蓮と法華経――その精神と形成史を語る

松山俊太郎著
第三文明社、2000年

 インド学研究者・松山俊太郎氏が「法華経」の思想と構造について自由に語った「蓮と法華経ーーその精神と成立史を語る」(以下「蓮と法華経」と略す)を読んだ。以下で試みるのは、まずだいいちにはその要約とそれに関する私見の披露だが、あわせて、平安時代初期の日本における「法華経」信仰の受容史について、黒田俊雄氏の論考「中世における顕密体制の展開」(初出「日本中世の国家と宗教」、岩波書店、1975年、その後「黒田俊雄著作集第2巻/顕密体制論」、法蔵館、1994年に所収)をベースにして、私なりにいささか考察してみたい。

1)法華経の成立

 最初に、「蓮と法華経」を読むにあたり必要最低限の「法華経」についての知識を、岩本裕氏による岩波文庫「法華経」(岩波書店、1962年刊、1976年改版)の解題から、あらかじめ補っておこう。
 まず「法華経」成立の時期であるが、岩本氏は、布施浩岳氏の「法華経成立史」から次の説を紹介している(註1)。

  1.原始法華の成立は西紀前一世紀
  2.第二期法華の成立は西北インドに於いて西紀後一世紀
  3.第三期の成立は西北インドに於いて西紀100年前後
  4.第四期の成立は西紀150年前後

 岩本氏は、次に「大乗仏教の成立史的研究」付録から中村元氏の所説を引いている。曰く、「「法華経」の信解品に金融資本家が登場するところから、インドの貨幣経済の進展と比較勘案して、法華経成立年代の上限を約西紀40年とし、嘱累品第22までの部分は40−220年の間に成立した」。
 最後に「日本の仏教」から渡辺照宏氏の所説を挙げ、それを、「「法華経」自体の極端な賛美と、この教典を受持する者の功徳と同時に、それを貶す者の受くべき迫害が「法華経」の中に詳しく述べられている事実を指摘して、これらのことから「この教典の成立の事情」が明らかにされる」と要約する。
 要するに、「法華経」は大乗仏典としても比較的早い時期に成立し、150−200年程度の時間をかけて増補されたものと考えられる。一方それを信奉していた集団は、初期大乗教団とはやや異質なグループで、大乗教団本流との論争・迫害のなかで「法華経」を受持していた。このため、「法華経」の偉大さをいやがうえにも強調する必要があり、それが教典の増補・拡大とつながったと考えられるのである。
 なお、西暦286年に、竺法護が「法華経」の漢訳「正法華経」をあらわしており、この時点までにインドで「法華経」原典が成立していたことは動かない。

2)法華教団の性格

 大乗教団の内部対立と法華経成立史は、密接な関係をもつ。
 「講座・大乗仏教4ーー法華思想」(春秋社、1983年)に収められた「大乗仏教における法華経の位置」のなかで、平川彰氏は次のように述べている。
 「インドに大乗仏教が興った最初は、大小対立の大乗であったろう。「大乗」という言葉が、そのような価値的な意味、優越的な意味を含んでいると思う。しかるにこの「大乗」の語は、大乗教典の最古の成立と見られる「道行般若経」の「道行品」にすでに現れている。「道行品」では「摩訶衍」という音訳語で示されているから、その原語が「マハーヤーナ」(Mahayana)であったことは明らかである。しかし大乗に対する「小乗」(Hinayana)という言葉は成立がおくれる。「小乗」という語は「道行般若経」には見当たらない」(平川彰氏、上掲論文)
 平川氏によれば、阿羅漢法・辟支仏法と菩薩法の三区分は「道行般若経」にすでにみられるものであり、これがしだいに阿羅漢(声聞)・辟支仏(縁覚)といういわゆる「小乗」と「大乗」の成仏への道の相違として位置づけられ、あわせて「小乗」という言葉も成立してくる。ところが「法華経」は、こうした三乗の対立を乗り越え、最終的にはすべての立場が成仏阿へつながるものでありこれこそ真の「大乗」である(一乗)とするところから、大乗と小乗を対立的に考える既存の大乗教団と鋭く対立するに至るのである。
 なお平川氏は、内容的に「仏教思想を空の系統と有の系統に分けるとすれば、法華経は有の系統に属するというべきであろう」(同論文)と分類しており、この点もあらかじめ指摘しておかなくてはならない。平川氏によれば、「法華経が有の立場に立っていることは、法華経に「空」の教理がきわめて少ないことからも考えられる。法華経には、空の思想は断片的に見られる程度」(同論文)なのであり、それは、「法華経が「信」を重視することにも関係がある」(同論文)という。これをつきつめていくと、「法華経の前半の「一乗」の思想にしても、後半の「仏身常住」の思想にしても、「実在」に立脚する思想である。そこにはまだ「仏性」が明確に打ち出されてはいないが、発展すればこの思想になっていくものと考える」(同論文)ということになる。この点にも初期大乗教団と法華経信奉グループの思想的な対立が存する。
 要するに、原始法華経グループは強烈な釈迦信仰、翻っては釈迦の説いた「法」信仰の人々だったのである。

3)「蓮と法華経」

 以下、「蓮と法華経」の具体的な読みに入る。
 はじめにお断りしておくが、この本は編集者とのインタビュー形式をとっているので、通常のかたちでの要約や逐語的な引用はかなり難しい。松山氏の発言を私なりに要約しながら、ところどころに引用をはめ込むかたちの記述となるのをお許しいただきたい。

 さて、「蓮と法華経」全体は、@蓮の研究と「法華経」をめぐって、A法華精神を探る、B各品の難所を読むーーの3章からなる。
 まずは第一章「蓮の研究と「法華経」をめぐって」をみていこう。
 冒頭、「妙法蓮華経」の経題、サッダルマ=プンダリーカ(Saddharmapundarika)の解釈が次の5つに要約される。
  @白蓮華のような妙法
  A妙法すなわち蓮華
  B妙法の体現としての白蓮華すなわち釈尊(=妙法蓮華すなわち釈尊)
  C「法華経」の精神を実践する信者すなわち妙法蓮華
  D森羅万象すなわち妙法蓮華
 そのうえで松山氏は、「古代のインドの「法華経」の秘奥への参入を許された信者にとっては、Bの見解が基本であり、それが「法華経」形成の構想力の一大要素として作用した証拠が、「法華経」自体の中にありありとしている」(松山俊太郎氏「蓮と法華経」)と主張する。ただし、「法華経」のなかで蓮もしくは白蓮に対する言及は極めて少なく、「妙法蓮華経」というのは、なぜそういう題名がついているのか、気になりながらもなかなか見抜けなかったという。
 その読解のきっかけとなったのが、「見宝塔品」に登場する多宝如来は紅蓮に相当するのではないかという発想であり、松山氏は、そこから白蓮と釈迦の関係を読み解いていく(註2)。
 すなわち、多宝如来はラクシュミーあるいはシュリーという、仏教では吉祥天になっている女神が如来に変容した形であり、「法華経」における釈迦はヒンドゥー教のヴィシュヌ神に対応する。すると次に、ラクシュミーは基本的には「大地母神」であり、ヴィシュヌは太陽の照らす作用の神格化であるという対応関係がみえてくる。インドではプンダリーカは太陽の象徴として使われ、古ウパニッシャッドでも、「汝は天空における唯一のプンダリーカなり。願わくは我をして地上における唯一のプンダリーカたらしめよ」といった文言が出てくることが、この読解を補強する。
 また一方で松山氏は、「見宝塔品」の宝塔さらには多宝如来をアショーカ王の柱の伝説と関連するものと考えており、これはペルセポリスの宮殿の柱を媒介にエジプト伝説までつながるとする。すなわち、「太陽神の性格をもつホルスが朝になると睡蓮の上に座っているのが昇っていって、夕方になると別の睡蓮におりて、それがまた夜の間にこっちに回ってきてまた上る」(同上)というイメージが「法華経」のなかにも伝播・継承されているのではないかという。
 これらの説を要約すると、「インド内外の補助的資料の光に照らされた、<アショーカ王柱>は、@<柱=蓮茎(=塔となりうる)>、A<蓮弁=蓮女神(=多宝如来となりうる)>、B<法輪=日輪=仏陀>、C<湖(海)>という、四つの要素を備えていることを、衆目に示して」(同上)いることになり、なかでも「@〜Bが「見宝塔品」を構成するための必要条件を充たす」(同上)という。

 次に第二章「法華精神を探る」を読む。
 「法華経」は、釈迦が「法華経」で説いていることを心から信ぜよということをもっとも重視しているが、知による無明の根絶を不可欠とするそれまでの仏教とはつながらない。釈迦がいなければ「法華経」もできなかった(説かれなかった)という意味で釈迦仏教の延長上にあることは間違いないが、ダルマ(狭い意味での妙法である以前の、森羅万象を成り立たせて、われわれも構成要素であるダルマ)に対する信頼感を徹底的にもつことで「法華経」精神が成り立つ。
 したがって、インドから発生したという意味からも、「法華経」精神はブラフマン(梵)とアートマン(我)の合一という考え方と似てくる部分があるが、「法華経」は、「個々の今いる命の一つ一つが主体的に何かやることが大事だ」(同上)と明言しており、古代的なアートマンがブラフマンの中に吸収されてしまえばいいという説明よりは、遙かに積極的だ。
 ところで「法華経」の構造だが、太陽でも白蓮でも、今ある以上どんな昔にもあったし、どんな未来にもあり続けるということは、釈迦と白蓮あるいは日輪を同一視するいう基本の考えを一言教えてもらえば、すぐ納得がいく。しかし実際の「法華経」では、釈迦と多宝如来が白蓮と紅蓮の関係にあるといったことは、ちょっと読んだり聞いたりしただけではわからない。ここから、松山氏は、「「法華経」というのは最初から秘密教だった」(同上)という結論を導き出す。すなわち、「その人の性根を見分けて、これには教えてもいいという人に教えると、すべてがすっきりしてくるというところがあった」(同上)という。
 「だから、文章に残っている「法華経」というのは、そういう防衛装置がいっぱいついているお経じゃないかと。そういうのを密教というと混乱するけど、一種の秘密教の要素があって、そこで”サンダーバーシャ”という言葉がしょっちゅう出てくるんじゃないでしょうか。
 ”サンダーバーシャ”というのは何かというのが問題になるけれど、漢訳で「随宜所説」というんでしょう。とにかく、その「随宜所説」が何かということは「法華経」の中に書いてないし、また、「法華経」じゃなくても、「随宜所説」ということをいうわけですよ。だから、インド全体でいえば、ウパニシャッド的な、ごく信用できる者だけに核心を伝えるということがあったと思うんですけどね(註3)。
 ただ、「法華経」で”サンダーバシャ”=「秘密の教え」という言葉を使っているのは前半であって、「見宝塔品」以後では用いていないと思いますが、私が「法華経」を秘密の教えというのは、「随宜所説」ではなくもっと本質的な秘密の教えだからです。つまり、普通に読んだのではまったく表面的な理解しかできないけれど、法師に解説のカギを与えられて読むなり、聞くなりすれば、一挙にその真理が了解されるという特別の仕掛けをした文章で伝えられた教えなのです。その教えの核心は、”妙法蓮華”がまず第一義として、何を意味するのかということにかかわっていることはいうまでもありません。」(同上)

 第三章「各品の難所を読む」では、問題がかなり細部に入りこむので、全体の要約は断念し、とりあえず、以下に内容目次を掲げる。
 1.「無量義経」から「序品」へのつながり
 2.「見宝塔品」の宝塔の出現をめぐって
 3.「提婆達多品」の<竜女成仏>と<文殊師利>
 4.「従地涌出品」で出現した<地涌の菩薩>
 5.「如来寿量品」における<釈尊の寿量>
 6.「法華経」の特異性
 このなかで、前章では取り上げられなかった最も大きな問題が出てくるのは「5.「如来寿量品」における<釈尊の寿量>」の部分であるので、第三章はこの部分を中心にみることとし、その要約から結論にあたる「6.「法華経」の特異性」に移ることとする。

 通常、「如来寿量品」の内容と特徴は、次のようなものとされる。
 「世尊は成道以来わずか四十余年にすぎないが、その間にどうしてこのように無数の菩薩を教化しえたのか、この疑問を解決して、如来の常住不滅を説くのが「如来寿量品第十五」である。すなわち如来の永遠の存在という、第二類諸品の中心思想が説かれるのである」(望月良晃氏、「法華経の成立史」、「講座・大乗仏教4ーー法華思想」所収)
 歴史上実在の釈迦の入滅は、インドの初期仏教徒にとっては最大の事件だった。「仏教徒の大勢としては、<仏滅>の事実を認めざるをえなかったために、まず、<仏>は滅んでも<法>は存続すると期待する人々が現れ、ついで、<仏舎利塔>を崇拝する教団が興り、やがて<他世界仏(阿弥陀)>や<法身仏(毘盧遮那)>などへの信仰が生じたと思われます」(松山俊太郎氏「蓮と法華経」)。しかし釈迦示滅ののち数百年を経ても、釈迦のほかには自分たちの<仏陀>を認めないという追慕者がおり、「かれらの中から<釈尊不滅>を主張する動きが出てくるのは当然で、「法華経」の作者たちは、もっとも有能・強力な一派だったのだと考えられます」(同上)という。
 「如来寿量品」は、第一義的には如来(釈迦)の常住不滅を説くものであるが、「<歴史上の釈尊>の教法は、<真の自説>がいかなるものであったか確定できないほど不明であり、その事跡は、あまりにも神話化されて<実情>の機微を知ることができません。ですから、<釈尊崇拝>は、ある特定の教典が述べる釈尊を対象とするか、いろいろの教典からの印象をまとめた<総合的な釈尊像>を対象とするかの、いずれかになります」(同上)。
 こうしたなかで、傑出した人物のみが<見仏>体験によって釈迦と一対一の面晤を行ったするが、松山氏は、「その中で最高・最大の偉人はーーわたくしのような者が断言するのは不遜ながらーー日蓮に決まっています」(同上)という。そして、「日蓮により千余年を経て復活・発展した、<実践的法華信仰>に生きる人々の、<人格的崇拝>の対象が、釈尊から日蓮に移るのは、自然のなりゆき」(同上)と指摘する。
 如来の寿量という主題を扱うことから時間(歴史)の問題が入り込んでくる「如来寿量品」には、先行する諸品で明確にされないまま持ち越された問題を解決しようという意図もみられる。こうした問題のなかで松山氏がもっとも大きなものとするのは、次の3点である。
  (イ)最初の「法華経」は、いつ、だれによって作られたのか。
  (ロ)「法華経」の最初の説法者は、だれなのか。
  (ハ)釈尊は、いつ、最初に「法華経」を知ったのか。
 しかし、「法華経」を「何度読み返しても、これらに対する解答は見当たりません」(同上)。そこで答のない理由を探し求めながら、まず(ハ)の疑問に関して、「釈尊を天文学的な過去に成仏したとしながらも、なおかつこのことにふれないのは、そんな問題が無意味なほど、「法華経」を桁違いに古いものだとしたいからなのだ」(同上)という着想を得たという。すなわち、「作者たちは、「法華経」が、既知のいかなる仏の在世時より古くから説かれた、由緒の正しい聖典であり、したがって、<もっとも根源的な真実>を明かしている無比の法門なのだと暗示している」(同上)と受け取らざるをえないとする。したがって、「ほかならぬ「法華経」の<教主・主役>である<釈尊>といえども、「法華経」の<引き立て役>を努めている」(同上)のだ。
 こうして(ハ)に対する無解答が故意なのであれば、(イ)と(ロ)も同様なのではないかと思えてくる。「しかし、(イ)の場合は、答を<言わない>のではなくて、<言えない>性質のものであることを示しているのかも知れない」(同上)という考えが思い浮かぶ。「つまり、<最初の「法華経」>は、仏陀や法師が作ったものではなく、無始以来、<ダルマ(実在)>として存在していた可能性があるということに気が付いたわけです。<最初の「法華経」>が無始以来のものであれば、(ロ)の疑問などは、取るに足りないものになりさがります」(同上)。
 しからば妙法蓮華とは何か。「万有の根柢となる<実在(ダルマ)>と、それに内在しそれを維持する<理法(ダルマ)>は、<不生不滅>のすばらしい<妙有〜妙法(サッダルマ)>、すなわち<白蓮華>であるという<見定め>は、それ自体として筋が通っている」「ですから、「如来寿量品」の<言外の説>としては、まず、<不生不滅の妙法蓮華〜妙法蓮華経>が存在し、やがて、この<実在〜理法>に対する人間の認識の深まりから、数々の<法華の門>が語られはじめ、最後に、一切の真実の精髄としての「妙法蓮華経」が出現するという、三段階の「法華経」について告知していると思いたいのです」(同上)。
 「すると、<根源的な妙法蓮華経すなわち実在〜理法>のすばらしさに感動したある人物が、すなおに<頭を下げる=南無する>ことから、<法華の法門>の一つを産み出すといった事情が考えられ、その成立は、当人が気が付いていなかったにもかかわらず、かれの<南無妙法蓮華経>と念ずる心根に由来したことになります」(同上)

  「六、「法華経」の特異性」に移ろう。
 松山氏のみるところ、インドで「法華経」注釈書をあらわした龍樹や世親は、ともに大学匠でありながら「法華経」の本質をつかんでいない。その原因は、おそらく迫害を受けた結果、インドでのもともとの「法華経」信奉者の集団が消滅し、「法華経」の<秘密の口伝>が二人の耳に届かなかったためと考えられる。「もしインドの<法華教団>が後代まで存続していれば、教団の内部で保持してきた知識をもとに、「法華経」の<注釈書>や<解説書>が著されたはずですから、良くも悪しくも「法華経」の解釈は、インド色の強いものに狭められたでしょう。そうなると、智の思想体系も、まったく成立しなかったか、成立しても、現存のものとはまったく違っていた可能性が大きいと思います」(同上、註4参照)。
 こうした事情から、「法華経」の読みには大きな制約があり困難をともなうが、最後に松山氏の説く、「法華経」作者たちの<製作意図>をあげておこう。
  a)<最高の覚り>の可能性を説く、<最高の法>は、初期には最重要の部分であったが、その内容を説明しないまま、作者の関心が、<最高の覚り>を可能ならしめる、<釈尊>の能力の根拠づけに移行してしまった。
  b)<釈尊>は、いまだに甚大な影響を及ぼしつつある唯一の<過去仏>として、<方便現涅槃>の説で<健在>を主張するほど尊崇されてはいるが、もっとも大切なのは「法華経」そのものであるとされ、<釈尊>は二番目に重要とされている。
  c)第一に尊重すべきものとされた「法華経」は、根源を<不生不滅の実在〜理法である妙法蓮華経>であるとされており、これは<恒存・不変>であるが、<現実の教典としての「法華経」>は、人間の精進の積み重ねの結果やっと成立したものであって、外部からの圧迫や信奉者の懈怠により、<消滅>の惧れがあると感じている。
  d)「法華経」形成の前後における、法師とその信従者に対する迫害は深刻なものだったので、作者たちの将来にかける望みは、<「法華経」の護持と広宣流布>一筋となり、それを経中に反影させた。当時の状況では、広宣流布など至難であったが、積極的に活動しなければ護持できないと認識していたのである。
  e)「法華経」の護持と広宣流布という目的を達成するには、事に当たる者の数が多いだけでは駄目で、まず熱烈・強力・明敏な精鋭を中核に選び、一般の志願者は、必死の覚悟を要することを身に浸みさせてから参加させなければならない。「従地涌出品」「如来神力品」「嘱累品」のかなりの部分は、このことを聴き手や読み手に徹底させるために作られている。

4)「蓮と法華経」私見

 以下、「蓮と法華経」についての私見をいささか記してみたい。
 教典「法華経」の構造上の特徴はこれまでもいろいろみてきたが、「宝塔が空中に出現したりしており、霊鷲山から虚空に場面は展開したり、代表的な「七喩」はじめ譬喩に富み、諸菩薩の劇的な宗教性や修行が続」(塩入良道氏「天台智の法華経観」、「講座・大乗仏教4ーー法華思想」所収)くなど、読んでいてあきることがない。
 しかしそれにもかかわらず、私にとって「法華経」は、近づきにくい教典であった。
 それは、「法華経」のなかで深遠な教義が説かれているからではない。
 「法華経」がどのようなものであるかは、教典「法華経」そのもののなかで何度も説かれている。「法華経」は異様なほど自己言及性が強い。しかしその一方で、「教義らしいものはほとんど説かれていない」(塩入良道氏、上掲論文)のも事実というべきであろう。
 この構造が、信仰というよりも教義面から仏教経典に近づきたい私には、大きな壁になっていた。
 したがって、「法華経」が何であるのか、「法華経」そのものの読解によって解き明かされることはないとも思っていた。少なくとも、松山俊太郎氏の「蓮と法華経」を読むまでは。
 「蓮と法華経」の要約は上に掲げたが、整理してみると、その主張は、
 @「法華経」教団は、釈迦入滅後数世紀を経たという状況における強力な釈迦崇拝グループである。経題に組み入れられている白蓮(pundarika)は「法華経」の核となる存在であり、釈迦、さらには日輪を象徴している。ただし、この構造は「法華経」の表層しか読まない人間に開示されることはない。
 Aしかし「法華経」は、最終的には釈迦崇拝を超えて「法(真理)」そのものを賛美している。ただし、この構造も「法華経」の表層しか読まない人間に開示されることはない。
という2点になるだろうか。
 松山氏の主張では、「法華経」の経題と主題と構造はそれぞれ密接に連関しており、教典「法華経」を法(真理)の象徴ととらえない限り、その説こうとする法(真理)は開示されない。要するに「法華経」は秘密経の性格を強くもっているのである。
 「法華経」が秘密教であるという指摘そのものは、インドでの「法華経」成立史を考えたとき受け入れやすい主張である。「法華経」教団が、大乗仏教成立後間もなくして興った大乗仏教教団のなかの反主流派であり、それゆえに主流派との間に激しい論争・弾圧があったということは、インド仏教史のなかの定説といっていいと思うし、その論争・弾圧が教典「法華経」のなかにみられる異常なまでの「法華経」礼賛に結びついているということもこれまで指摘されてきた。
 しかしそれを一歩進めて、教典「法華経」は、その信奉者が読んだときと外部の人間が読んだときには異なった相をみせる二重構造をもっているという説の主張は、おそらく松山氏が最初ではないか。
 もちろん、松山氏はこの説を何の根拠もなく提示しているのではない。
 逆にその解明が、「「阿弥陀経」や「般若経」というのは、それぞれなぜそういう題なのかはわかるけど、「妙法蓮華経」というのは、なぜそういう題名がついているのかがわからなかった」(松山俊太郎氏「蓮と法華経」)という疑問と結びついているために、根源的であり、かつ強力な説得力をもつのである。
 法華経の読解史のなかで松山氏の主張がどのように位置づけられるのか、正確には知らない。
 しかし、経題の分析から出発して、「法華経」の根源に迫ろうとする氏の立場からすると、インドにおいて「法華経」教団が滅びてから生まれた「法華経」解釈、なかでも中国で興った「法華経」教学には、次のように批判的とならざるを得ない。「天台智の業績は、「法華経」の秘奥まで見抜いていないために、あえていえば<創造的誤解の産物>といった観があります」(同上)。
 実際、松山氏が説く蓮華の解釈(位置付け)と、たとえば塩入良道氏が「天台智の法華経観」のなかで紹介している「現実直視」的であくまでも植物としての蓮華の個々の特徴にこだわる智の解釈には、大きな隔たりがある。智において蓮華は、あくまでも教典「法華経」を現象に即して理解するために必要とされるのであり、蓮華を超えて法そのものに迫ろうという態度はみられない(註5)。
 逆にこのことは、松山氏のなかで、中国伝来の「法華経」教学の伝統とは別に「法華経」の根源に迫ろうとした日蓮の立場の称讃につながる。「日蓮は、そのインド人では達成できなかった部分を吸収するとともに、鍵なしで鍵の掛かった扉を自在に開けるようにして、<不生不滅の妙法蓮華経>まで洞察しています」(松山俊太郎氏「蓮と法華経」)。
 しかしながら、松山氏の日蓮称讃はあくまでも氏独自の「法華経」読解の結果からくるものであって、「蓮と法華経」の内容が日蓮宗の教宣活動と結びついているわけではない。松山氏の関心は、「法華経」を成立させた構想とは何かという問題にひたすら収斂していく。
 教典「法華経」は、教理としての「法華経」にたびたび言及し、教理としての「法華経」とは何かということが最大の主題ともいえるのだが、にもかかわらず教理としての「法華経」が即自的に明らかにされることはない。つねに、それはどのようなものかという譬喩で語られる。単純化していえば、これが「法華経」のわかり難さの構造なのだが、それとは別に、枠としての教典「法華経」の構造は極めて明確であるということを「蓮と法華経」は明らかにしてくれた。それによって、教理としての「法華経」へのアプローチも可能となっているのである。
 こうした点からいって、「蓮と法華経」は、既存の研究書・解説書がこれまで見逃してきた「法華経」の本質をみごとに探りあてたものといえるように思われる。

5)「蓮と法華経」を超えてーー秘密教のたどった道(顕密体制論私的序説)

 日本における「法華経」受容の歴史は古く、仏教伝来(6世紀なかば)直後にすでに伝えられている。聖徳太子(574年−622年)に「法華経」講義や義疏が帰せられているのはあまりにも有名だ(註6)。
 しかし、「法華経」信仰の本格的な導入となれば、最澄(767年−822年)を待たなくてはならない。最澄の教団は、806年(延暦25年)、朝廷から年分度者を認められ、ここに「法華経」を核とする日本天台宗が開かれた。
 ところが天台宗は、最澄の時代にすでに密教化がはじまり、時代とともにその傾向はさらに強くなってくる。
 「最澄の没後、天台宗では円仁・円珍が相次いで入唐、帰朝して密教を伝え、天台宗独自の密教の発展につとめた。円仁(註7)は教判において、一応絶待観としては一切の仏教思想信仰の差別をこえてそれぞれに絶対的価値を平等に認める「一大円教」論をのべながら、相待観としては、顕密の二教と事理の二密を区別して、三乗教を顕教、一乗教を密教とし、密教のうちに理密だけの法華経等と事密・理密を具備した(事理倶密)大日経等を区別して、後者を最もすぐれたものとした。また円珍(註8)は、やはり一大円教論をふまえながらもさらにすすんで顕劣密勝の思想を示した。この趨勢をうけて、安然(註9)にいたって台密の理論が完成された。すなわち安然もまた一大円教論に立脚しつつ、一切の仏教を網羅分類して、一仏・一時・一処・一教に集約される壮大な体系のうちに統合し、すすんで「真言宗」と称したのである。ちなみに、右の一大円教論とは唐の一行に由来し以後密教諸派から空海の「九顕十密」論にまでひとしく継承された思想であって、円仁・円珍・安然らがかかる一大円教論に立ったところにも、彼らの密教への傾倒を根本的なものとみなすべき徴表がみられるのである」(黒田俊雄氏「中世における顕密体制の展開」)
 なぜこのような現象が生じたのか。
 私はそれを、松山俊太郎氏が指摘する「法華経」の秘密教としての性格と結びつけて考えてみたい。
 前述のように、「法華経」教学は、中国の智のもとに緻密・詳細な学問として展開しており、最澄が導入したのは、この流れを汲む思想であった。しかしこの動きとは別に、インドでは、「法華経」成立後も大乗仏教思想が新たな展開をみせ、最終的に密教が成立する。このインドでも成立したばかりの密教が、天台宗の開宗と同じ806年(大同元年)、空海によって(中国経由で)日本に招来された。法華経と密教の位置づけは、インドでも中国でもほとんど問題とされておらず、日本においてはじめて大きな問題となったのである。
 法華思想と密教の最大の違いといえるのは仏身論だが、法華があくまでも釈迦の存在にこだわるのにたいし、密教は、理法そのものの人格化である法身仏の存在に焦点をあて、それが世界の理法(自内秘)を直接語るとする。この法身仏の言説行為を仏教用語では「法身説法」と呼ぶが、このためエクリチュール論としてみれば、密教は、「法華経」等の初期大乗教典が秘密としたものを言語化することに大きな焦点をあてているといえる。
 これを一般的に説明すると次のようになろう。「唯一実在としての仏陀は法身とよばれ、それに対して個々の仏陀は現身仏とよばれる。この後者をさらに区別して報身、応身、化身などともいう。法身が宇宙そのものに等しいとすれば、万物は仏陀の法身の中に含まれる。宇宙は神そのものであると見る汎神論pantheismに対して、汎仏論panbuddhismともいえる。大乗仏教は大体においてこの説にもとづいて説かれている。汎仏論は理論的にいえば一元論であり、宇宙のあらゆる現象は仏陀の法身の顕現に他ならないが、その法身は抽象的、無活動な存在ではない。大乗において法身はふつうに形態を超越し言語に絶していると考えられているが、密教においては法身そのものが名称ーー”ヴァイローチャナ”[毘盧遮那・大日]というーーを持ち、かつ説法すると言われる」(渡辺照宏氏「仏教」第二版、岩波書店、1974年)。
 そのエクリチュール論としての側面を追求したのが井筒俊彦氏であり、「顕教的言語観に反対して、空海は「果分可説」を説き、それを真言密教の標識とする。すなわち、コトバを絶対的に超えた(と、顕教が考える)事態を、(密教では)コトバで語ることができる、あるいは、そのような力をもったコトバが、密教的体験としては成立し得る、という。この見地からすれば、従って、「果分」という絶対的意識・絶対存在の領域は、本来的に無言、沈黙の世界ではなくて、この領域にはこの領域なりの、つまり異次元の、コトバが働いている、あるいは働き得る、ということである」(井筒俊彦氏「意味分節理論と空海」、「井筒俊彦著作集9東洋哲学」所収、中央公論社、1992年)とする。
 こうなると、いわゆる顕教とは「密教」であり、密教こそ「顕教」ではないかとさえいいたくなる(註10)。
 いずれにしても、このように見てくると「法華経」の秘密教的な性格は、密教ときわめて適合的な要素をもつのであり、それをうけて平安時代初期の日本で起こったのは、「法華経」を純化しその卓越性を主張することを目指していた智が予想だにしなかった現象であった。
 つまり、平安時代初期における天台宗と真言宗の並存状態といっても、天台宗内部では、「一方に純天台法華思想が固定的に存在し、他方に密教が移植されて肥大化するということではなく、天台法華思想の色彩を帯びた独特の密教ーー安然まではさしずめ教相面においてであったがーーが発展し完成したのであり、その点に天台宗の独自性があった」(黒田俊雄氏、上掲論文)のである。天台宗と真言宗が並び立つといっても、それは両宗を主尊・主要依拠経典・儀軌などの表層的な現象(事相)からとらえた分類であり、一皮むくと、その深奥では、両宗とも密教として展開していった(台密・東密)。そのときに、真言宗が教理と儀軌等が一致したいわば純粋な密教であるのに対し、天台宗は法華信仰の外皮をまとった密教であるという点に特徴がある。こうした天台宗の内部構造からいって、天台宗において独自の法華信仰が深まっていくということはありえなかった。しかし世俗的な宗派の動きとしてみたときには、こうした教理的構造が天台宗に対する真言宗の優位をもたらしたのではなく、天台宗はあくまでも宗派としての自立性を保ち、複合的な構造を保持しながら、宗派としてはむしろ真言宗の勢力を圧倒的に凌駕していった。
 これまた、日本的なユニークな現象というべきであろう。
 同時に、こうした現象が生じるということは、天台宗の密教化が、真言宗の影響によるとするだけでは説明できないことをも示唆する。
 これに関して黒田氏は、「密教化ともいうべき現象は、仏教だけのことではなかった。すでに8世紀からはじまっていた神仏の習合は、9世紀にいよいよ進んだが、そのことは当然神祇崇拝もまた密教化するということに他ならないわけで、事実、山岳抖薮のごときは完全に密教の行法の一部になったのである。また陰陽道は、その迷信的発想そのものが、密教の加持祈祷の流行を促す社会的雰囲気を醸成し、密教的習俗の一端を構成する有力な役割を担ったのである」(同上)とし、さらに、こうした現象は、「密教本来の標準的な姿というべきものでなく、仏教の根本思想とも異なる迷信的性格を帯びるもので、むしろ日本古来の抖薮に近い性質のものであるとされている」(同上)と指摘する。ここからは、天台宗の密教化のみならず、密教受容そのものが、より大きな日本的心情のなかで行われ、それゆえ、真言宗さえもがその心情のなかに包摂されるものと位置づけられ、天台宗を凌駕することはできなかったという図式が浮かび上がってくる。
 さて、論をこれ以上先に進めることは、「蓮と法華経」の読後感だけでなく、日本における「法華経」受容史を語るという最初に設定した主題そのものから大きく逸脱してしまう。それゆえ、ここでの議論は、この辺でひとまず擱筆することとしよう(註11)。
 いずれにしても、天台宗の密教化という現象は、アジアの東端である日本という場所で、かつ平安時代初期という限定のなかで生じた、「法華経」受容の新たな事態であるように思える。しかし繰り返すが、その背景には、松山俊太郎氏が指摘しているような、「法華経」の秘密教としての性格が大きくからんでいるように思えるのである。

【参照】
松山俊太郎氏年譜&著作目録(「めかるあとりえ」サイト内)
「1955年4月23日新宿」(澁澤龍彦と松山俊太郎の出会いについてーー小サイト内) 

「院政期社会の言語構造を探る」(小サイト内)

 平成15年6月5日

  



徘徊録 La Nomadologie