| 獣とはなにかを知ることは、もしそれがわれわれはなにかをよりよく認識するための手段でないとすれば、 いささか奇妙なことであろう。こうした観点から、(ビュフォン氏と)同様の主題について推測を行うことが許されるのであるまいか。
ビュフォン氏は語る。「動物がまったく存在しなかったとしたら、ヒトの本性(nature)はいまだまったく理解不能だっただろう。」 しかし、われわれを動物と比較しながら、われわれが自己の存在の本性をけっして理解できなかったであろうと想像するにはおよばない。
われわれには動物の能力しか発見できない。しかし比較という手段は、それらをわれわれの考察に従わせるための巧みでありうる。 「感覚論」が公にされるまで、私は、この作品の計画を抱かなかった。そして、もしビュフォン氏が同じ主題について書いていなかったとしたら (有名な「博物誌」Histoire naturelleの一環として1753年に公刊された「動物の本性についての叙説」Discours sur la nature des animauxを指す:註・如月) この作品について考えもしなかったであろうと告白する。しかし彼は、自分が「感覚論」の対象を補っていたこと、また、私が彼を引用しないという過誤を犯した ことを流布しようとした。 われわれ相互が書いたものを読んだひとが、私に対して行わずに済ませられないであろう非難から自分を正当化するのに、私には、動物の本性と感覚についての 意見を述べるだけで充分である。それがこの作品の第1部のほとんど唯一の目的である。 第2部においては、「動物の本性について」Da la Nature des Animauxというタイトルを与えないように注意させられた体系を構築する。この点に関して、 私は自分の無知を告白し、私の感覚にもとずくヒトの能力の考察と類推による獣の能力についての判断に甘んじる。 この目的は「感覚論」の目的とは非常に異なる。私が今日上梓するこの論考を、「感覚論」と前後無関係に読んでもかまわない。 これらの2作品は、互いを照らしあっているであろう。 |
内容(目次)
|
第一部 デカルトの体系とビュフォン氏の仮説
|
|
|
第1章
|
獣は完全な自動機械ではないということについて、また、ひとはなぜまったく無根拠な体系を想像するに至ったか |
|
第2章
|
獣に感覚があるとすれば、われわれと同様に感じるであろうということについて |
|
第3章
|
獣は純粋に物質的な存在であるという仮説において、ビュフォン氏が獣に感覚を帰するのは不当であるということについて |
|
第4章
|
動物が完全に物質的であると同時に感覚をもつという仮定においては、動物が認識能力をもつのでなければ自己保存に自覚的ではありえないということについて |
|
第5章
|
獣は比較し、判断する。また、獣は観念および記憶を有する |
|
第6章
|
ビュフォン氏が感覚について行った考察の吟味 |
|
結 論
|
(見出しなし) |
|
第二部 動物の機能の体系 |
|
|
第1章
|
すべての動物に共通な習性の生成 |
|
第2章
|
動物における認識体系 |
|
第3章
|
同じ種の個体は真似しようとしなくても同一の方法で行動するということについて、またそれゆえ、ヒトは互いにさほど違いがあるわけではない、なぜなら、真似を強要されるのはすべての動物であるからということについて |
|
第4章
|
動物の言葉について |
|
第5章
|
本能と理性について |
|
第6章
|
どのようにしてヒトは神の認識を獲得するか |
|
第7章
|
どのようにしてヒトはモラルの原則についての認識を獲得するか |
|
第8章
|
ヒトの情念と獣の情念はどのように異なるか |
|
第9章
|
すべての動物における習性の体系、この体系が悪しきものとなるのはいかなるときか、またヒトは悪しき習性を改め得る利点をもつということについて |
|
第10章
|
ヒトおよび獣における悟性と意志について |
|
結 論
|
(見出しなし) |
「アメリカ人への手紙」の著者にあてたコンディヤック師の手紙
| ※この序文および各章の見出しの翻訳にあたっては、Fayard社から刊行されたTraite des sensations, Traite des animaux(1977年)を定本に用いた。 同書は1798年に刊行されたコンディヤック全集所収の2論文を翻刻したものである。(如月) |
![]()
コンディヤックの生涯と思想
「18世紀人物誌」〜ビュフォンの項へ
リニャック(「アメリカ人への手紙」の著者)の生涯と思想