心脳問題
 ーー「脳の世紀」を生き抜く

山本貴光、吉川浩満著
朝日出版社、2004年

 本書は、ウェブ・サイト「哲学の劇場」を主宰する山本貴光氏(HN=八雲出)と吉川浩満氏(HN=吉田浩)の共著。内容は、第一章「脳情報のトリック」、第二章「心脳問題の見取図」、第三章「心脳問題の核心」、第四章「心脳問題と社会」、終章「持続と生」。各章の間にコラムが、巻末には読書案内がついている。
 心脳問題とは、脳と心の関わり合いをめぐるある意味では科学の分野に属すると考えられる問題・言説であり、「脳がわかれば心がわかる」「脳が心を決定する」といった論議が巷にあふれていることから、二人は語り出す。
 古代ギリシアにさかのぼるこうした言説を、著者は唯物論、唯心論、二元論、同一説(物としての人間と心としての人間は同じなにかの異なる見えかただという説)に分類する。そのうえで、それぞれの説の難点を指摘していくのだが、著者によれば、要は「心脳問題」とはカントの言う第三アンチノミー(二律背反)であり、いずれの論点からも唯一の解を与えることができない問題であると指摘する。心脳問題という、ある意味では非常に扇情的なテーマを扱いながら、著者の関心がひたすら言説的(ディスキュルシブ)であるのが快い。
 そしてこの段階で、科学の記述と日常経験の記述は「重ね描き」なのだとする大森荘蔵説が紹介され、心脳問題は、どのように記述されるべき問題なのかという核心に迫っていく。
 さて、大森説を紹介していることでも明らかなように、著者は心脳問題を取りあげながら、科学的記述万能の神話を突き崩すことに力をいれているといえる。それは「心」の復権の主張でもあり、そこから「しあわせ」とは何か、理想の社会とは何かという社会論に踏み込んでいく。それは、「脳がわかれば心がわかる」として、脳の科学から人間ひいては社会のあり方を規定しようという思想と真っ向から対立する態度であることは明白だ。したがって、「心と脳の関係という切実なトピックスについてなんらかの「最終的解答」を求めて本書を手にとった人は、この本の内容にがっかりしたかもしれません。しかし、そのような「うまい話」は存在しないこと、むしろ新たな社会的条件のもとでそのたびに政治的・倫理的な選択を迫るかたちで答えのない問いが提起されつづけるだろうこと、そしてそれこそがこの問題の最大の最大の特質であるということ、これが本書で伝えたかった基底的なメッセージです。」(同書281ページ)ということになる。
 しからば心脳問題はあらゆる言説化を拒否するのか。そこで最後に触れられるのがベルクソンの「持続」すなわち「一般化しえない特異な出来事が継起する事物の本来的なありかた」の概念である。つまり、心とは、人間とは本来的に一回だけの存在であり、その意味で一般化を拒むものでもある。言語もしくは人間の理解がめざすところが同一性(記号化)による存在の把握であるかぎり、心の記述は不可能に近い。それでもなお、同一性を記述する科学、特異なものを生成する芸術、両者の経験の条件を絶えず検討にかけなおす哲学ーーこの三つの方法をたずさえて「持続」のありかたにまなざしをむけることを提案して、本書は終わる。
 脳科学による「心」の解明と近接するアクチュアルなテーマに取り組みながら、それらの解明が言説として失効していることを明晰に記した点が非常におもしろく読めた。またインターネットの世界からこうした著作が生まれてきたということも感慨深い。あえて注文をつけるとすれば、心脳問題の歴史的展望のなかに、デカルトとカントの間に闘われたモリヌークス問題への言及や18世紀の生命論、感覚論、唯物論などへの視線がなかったことであろうか。フランスを中心にして17〜18世紀に行われたこうした論戦をたとえばベルクソンの思想につなげれば、心脳問題に対するベルクソンの視点への理解もさらに深まったであろうと惜しまれる。
 とはいえ、巻末の読書案内も、文学作品を含めて、とりわけ現代の部分が参考になった。
2004・7・17

 

徘徊録 La Nomadologie