オリエンタリズム

エドワード・W・サイード著
今沢紀子訳 (板垣雄三・杉田英明監修)
平凡社(平凡社ライブラリー)、1993年

Orientalism Edward W. Said, 1978 Georges Borchardt Inc., New York

 サイードの「オリエンタリズム」(平凡社ライブラリー版、この版は1986年刊行の訳書を文庫化したもの)を読んだ。
  「オリエンタリズムの領域」「オリエンタリズムの構成と再構成」「今日のオリエンタリズム」の3章からなる大部の著作で、かつ、その後の欧米(および日本)の中東研究のあり方に大きな影響を及ぼした本だ。 この著作でサイードが用いる<オリエンタリズム>という言葉は、欧米のオリエントに対する見方・考え方を広くとらえた言葉で、オリエント研究、オリエント学もそこに含まれる。要するに、欧米のオリエンタリズムは、オリエントを欧米から切り離し、それを支配するという意図のもとに展開してきた色眼鏡つきの知のあり方だと批判することが、この書全体の目的といえると思う。
  ただし、この本を読みにくく(理解しにくく)している原因のひとつに、サイードの出自の複雑さがあるように思えるので、はじめにそれを確認しておく。 平凡社ライブラリーのカバーにある著者紹介によれば、彼は「イギリス委任統治期のパレスティナはイェルサレムに生まれたアラブ・パレスティナ人。米国市民。カイロのヴィクトリア・カレッジで教育を受けたあと渡米し、プリンストン、ハーヴァード両大学で学位を取得。1970年以降、コロンビア大学の英文学・比較文学教授(以下省略)」というが、この紹介には重要な事実が欠落している。彼はパレスティナにおいては少数派であるキリスト教徒なのだ。したがって本書は、オリエントの同胞全体にむけて欧米のオリエンタリズムを告発するというよりも、欧米においてもオリエントにおいても行き場のない少数派としての自己の主張を裏側から記したものといえはすまいか。いずれにしても、相当屈折した思いが本書にはこめられていると思う。少なくとも、アラブ(パレスティナ)より、イスラームよりといった単純な視点から書かれた著作ではない。本書がアラブもしくはイスラーム圏という地域名称を避けてオリエントという地域名称を選びとっているのも、その辺に理由があると思う。
 
こうした彼の出自をふまえて「オリエンタリズム」という著作を読んでいかないと、彼がなぜ次のような主張をするのかはまったく理解不能になってしまう。

 まず、サイードは、本書全体をとおしてオリエントを一つの固定した地域(文化圏)とみることに疑問を呈するのだが、その反面、彼はヨーロッパを時間的・地域的に固定した文化圏とみなし、ヨーロッパの全時代、全地域を一つの固定したものとしてしまっているように思える。
 なかでも私に疑問なのは、古代ギリシアのアイスキュロスから現代アメリカのオリエント研究までが同じレベルでとらえられている点だ。
 サイードは本書の発想の原点がフーコーの言説(ディスクール)理論だと繰り返し述べている。しかしたとえばフーコーの「言葉と物」では、18世紀以前(古典主義時代)のヨーロッパの知のあり方と19世紀以降(近代)の知のあり方に大きな断絶があり、近代主義の尺度で古典主義の思想(知)を図ることは不可能だと強く主張されているのだが、この点はサイードによって完全に無視されている。
 次に、サイードは、「オリエント」に一つの本質を与えることを拒否するのだが、にもかかわらず、サイードが取り上げる「オリエント」に相当する近東地域には、多数派住民であるムスリム(イスラーム教徒)にかかわる独自の社会正義のあり方がある。

  ここで私はシャリーア(イスラーム法)からくる法解釈の5範疇のことを考えているのだが、神の意志に照らして人間の行為を(1)義務、(2)義務ではないが、その実行が望ましい行為、(3)行っても行わなくてもどちらでもよい行為、(4)行わないほうが望ましい行為、(5)禁止――の五つに分けるという考え方は、自然法、実定法に依拠する近代の欧米や日本の社会にはないもので、あえてこれをオリエント社会の本質と呼ばないとしても、イスラーム圏とそれ以外の文化圏は、通常こうした社会正義のあり方によって明確に区別される。サイードはこの問題に完全に沈黙している。
  この2つの問題点(疑問)は、彼は人種的に欧米人ではなく、また宗教的にはムスリムではないという出自を考えたときはじめて理解可能となる。この点を無視して、「オリエンタリズム」という著作の論点を、パレスティナ難民全体の立場、ひいては近東の知識人一般の立場と同一視してしまうと、大きな誤解を招くことになる。
 つまり、サイード流にいえば、オリエントに本質はなく、また欧米のオリエント史研究はオリエント理解に資するものがまったくないということになってしまうのだが、歴史的事象としても存在するイスラーム法の構造的な問題等を無視して、近代以降のオリエントがかかえる社会的困難を、すべて欧米の干渉、支配政策に帰するのは明らかに無理があるのではないか。
 したがって私は、イスラーム経済史研究者・加藤博氏の次のようなサイード批判を適切なものと考える。

「私は、以上のようなサイードの言説のうち、彼のなす、啓発的ではあるが余りに一方的な西洋批判には与しようとは思わない。というのは、彼の言説において、「オリエンタリズム」にみられる思考様式の摘出と、「オリエンタリズム」の政治性に対する糾弾の間には、論理の飛躍がみられると考えるからである」(加藤博氏、「文明としてのイスラム」<東京大学出版会、1995年>)

 とはいえ、「オリエンタリズム」の結論近くで、第2次大戦後、英仏にかわって中東研究の第一線に踊り出ることになるアメリカの研究動向を批判した次のような箇所には読むべきところがあるように思う。

「オリエントに対するアメリカの新たな社会科学的関心の顕著な一側面は、奇妙なまでに文学を避けようとする傾向である。我々が現代の近東に関する厖大な量の専門的な著作を読んでいて、一回たりとも文学への言及にお目にかからぬということさえありうるのである。地域研究の専門家にとっては「事実」がはるかに大切に見えるのであり、それについての文学的テクストなどは邪魔ものでしかないのだろう。現代のアメリカがアラブ・イスラム的オリエントを認識するうえで、このような著しい欠落がある結果、地域とその住民は概念的に去勢されて、いくつかの「態度」「傾向」、統計学上の数字へと還元されてしまう。要するに人間性を剥奪されるわけである」(「オリエンタリズム」平凡社ライブラリー版下巻208ページ)

 つまり、アメリカのオリエンタリズムが統計学的手法に偏るあまり、そうした手法によって明らかにされる個々の人間の意識を超えたところにある社会の上部構造(ここでは「文学」)に言及することができなくなっているという指摘だ。
 もっともそうであればこそ、もう一つの上部構造「宗教」の欠落は、「オリエンタリズム」の重要な問題点のような気がするのだが、欧米でこの書が大きな反響をよんだのは、オリエントを語るにあたって、この書が宗教問題をひとまず棚上げしているように読めるからかもしれない。

 結論としていえば、こと中東問題に関し、サイードの「オリエンタリズム」は、取り扱い注意の問題の書ということになるのではないか。 (2002・8・7・up)

 

徘徊録 La Nomadologie