようなものか」、ほぼおわかりいただけたことと存じます。今お話したような形而上的プロセス、あるいは出来事、によって、存在の「事」的次元が現象する。「事」は存在の差別相であり、事物分節の世界。この分節の世界は、「分節以前」としての「理」を、己れの現出の本源として反照する。この「理」「事」関係を、より華厳哲学的な言葉に写し取ってみれば、次のようなことになるでしょう。すなわち、「理」はなんの障礙(さまたげ)もなしに「事」のなかに透入して、結局は「事」そのものであり、反対に「事」はなんの障礙もなしに「理」を体現し、結局は「理」そのものである、と。「理」と「事」とは、互いに交徹し渾融して、自在無礙。この「理」「事」関係の実相を、華厳哲学は「理事無礙」という術語で表わすのです。」(40〜2頁、148〜9頁)

 次に、「事」の「自性」喪失が、存在論的にはどれほど根本的に重大なことであるかが明らかにされる。

 「すべてのものが無「自性」で、それら相互の間には「自性」的差異がないのに、しかもそれらが個々別々であるということは、すべてのものが全体的関連においてのみ存在しているということ。つまり、存在は相互関連性そのものなのです。根源的に無「自性」である一切の事物の存在は、相互連関的でしかあり得ない。関連あるいは関係といっても、たんにAとBとの関係というような個物間の関係のことではありません。すべてがすべてと関連し合う、そういう全体的関連性の網が先ずあって、その関係的全体構造のなかで、はじめてAはAであり、BはBであり、AとBとは個的に関係し合うということが起るのです。
 「自性」のないAが、それだけで、独立してAであることはできません。それはBでもCでも同様です。「自性」をもたぬものは、例えばAであるとか、Bであるとかいうような固定性をもっていない。ただ、かぎりなく遊動し流動していく存在エネルギーの錯綜する方向性があるだけのこと。「理」が「事」に自己分節するというのは、ものが突然そこに出現することでなくて、第一次的には、無数の存在エネルギーの遊動的方向線が現われて、そこに複雑な相互関連の網が成立することだったのです。(中略)
 従って、例えばAというもののAとしての存立には、BもCも、その他あらゆるものが関わっている。Bというもの、Cというもの、その他一切、これとまったく構造は同じです。結局、すべてがすべてに関わり合うのであって、全体関連性を無視しては一物の存在も考えることができない。」(47〜8頁、153〜4頁)
 「ある一物の現起は、すなわち、一切万法の現起。ある特定のものが、それだけで個的に現起するということは、絶対にあり得ない。常にすべてのものが、同時に、全体的に現起するのです。事物のこのような存在実相を、華厳哲学し「縁起」といいます。「縁起」は、「性起」とならんで、華厳哲学の中枢的概念であります。
 「縁起を見る者は空見る」という龍樹の有名な発言からもわかりますように、「縁起」は、「空」哲学としての大乗仏教の、そもそもの始めから、決定的に重要な働きをしてきた鍵概念であったのです。(中略)要するに、現象的存在次元に成立する事物相互間の差異性、相異性(分別、意味分節、存在分節)を、その本来の「空」性の立場から見たものを「縁起」とするのです。
 こう考えてみますと、「性起」と「縁起」、これら華厳哲学の二つの重要な術語が、ほとんど同じ事態を指示するものであることにお気づきになるでしょう。同じ一つの存在論的事態を、「性起」は「理事無礙」的側面から、「縁起」は「事事無礙」的側面から、眺めるというだけの違いです。」(49〜50頁、155〜6頁)
 「華厳哲学の、このような「縁起」的思惟パターンは、事物の生成現起を、原因・結果の関係で説明するアリストテレス的思惟パターンとは、全然その性質を異にするものです。(中略)
 結果から出発してそれの原因に至り、そこからまたその前の原因に、という上昇コースを取るにせよ、逆に「第一原因」から出発して結果から結果へ、という下降コースを取るにせよ、いずれにしても、この思惟形態は一本線的な考え方です。これに反して華厳の「縁起」は、複線的。というより、かぎりなく重なり合い、かぎりなく錯綜する無数の線の相互連関的網目構造を考えるのです。すでになんべんも言いましたように、Aという一つのものの存在を説明するのに、A以外のものの同時的参与を考えるのです。
 従って、また、こうして現起する存在世界には、中心というものがない。無中心的、または脱中心的世界です。もし「中心」というなら、どこにでも中心のある世界、と考えてもいい。Aを取ればAが宇宙の中心、Bを取ればBが宇宙の中心、というふうに。あるいは、全体がそっくりそのまま中心である世界、とも言えるでしょう。しかし、それは、結局、無中心と同じことです。もともと、存在解体、存在「空」化、とは、存在の無中心化ということでもあったのです。そんな無中心的純粋関連性の、力動的で遊動的な構造体として、華厳は存在世界を見る。そして、そのような形で見られた存在世界の構造的特徴を、「事事無礙」という言葉で記入し、存在テクスト化するのです。」(51〜3頁、157〜8頁)

 最後に井筒氏は、「華厳が考えている存在関連は、たんにすべての事物が相互につながっている、というだけのことではありません。もっと重要なことは、すべてのものが、相互滲透的に関連し合っている、ということなのです」(54頁、159頁)としたうえで、「事事無礙」がどんな存在論的事態を指すか、華厳的存在ヴィジョンに密着した形で叙述しなおす。井筒氏が取り上げるのは、次の二つのアプローチ。

 @は「鏡灯の比喩」。
 Aは「有力」「無力」の原理に基づく「主伴」の論理。
 井筒氏によれば、鏡灯の比喩は事事無礙のイマージュ的再現、「主伴」の論理はそれの構造理論的解明ということになる。

 まず、鏡灯の比喩。
 「今、一つの燭台を真中にして、全部がそれに面を向けるような形で多くの鏡を設置するとします。燭台に火を点ずるとともに、すべての鏡がその火を映して一時に輝きだす。それと同時に、ひとつ一つの鏡に映る火が、他のすべての鏡に映り、各々の鏡が、すべての鏡に映った火をーー自分自身に映る火が自分以外のすべての鏡に映っている、その火をも含めてーーかぎりなく映していく。と、いう具合に、鏡は鏡を映し、火は火に照らし照らされて、その相互映発は、どこまでも続く。こうして、多くの鏡に映る一つの光が、無数の光に分れ、それらの光は重々無尽に交錯しつつ、無限の奥行きをもった光の多層空間を作り出していくのであります。」(55〜6頁、160頁)

 第二に、「有力」「無力」の原理に基づく「主伴」の論理。
 「元来、この「有力」「無力」という概念は、法蔵自身の思想体系のなかでは、領域的にかなり限定された形で使われているものです。つまり、すべての存在者について、「体」(そのもの自体)と「用」(それの機能)と、の二面を分け、「有力」「無力」を、特に後者、すなわちものの働きの面、における原理とするのであります。すべてのものは、互いに機能的に「有力」「無力」の関係に立つ。しかも、その関係は、どれが本来的に「有力」でどれが本来的に「無力」、というふうに固定されることなく、「有力」「無力」、相互に転換し合って融通無礙である、という。しかし私は、ここで、この重要な二概念の含意を、純存在論的に読み取って、現象界における存在の構造そのものの理論的基底として組み立てなおしてみたいと思うのです。
 今、仮に、ABCという三つのものーー具体的には、例えば「鳥」と「花」と「石」ーーがあるとする。すでにご説明した「性起」と「縁起」の原理によって、ABCが、いずれも、「空」の「有」的側面である絶対無分節者の分節的現起の形であること、そしてまた、その限りにおいて、ABCが、それぞれ違うものでありながら、しかも互いに相通して、円融的に一であることは、明らかでありましょう。と、いうことは、すなわち、ABCは、いずれも、まったく同じ無限数の存在論的構成要素(abcde…)から成っている、ということにほかなりません。A=(abcde…)であるなら、B=(abcde…)であり、Cも同じ。
 すべてがすべてを映現する、あるいは一一のもののなかに全宇宙が含まれている、という鏡灯的「縁起」の原則によって、これらの存在論的構成要素(abcde…)は、ABCのどの場合においても、全部が一挙に起り、互いに交流し、渉入し合いながら、Aを現成させ、Bを現成させ、またCを現成させていく。
 存在を記号化し、ものをすべて、記号的機能性において把握しようとする現代の記号学の立場で考えるなら、今ここで問題としている存在論的状況では、Aは「シニフィアン」、(abcde…)はその「シニフィエ」ということになりましょう。つまり、「シニフィアン」A−「シニフィエ」aというような、単純な一対一の記号構造ではない、ということです。たしかに、常識的な存在観に基づく記号学では、事態は、原則として、このように単純化されて呈示されるでしょう。しかし、華厳的記号学ーー仮にそのようなものがあるとしての話ですがーーでは、記号化されたものの存在論的意味構造は、「シニフィアン」A−「シニフィエ」(abcde…)という形を取る。しかも、「シニフィアン」は違っても、「シニフイエ」のほうは、いつも同じ(abcde…)なのです。
 複合的「シニフィエ」の構成要素は、どの場合でも、まったく同じであるのに、「シニフィアン」はAであったり、Bであったり、Cであったりする。どうして、そんなことが起るのか。「シニフィエ」がまったく同じであるのに、どうして、AはAであってBでもなくCでもないというようなことがあり得るのか。我々がこう問う時、そこに「有力」「無力」の概念が導入されるのです。
 すべてのものが、みな同一の複合的構成要素から成るとはいえ、それらの相互の間には、常に必ず「有力」「無力」の違いがある、と華厳哲学は考えます。構成要素群のなかのどれか一つ(あるいは幾つか)が「有力」である時、残りの要素は「無力」の状態に引き落とされる。「有力」とは積極的、顕現的、自己主張的、支配的ということ。従って、「無力」とは、勿論、消極的、隠退的、自己否定的、被支配的であることです。「有力」な要素だけが表に出て光を浴び、「無力」な要素は闇に隠れてしまう。普通の人には、「有力」な要素だけしか見えない。しかも、(abcde…)のうち、どれが「有力」の位置を占めるかは、場合場合で力動的に異なるのです。つまり、「性起」の仕方、無分節者の自己分節の仕方、が場合場合で違う。この存在分節の違いは、ひとえに、どの要素が「有力」的に現起し、どれが「無力」的に現起するか、によって決まる。「有力」的に現起したものは主となり、「無力」的に現起したものは従となる。それがすなわち「主伴」の論理であります。
 AがAであってBやCでない、BがBであってAやCとは違う、云々という、もの相互間の存在論的差異性は、「主伴」論理によって支配されます。すなわち、AがAであるのは、その構成要素(abcde…)のうち、例えばaが「有力」で、b以下すべての他の要素を「無力」化してしまうからであり、BがBであるのは、例えばbがたまたま「有力」で、そのために、Aの場合には「有力」であったaも含めて、残りの要素が全部「無力」状態に置かれるからである、と考えるのです。まったく同じ構成要素を共通にもちながら、ABCが互いに違うものであるという、一見奇妙な事態が、こうして説明されます。
 すべてのものは、結局、それらの共有する構成要素の、「有力」「無力」的布置いかんによって、それぞれのものである。としますと、それらのもの相互の間に、「事事無礙」的関係が成り立つことは明らかです。「無礙」とは、もともと障礙(さまたげ)がないということなのですから。AはAでありながら、BでもありCでもある、それでいて事実上はAであって、BでもなくCでもない。こんな存在論的境位では、すべてのものが互いに融通無礙であることは当然ではないでしょうか。差異がないわけではない。しかしその差異は、いわば透き通しの差異なのです。」(57〜60頁、161〜3頁)

 以下、井筒氏による華厳的「事事無礙」の総括である。
 「「無力」な要素が見えないといっても、それは我々普通の人間の場合のことで、仏教の語る仏や菩薩たち、つまり前にお話した「複眼の士」には、ものの「無力」的側面も「有力」的側面も、同時に見える。我々の認識能力は、何を見ても、それの「有力」的側面だけに焦点を絞るようにできているので、「無力」的側面は完全に視野の外に出てしまうのですが、「複眼の士」の目には、常に必ず、存在の「無力」の構成要素を、残りなく、不可視の暗闇から引き出してきて、いかなるものをも、「有力」「無力」両側面において見ることができるのです。このような状態で見られた存在世界の風景を叙して、華厳は、あらゆるものが深い三昧のうちにある、というのであります。」(61頁、157〜8頁)

 井筒氏の論考「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」は、次に後半のイスラーム神秘主義の思想家イブヌ・ル・アラビーの「存在一性論」の分析およびこれと華厳思想の比較にむかうが、その紹介はすべて省略し、論考全体の結論に飛ぶ。

 「我々が、東洋的世界に古来現われた様々な思想伝統を、全体的に見なおし、「読み」なおそうと望む場合、このような「存在解体のあと」的考え方を、予め一つの根源的思惟パラダイムとして、立ててみることも、少からず有効な思想的戦略となるであろう、と私は思います。
 東洋哲学の諸伝統を、個々別々に研究するだけではなしに、それら全部を、幾つかの根源的思惟パラダイムに照らして「解釈」しなおしてみる。その時、東洋哲学の全体像を探る我々の目に、ある新しい地平が現われてくるのではなかろうか。今、私はそんなふうに考えているのであります。」(101〜2頁、195頁)