清盛以前ーー伊勢平氏の興隆

高橋 昌明著
文理閣、2004年


 平氏が伊勢に本拠を定めた11世紀のはじめから、忠盛の死(1153年)、そして保元の乱(1156年)までの約150年間を通覧した史書。平凡社選書の一冊として1984年に刊行された同名の著作の増補改訂版である。
 このなかで私が最も興味深く読んだのは、本書第一章で展開される「主従制」概念批判。そこでこのページでは、その主従制概念批判を中心に本書の内容を紹介する。

 本書第一章「伊勢平氏の成立」のなかで、平安中期に伊勢に留住(註1)した平氏一族は、貞盛・維衡流だけでなく、貞盛の従兄弟にあたる公雅流もあったとしたうえで、高橋氏は、公雅流平氏の動向をその孫・致経の従者が行った殺人の分析から探っている。
 事件は治安元年(1021年)に生じたもので、源経頼の日記『左経記』にもとづく高橋氏の要約によれば、その概要は次のとおり。
 「この年、左衛門尉平致経と弟内匠允公親が前年東宮史生安行を殺害していた事実が明らかになった。そこで五月十一日、逃亡した両名追補のため検非違使が伊勢に下向する。」「検非違使らは、伊勢において致経の郎等逮捕に成功、前々よりの犯罪を訊問したところ、驚くべき自白を得た。」「郎等は東宮史生安行のみならず、以前に滝口信濃介なる人物を殺害し、また東宮亮藤原惟憲の暗殺を計画し、三日三晩機会をうかがいながら、たまたまそれを果たしえなかったことを白状している。」(以上本書20〜1頁)
 ここから、高橋氏は次の五つの問題点を引き出している。
 @致経の京における居宅について。
 A致経は京内外に広い「人脈」を形成していた。
 B致経は暗殺・傷害の常習犯であった。
 C致経と従者の主従関係について。
 D致経らの在地における存在形態について。
 主従制概念批判は、このうちCで展開されており、次にそれを引く。
 「殺し屋的な致経の従者は、主人致経と弟公親のそれぞれから殺人を命ぜられ、実行している。彼がなぜ公親の命にしたがわなければならなかったのか、具体的な事情は不明である。そこで、『今昔物語集』の「依頼信言平ノ貞道、切人頭語」(巻25−10、註2)という説話を参考にして、事情を類推してみたい。
 この説話の冒頭には、酒宴の最中主人頼光の弟頼信に殺人を命ぜられた平貞道が、はかばかしい返事をせず、命令をうやむやにするくだりがある。彼が承諾をしぶった理由は二点ある。(1)たとえ頼信が主人の弟で「現ニ一家ノ主也トハ云ヘドモ、未ダ参リ仕リナドハ」していない。それに人を討て殺せなどという大事は、本来「我レヲ宗ト憑ム人」にこそ洩らすべきである。(2)自分が頼光殿の郎等であるという縁で親しさ故に仰せられるのであれば、ひそかに申付けるべきなのに、人も聞く酒宴の最中に大声でいった。おろかな人だ。
 もし貞道が、これまで頼信に「参リ仕リナド」しており、しかも秘密に命令されたなら(あたりまえの話であるが)、彼は殺人をひきうけざるをえなかっただろう。この説話では、頼信に「参リ仕リナド」することと、現に彼が頼光の郎等であることの間に、とくに鋭い矛盾を設定していない。貞道はたまたま頼信に「未ダ参リ仕リナド」していないのであって、将来そうする事態も十分ありえた。すなわち、彼は同時に複数の主人と主従関係を結ぶ可能性を留保していた(もちろん、その複数の主従関係には自ら強弱の序列がある)。
 右の話を念頭におけば、致経の従者が何故に公親の命にしたがい、殺人を犯したのかも、理解しうる。彼は致経の従者であるとともに、公親ともなんらかの主従関係(「参リ仕リナド」)を結んでおり、公親の命令を聞くべき立場にあったのだろう。
 郎等や従者が同時に複数の主人と主従関係を結んでいることーーこの場合主人は必ずしも武士に限っておらず、通政なる人物が軍事貴族たる維衡と上流貴族の藤原実資をともに主人に仰いでいるような事例も含まれるーーと、彼らの主人が同時に複数の顕貴な貴族と主従関係を結んでいることとの間には、明らかな対応関係がある。
 こうした主従関係には、ある程度の「ルース」さがつきものである。致経の従者が簡単に犯罪を自白してしまったのも、この「ルース」さ故にであろう。」(本書、26〜7頁)
 すなわち、致経と従者の主従関係は、鎌倉時代になって展開する堅固な主従関係とは明らかに異なっているのである。高橋氏は補説のなかで、この「ルース」な主従制がなにを意味するか、さらに追求している。 
 「「ルース」な主従制は、平安中期以降あらわれる主従制の「未熟な」形態として、中世的な「譜代相伝の家人」と対比され、否定的・消極的に位置づけられるのが通例であった。
 これには学説史的背景がある。日本法制史の伝統的理解によれば、封建制とは主従制と恩地給与制の結合、つまりレーン制(註3)のことで、日本の場合鎌倉殿ーー御家人の間でとり結ばれる関係が、ほぼそれに該当する。そして日本中世の主従制と西ヨーロッパ主従制の差異は、後者がより契約的である点に求められ、そこから双務性に乏しく身分道徳が重んぜられ、主人に献身的に奉仕する等々の日本主従制の理念型的な特徴がひき出された。主従制の日本型論、つまりレーン制の特殊日本型類型にとって、「譜代相伝の家人」は都合のよい歴史的な実例である。というよりは、むしろこの「譜代相伝の家人」から主従制の日本型論が組み立てられた、といった方が正確かもしれない。
 いずれにせよ、「譜代相伝の家人」を軸に考える限り、「ルース」な主従制は、非封建的なものとして事実上無視されるか、「譜代相伝の家人」にしだいに収斂・進化してゆく過渡的なものとして位置づけられるか、のいずれかになってしまう。筆者は、この定説化した主従制の日本型論なるものは、国家(天皇)への絶対恭順を内容とする臣民道徳を、無意識の前提とせざるをえなかった戦前の法制史家によって学問にまで高められ、それに無反省であった戦後の歴史家によって補強・継承されてきた、一種の「虚像」ではないのかと考えている。主従制の日本型論をかかるものと認識するなら、同時に「ルース」な主従制に与えられてきた否定的・消極的な評価を、根本的に再検討して改める試みが必要になってくる。
 ところで、「ルース」というあいまいで価値判断を含んだ形容詞をとり去って考えれば、この種の主従制は、契約制の強い主従制にほかならず、それはまた、本来のレーン制的主従制に接近している。佐藤進一氏や上横手雅敬氏の中世主従制にかんする提言を参考にするならば(註4)、かかる主従制は広汎かつ一貫して中世社会に存在し、量的には「譜代相伝の家人」を圧倒して、中世の権力編成や政治過程に重大な影響を与え続けていた。(中略)
 中世権力の脆弱性や政治過程の流動性を、すべて契約性の強い「家礼」型主従制から説明するのは無理だとしても、重要な要素の一つとして、計算に入れておく必要がある。「家礼」型主従制の位置と役割を全面的に解明する作業は、中世政治史における緊急の課題である。」(同書、34〜5頁)
 ここで高橋氏が取り上げているのは主従制の問題だが、こうした平安中期以降登場するさまざまな制度を「非封建的なものとして事実上無視」したり、「過渡的なものとして位置づけ」たりすべきでないという指摘には大いに賛成である。 そしてさしずめ、「院政」とは、そうした位置づけから開放すべき最も大きなテーマであると考える。
 平氏が伊勢に定着し、保元の乱にむけて勢力を拡大していく過程は、院政が政治形態として定着し、影響力を拡大していく過程と同時進行であり、高橋氏の『清盛以前ーー伊勢平氏の興隆』は、武士論のかたちをとりながら、むしろ院政とは何かという問題を側面から明らかにした著作というべきであろう。主従制の問題はそのように位置づけられるべきだと思う。

 さて、高橋氏の叙述にしたがって、伊勢平氏のその後も少し追ってみよう。
 維衡と致頼の伊勢での合戦の事後処理は、両者の闘争を封殺するほど強力で真剣なものではなく、子の代まで継承された。
 「これは王朝国家が地方豪族の扱いについて、ほかの国内問題同様、国守の自由裁量にまかせたことと関係している。この場合、国守は多く彼らを政治的軍事的同盟者として処遇し、その動きに強い規制を加えなかった。国守の国内支配が強化された段階においても、直接彼らを押えこみ、その基盤を解体させるなど、ほとんど問題にもならなかった。地方豪族が、それぞれ中央の顕貴な貴族を自己の政治的保護者として仰いでいるという事情が、この傾向に拍車をかけた。それゆえ地方豪族の闘乱が発生しても、国衙支配への公然たる反逆や大規模な武力衝突など国政上の問題に発展しない限り、国レヴェルの対症療法で糊塗されてしまうのが通例だったと思う。ために問題の解決はおくれ、結局紛争は長期化せざるをえなくなる。維衡や致頼は純粋な地方豪族ではないにしても、右のことはそのままあてはまる。
 維衡流と致頼流の対立も、根本的な解決をみないまま長期化し、長元年間の在地における再度の武力衝突を迎える結果になった。」(同書、30頁)
 「長徳四年以来の維衡流と致頼流の対決は、史料上、長元年間の事件を最後としている。和解が成立したと考えるのは非現実的で、なお一定期間対決が継続されたことと思う。現存諸記録は黙して語らないが、この対決の結果を思い描くのは、さして困難ではない。致経の子孫たちが、その後伊勢より姿を消しているからである。おそらく彼らは年来の仇敵である維衡の子孫たちに圧倒され、駆逐されたのであろう。いずれにせよ、伊勢平氏を称するようになるのは、維衡流であって致頼流ではない。この素朴だが動かし難い事実こそ、なによりも両者の対決の結果をさし示すものである。
 貞盛あるいは維衡が、草深い伊勢の一角に留住してから、同族を国外に放逐するまでに、ゆうに半世紀は経過しただろう。この間、維衡や正輔らは営々と荘家経営にとりくみ、ねばり強く在地に勢力扶植を試みた。そして幾度かの合戦の最後のものに勝利した時、彼らは間違いなく伊勢最大の世俗領主にのしあがっていた。かくして、彼らは伊勢平氏と呼ばれるにふさわしい存在になった。」(本書、33頁)
 在地領主が武装化して武士団を形成していくのではなく、軍事貴族が対立する一族を排除しながら在地化していくという事実が、ここでは重視されている。
 そして本書は、これ以降、第二章「伊勢平氏の展開」、第三章「平正盛と六波羅堂」、第四章「正盛・忠盛と白河院政」、第五章「平忠盛と鳥羽院政・上」、第六章「平忠盛と鳥羽院政・下」、終章「保元の乱への道」と、軍事貴族の在地化および中央政界への再進出という視覚からの分析が続く。伊勢平氏という一族をとりあげながら、武士団が成長していくプロセスの解明に迫ったものといえよう。

 最後になるが、逸話的にちょっとおもしろかったのは、増補版の付論として記されている平重盛の母(高階基章娘)についての考察。高橋氏によれば、この女性は、実は藤原忠実の隠し子である。高橋氏の論拠は忠実の息・頼長の日記『台記』の記事(康治元年六月七日条他)。忠盛の正室・宗子(池禅尼)は崇徳の子・重仁親王の乳母でもあり、この辺の人脈は相当入り組んでいる。
 「(康治元年に)死去した頼長の異母「姉妹」は、忠実の密通のはての子だったわけである。しかも、夫の基章は「先年余の許に在り」と記すように、頼長にも見知らぬ他人ではない。彼は、頼長に随身として祇候し、出行の際の前駈などを勤めた人物であった。况は女子を生み、忠実の子だと称したので、忠実はあえて逆らわず養っていたが、わが子かどうか疑っていたらしい。しかし、翌八日弔問のため宇治に参った頼長にたいし、忠実は涙ながらに、「年来わが子や否やを疑ふ、今すなはちわが子と知るなり」と述懐している。
 当然、この不義の子が清盛の最初の妻で、重盛の母である可能性が浮上してくる。清盛の妻として有名な二位尼平時子は大治元(1126)年生まれで、宗盛・知盛・重衡・建礼門院徳子などを生んだ。宗盛が生まれたのは久安三(1147)年だから、清盛と時子の結婚はそれより前である。仮に二〜三年前だとしても、况の娘が死後の結婚だから矛盾はない。また清盛の次男基盛は、重盛と同母である。基盛の基は基章の一字をとったのであろうが、その没年から逆算すると保延五(1139)年生まれ、况の娘がまだ生存中に生をうけているから、これも問題はない。」(同書、238〜9頁)
 高橋氏も指摘しているように、平氏が勢力を拡大していくなかでの重盛の行動は、嘉応二年(1170年)の殿下乗逢事件で忠実の孫である摂政・基房に過剰反応するなど非常に複雑であるが、その背景の一つとしてこの母の問題を考えることは可能なように思われる。
2005・1・15

 

徘徊録 La Nomadologie

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