註1)
戸田芳実氏によって概念化された中級官人や貴族の地方居住形態を高橋氏が受け継ぎ、伊勢平氏に適合させた居住概念。高橋氏によれば、「留住」とは次のようなものであり、「土着」や「定住」とは区別される。
「平氏の伊勢居住の理由がなんであれ、それをいわゆる「土着」と単純に理解してはならない。九世紀以降、中級官人や貴族が都に本宅をおいたまま、地方の別荘である荘家(宅)に下って居住し、私営田や私出挙を中心とする荘園経営にあたる動きが生じていた。この経営から生まれた営田の穫稲や私出挙の利稲、荘田の地子や牧場で産する牛馬、土産の物などは、一部荘家(彼の私宅)に留保蓄積され、残部は使者や荘預の管理のもとに都の本宅に搬入される。彼らにとって京都は、地方の荘家経営を維持実現するための人的・物的手段獲得の場であり、本宅に運上された種々の物資を売却する市場でもあった。中級官人・貴族たちは、地方の荘家経営の成功を背景として、中央政界・官界にその地歩を築かんとしたのである。」(高橋昌明氏『清盛以前ーー伊勢平氏の興隆』<増補改訂版>、文理閣、2004年、13〜4頁)
なお、戸田芳実氏は、「留住」概念を次のように用いている。
「豊後介であった中井王は、その「私宅」を日田郡に設定していた。(中略)
前司中井王が私宅を日田郡に構えたということは、一見彼が土着受領の先駆者であるかのごとく感じさせるが、それは決してのちにいう「土着」ではなく、その前段階ともいうべき「留住」にすぎないものであった。彼は日田郡に定住しその一円を支配する土着豪族化したのではなく、豊後国内からさらに隣国の筑後・肥後まで「浮宕」して、「百姓を威陵し農を妨げ業を奪う」といわれているように、各地を移動しつつ百姓の収奪によって自己の経営の拠点を設け、また経営を展開してまわっているのである。(中略)
国司級官人が田家や営田を設け交替を契機としてそこに留住することを、たんに彼らの私欲や不正、あるいは土着の志向からだけ説明するのは表面的であるといわざるをえない。彼らがそのような行動をとるには、それだけの前提条件が存在している。彼らの不正を問題の根源と見るのは、律令国家の国司観の踏襲にすぎない。問題の根源は、在地諸勢力の国務対捍や抵抗によって律令制の国務遂行が困難になり、正税調庸の未進が累積していた事実にあり、その上に国司の「不正」や「留住」が発生するのであって、このような状況のもとでは、たとえ国務の実績によって官途の昇進を求める五位の徒においても、その道はしばしば塞がれざるをえないのである。」(戸田芳実氏『日本領主制成立史の研究』、岩波書店、1967年、139〜42頁)
「(藤原)春継は死に臨んでも上総国を去ろうとせず、その子良尚に遺言して藻原荘中に墳墓をつくって葬らせた。しかも子孫が遺志に背いてこの荘を他人に手放し、そのため自分の墳墓が家畜に踏み荒らされるようになることをおもんばかって、同荘を興福寺に施入し墳墓の地を保全するように命じた。辺境荘園経営にかけた前常陸介春継の執念を感じさせる事実である。西岡(虎之助)はこれらの事実から、春継を「いわゆる土着の豪族である」としたが、たしかにそれは五位級都市官人貴族が土着の豪族に転身する途を、可能性として示した事例ではあった。しかし結局この一族は「土着」に至らず、その子良尚、その孫菅根は、再び都市官人貴族として昇進していったから、この場合、土着とは春継一代の留住にすぎなかったのである。」(戸田芳実氏『初期中世社会史の研究』、東京大学出版会、1991年、40〜1頁)
「前常陸介春継は、その領有する藻原荘に定住し墳墓まで造らせたが、それがいわゆる国司の土着と地方豪族化でなかったことは、その子孫が中央官人貴族へ上昇したことをみれば明らかである。これは中級官人貴族が、都へ本宅を置いたまま地方の別荘である荘家に下って「留住」し、みずから私営田や私出挙を中心とする荘園経営にあたったことを示すもので、かれらの活動の基地はやはり平安京にあった。この経営から生まれる営田の獲稲や荘田の地子、牧場で産する牛馬や私出挙の利稲、そのほか土産の物は、一部荘家に蓄積され、ほかは諸家の使者や現地の荘預(荘官)らが管理して都の本宅へと運上されたのである。(中略)
前上総介の子前常陸介春継が荘家に「留任」したような場合、その本籍は平安京にあるから、この国では戸籍上「浪人」になる。このような高家の浪人がかれら自身の初期荘園の経営を拡充すれば、それだけ国郡行政は侵害され麻痺していった。身分の低い郡司などは、とうていかれらに歯が立たなかったのである。そしてかれらのもとの荘預や作人などに、他国から流れこんだ「富豪浪人」たちがいた。国内の百姓らも、荘の労働力となり、かれらの庇護と統制のもとにはいりこんでいった。「俘囚」さえもそこへ吸収されていったようである。」(戸田芳実氏『日本中世の民衆と領主』、校倉書房、1994年、50〜1頁)
註2)
以下、高橋氏が引用、分析している『今昔物語集』巻第25ノ10「依頼信言平貞道、切人頭語」を引用しておく。
今昔、源頼光朝臣ノ家ニシテ、客人数来テ、酒呑ミ遊ケルニ、弟ノ頼信朝臣モ有ケリ。其レニ頼光朝臣ノ郎等ニ、平貞道ト云兵有ケリ。
其ノ日、貞道瓶子ヲ取テ出来タリケル、頼信朝臣、客人共モ聞クニ、高ヤカニ貞道ヲ呼ビ向ケテ云様、「駿河国ニ有ル□□ト云フ者ノ、頼信ガ為ニ無礼ヲ至ス。シヤ頸取テ得サセヨ」ト。貞道此ヲ聞テ思様、「我レ、此ノ殿ハ此テ候ヘリ。其御弟ニ御座レバ、現ニ一家ノ主也トハ云ヘドモ、未ダ参リ仕リナドハ不為。其レニ、此様ノ事ハ、我レヲ宗ト憑ム人ニコソ云ヘ。亦此テ此ノ殿ニ候ヘバ、其レヲ睦ニテ云ヒ可被付クハ、呼ビ放テ忍ヤカニモ不宣シテ、此許人ノ多カル中ニテ、人ノ頸取ル許ノ事ヲ高ク可宣キ様ヤハ有ル。鳴呼ノ事ヲモ宣フ人カナ」ト思ケレ、墓々シク答ヘモ不為デ止ニケリ。
其後三四月許過テ、要事有テ、貞道東国ノ方ニ行ケリ。彼ノ頼信朝臣ノ云付シ事ハ、其ノ日、「由無シ」ト思ケレバ、思ダニ不出サ忘ニケリ。而ルニ、貞道行ケル道ニ、彼ノ頼信朝臣ノ云ヒ付ケシ男合ニケリ。馬ヲ引ヘテ柔ニ物語ナドシテ、今打過ムト為ル程ニ、彼ノ人ノ云ヒ被付シ事ヲバ兼テ聞テケリ、忍ビテモ不云リシ事ナレバ、自然ラ伝ヘ聞テケルニ、今過ム為ル程ニ、此ノ男ノ云ク、「然々ノ事ヤ承リ給ヒシ」ト。
貞道、其時ニゾ思ヒ出テ、「イヤ、然ル事有。己ハ、兄ノ殿ニハ侍レドモ、未ダ彼ノ殿ニハ参仕ル事モ無シ。其レニ人々ノ数聞キシニ、故モ無ク然ル事ヲ宣ヒシカバ、「可咲」ト思テ止侍ニキ。然ル事思フ人ヤハ在ル。怪キ事也カシ」トテ咲ヘバ、此ノ男、「京ヨリ人ノ告ゲ遺セテ侍リシカバ、「然様ニヤ思スラム」ト思給テ、今日ナドモ心トキメキ被為テ侍ツル也。「由無シ」ト思ス事ハ、糸吉ク思シタリ。無限リ喜ビ申ス。但シ、譬ヒ彼ノ殿ノ宣フ事ヲ難去ク思シテ、此ノ事ヲセムト思スト云フトモ、己等許成ヌル者ヲバ、心ニ任セテ為得給ハムズルカハ」ト頬咲テ云ニ、貞道ガ思フ様、「「我レ然モ不思」ナド云フ物ナラバ、誤ツ事モ不侍メ、「勘当有ト承ハレバ、恐レ思給ツルニ、今日ヨリナム心安ク喜ビ思給フル」ナドヤ、情ノ言ニ可云キニ、目ザマシクモ云フ奴カナ。去来然ハ、同クハ此奴射殺シテ頸取テ、河内殿ニ奉ラム」ト思フ心出来テ、言少ニ成テ、「然バ」トテ打過ヌ。
後少シ隠ルヽ程ニ、貞道、郎等共ニ其心ヲ知セテ、馬腹帯結、胡録ナド掻ツクロヒテ、取テ返シテ追行ケルニ、浦原ノ隔ツヽ有ル程ヲ行ケルニ、追懸リニケリ。滋キ木原ヲ過シ立テヽ、少シ広キ野ニ打出ル程ニ、大キニ叫テ押懸レバ、「然思ツル事ゾ」ト云テ押返シケレドモ、此ノ白物ハ、「此ル事モ不思」ト云ツルヲ実ト思ケルニヤ有ケル、乗替ノ馬ナドニ乗テ行緩テ有ケレバ、箭一度ダニ不射デ、逆様ニ射落シテケリ。主被射落ニケレバ、彼レガ郎等共ハ、逃ルハ逃ゲ、被射ルハ被射テ、皆去ニケリ。然レバ其ノ男ノ頸ヲ取テ、京ニ持テ頼信朝臣ニ取ラセタリケレバ、頼信朝臣喜テ、吉キ馬ニ鞍置テゾ禄ニ取ラセタリケル。
其後、貞道ガ人ニ伝テ云ケルハ、「平カニ過テ可行カリシ奴ノ、由無キ言ヲ一事云テ、被射殺ニシカバ、河内殿ノ不安デ思シケル事ノ故也ナリ。哀レニ忝キ人ノ威也ケリ」ト語リケル。然レバ此ヲ聞ク人弥ヨ恐テケリトナム語リ伝ヘタルトヤ。
(引用は岩波書店刊、新日本古典文学大系『今昔物語集 四』、1994年による。□□は原文の欠字。また「掻ツクロヒ」は原文で漢字表記されているが、「ツクロヒ」の字が入力できないため、カタカナ表記に開いた。)
(細註) 平貞道は良文の子。生没年不詳。頼光四天王の一人。別系図では貞通もしくは忠通とも記される。三浦氏、鎌倉氏、大庭氏の祖。
註3)
「現在のヨーロッパ法制史学界の一部では、レーン制の語より、一層厳密な「封土・家士機構」(institutions
feodo-vassaliques)という用語を使用しているようであるが、いまは慣例にしたがった。封土・家士機構の体系における個々の概念については、ガンスホーフ著・森岡敬一郎訳『封建制度』(慶応通信、1968年)を参照されたい。」(高橋昌明氏、『清盛以前ーー伊勢平氏の興隆<増補改訂版>』第一章原註18、同書39頁)
「「家礼」「家人」の区別は、ドイツ中世史における家士(Vassal)とミニステリアーレス(Ministeriales)の区別に類似している面がある。Vassalが自由身分の騎士であるとすれば、Ministerialesは隷属身分の騎士であり、前者が契約関係によって複数の領主に奉仕するのが珍しくないのに比して(つまり我々の知る通常のヨーロッパ主従制である)、後者は国王・聖俗の領域支配諸侯・大領主らに排他的に服従し、王領地の経営や主人の家の家職をつとめるような存在であった(ガンスホーフ前掲書98〜99・121・139〜140・163頁)。」(高橋昌明氏、『清盛以前ーー伊勢平氏の興隆<増補改訂版>』第一章原註21、同書39頁)
【参照】
「カロリング朝時代には通例Commendatioと呼ばれていた、これらの諸行為の最初のものは、オマージュ(hommage)(時にはhomenage,
hominium,あるいはもっと新しい形ではhom(m)agium,時おりはhominaticum, hominagium;ドイツ語ではHulde,オランダ語ではhuldeも見られる。しかしHuldeおよびhuldeは、より特殊的”誠実契約”を示すのに用いられている)である。(中略)
オマージュの儀式は、いわゆる自己移譲の”引き渡しの儀式”(un rite de tradition)であって、領主の両手の間に”家士”の両手を置くということは、”家士”の全人格を領主に託することを象徴するものであり、領主が”家士”の両手の上から彼の両手ではさみつけるという行為は、この自己移譲の承認を象徴するものであった。しかし、家士関係以外の諸関係の設定のためにも、ときどき、オマージュが用いられた。たとえば12世紀のエノーで、また13世紀のフランドルとノルマンジーで、オマージュは平和の約束の締結に用いられることがあった。しかし、これらの家士関係以外のものについても用いられるオマージュは、のちになって行われることになったものであり、それらは、この法的身振り(手礼)の最初の目的とは関係がないものと我々は信じている。
オマージュが自己移譲を象徴する行為をなすものとすれば、ドイツで、ミニステリアーレス(ministeriales)すなわち非自由身分の騎士が、初めには、領主にオマージュを行うことが認められなかった理由が理解される。すなわち、領主は、彼のミニステリアーレスに対して、その人格の法的地位が隷属身分であったから、彼らの上に直接の権力をもっていたので、したがってミニステリアーレスの自己移譲ということは無意味だったのである。」(ガンスホーフ著・森岡敬一郎訳『封建制度』(慶応通信、1968年、96〜9頁)
註4)
高橋昌明氏によれば(『清盛以前ーー伊勢平氏の興隆<増補改訂版>』35頁)、佐藤進一氏と上横手雅敬氏の中世主従制に関する提言は次のとおり。
「中世の武士を「家人」と「家礼」に区分し、前者を人身的な支配=隷属関係に縛られた武士、後者をそうした関係をもたず有期的で定量的な奉仕を行い、去就向背を権利として有する武士」(佐藤氏)
「鎌倉幕府内部の主従結合を、(i)鎌倉殿ーー御家人 (a)家礼型((イ)国家公権先行型、(ロ)主従結合先行型)、(b)家人型、(ii)御家人ーー郎従の諸類型に類別し、(i)の中では(a)(イ)を最も一般的な主従結合とし、その性格を「冷淡でゆるやかなもの」と規定」(上横手氏)
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