デンマークの絶対王政

 このページでは、絶対王制の成立と終焉を中心に、デンマーク政体の大きな変革をヘリエ・サイゼリン・ヤコブセン氏著「デンマークの歴史 An Outline History of Denmark」;邦訳書、高橋直樹氏訳、ビネバル出版、1995年)、および橋本淳氏編「デンマークの歴史」(創元社、1999年)からたどる。

【デンマーク王政の前提:国家憲章】
 デンマーク王政の骨格は、1282年に制定された「憲章」により明文化された。成立事情を反映して、この憲章は貴族の権利が強く認められ、国王の権限を極度に制約しているところに特徴がある。

「クリストファの没後、王妃であったマルグレーテMargrethe Iは、ヴィボーの司教に対して、まだ成年に達していない息子をエーリク5世として戴冠させるよう圧力をかけた。ところがこの時またもやホルシュタインとの間に抗争が生じ、マルグレーテはエーリクと共に捕らえられて、国中が混乱状態に陥ってしまったのである。町も修道院も農家も、国王や公爵そして司教の、手下どもが略奪をほしいままにし、ローマ教皇はついてデンマーク国内での聖務禁止令を発布した。
 エーリク5世はその後釈放され、成年期に達した1267年頃になって徐々に権力を回復し、1275年には先の教皇による禁止令も解けた。しかし貴族たちは戦費を賄うため、領地の小作人に対する残存していた国王の徴税権をすべて奪ってしまったため、王家の財政は取り返しのつかぬ打撃を被ることになった。そこで王室の貨幣製造者は、貨幣の一部を削り始めたのである。エーリク5世に「切り詰めKlipping」というあだ名が付けられたのはこのためである。
 1282年、ニュボー城で「ダーネホフDanehof」という貴族・聖職者による国会が開かれ、諸侯はエーリク王にデンマーク最初の憲章に署名するよう迫った。この憲章によりダーネホフすなわち国会Parlamentumが年1回開催されることが制度化され、人身保護法が導入され、国王に属する裁判権の多くが、地方領主の支配下にある裁判所へと移行された。この憲章はデンマーク最初の”憲法”と呼ばれるものであるが、その内容は民主的なものからほど遠く、その目的はひたすら王権を制限し、新興の貴族階級の権利を拡大することにあった。1284年には貴族階級の執拗な要求に屈して、政府内に貴族の代表を送り込む権利を認め、貴族たちは国王を直接コントロールするまでになった。」(ヘリエ・サイゼリン・ヤコブセン氏著「デンマークの歴史」)

「アーベル王の死によって、先のエーリク4世の3番目の弟クリストファ1世(在位1252〜59)が王位に就いた。彼は教会との協調関係にあったヴァルデマー諸王時代とは異なり、世俗的権威からの解放を主張するルンド大司教と厳しく対立し、デンマークの混乱の度はさらに深まった。こうした状況下で、自らを防衛できなくなった多くの自由農民が、次第に貴族や高位聖職者に保護を求めていった。農民たちは、彼らに従属し保護を受ける代償として税を支払い、賦役を提供した。その結果、王権は弱体化し、他方貴族階級が権力を伸張させ、やがて王権を制限する勢力へと成長した。1282年、フューン島東部の都市ニュボーで開催された国会で、クリストファ1世の息子エーリク(エーリク5世、在位1259〜86)は、デンマーク初の憲章に署名するよう迫られた。このデンマーク版マグナ・カルタで、エーリクは年1回国会を開催すること、合法的な裁判によらずして処罰したり投獄しないこと、などを約束した。」(橋本淳氏編「デンマークの歴史」)

【絶対王政への転換】
 ドイツを主要な舞台として行われた30年戦争(1618年〜48年)終結後、戦後処理をめぐってデンマークとスウェーデンのあいだに戦争が起こり、その敗戦による疲弊のなかで、中世から続く「憲章」は破棄され、デンマークに絶対王政が導入される。

「3年間の戦い(引用者註記:対スウェーデン戦争)が終結した時、デンマークはかつての領土の3分の1を失い、残された国土は極度に荒廃し、人口の少なくとも15%の命が失われていた。多くの町では家屋の半数が破壊され、人口も半減していた。多数の農民が疫病で死に、生き残った農民には播く種も食糧もまったくない有様だった。森林は無残なまでに荒廃し、国の経済は破産したのである。
 1660年9月、国王、貴族、聖職者、市民がコペンハーゲンで政治的会合を持ったが、人口の85%を占める農民はまったく無視されていたのである。聖職者と市民は貴族の免税特権を激しく非難し、貴族が構成する国務院が国王に対して戴冠憲章を強制するのを防止するため、この国を世襲王国にする法案を提出した。フレゼリク3世もこの時市門を封鎖させて貴族に圧力をかけた。捕虜同前の状態に置かれてしまった貴族の指導者たちは、これに同意せざるを得なくなった。
 これはクーデター以外の何物でもなかったが、実際には、馬上の騎士の時代がもうとっくに終わってしまっていたという事実が、政治的に遅まきながら反映されたにすぎなかった。
 かくして10月18日、フレゼリク3世は世襲君主として臣従の誓いを受けた後、この集会を解散させた。貴族に対する盲目的な憎悪に支配されていた市民は、自分たちの権利について国王の保証を取り付けることをすっかり忘れてしまっていたのである。国王はこの問題の処理を自分の手の内に握ったまま絶対君主の座に就いたわけである。彼は戦争には敗れたものの、国内の権力抗争では凱旋将軍となったのであり、かつて国王としてこれ以上無力な者はあり得ないほど無力な立場にあった者が、今や国内においては、フランス王ルイ14世でさえ握ることのできなかった至高の権力を握ることになったのである。」(ヘリエ・サイゼリン・ヤコブセン氏著「デンマークの歴史」)

「1660年9月、経済的危機を打開するために、コペンハーゲンに身分制議会が召集された。今回の議会には約200人の諸身分(貴族、聖職者、市民)の代表が参加したが、人口の大半を占める農民の代表の姿はなかった。まず新税の導入を巡り、特権身分の貴族と非特権身分の聖職者および市民の対立が表面化するなか、10月初旬に突然、市民側から政体の変更問題、すなわち選挙王制から世襲王制への移行が議題として持ち上がってきた。世襲王制に変わると、これまで王権を制限し、貴族にとって有利な特権を保証してきた即位憲章の拘束なしに王権が継承されていくため、貴族たちの政治的影響力は決定的に低下することになる。これはクリスチャン2世以来の悲願で、国王側の望むところでもあった。10月8日、非特権身分はこの世襲王制導入提案を、有力貴族で構成される王国顧問会議に送付したが、その返事が煮え切らないものであったため、今度は直接国王に面会して自分たちの意向を伝えるとともに、国王の考えを求めた。フレゼリク3世はその場での即答を避け、翌日の回答を約束した。このことは、世襲王制導入の判断が最終的には国王に委ねられたことを意味している。その後、国王と王国顧問会議の間で頻繁な交渉が行われた結果、最終的に王国顧問会議は王国の不分割および諸身分の特権保証を条件として、世襲王制への移行に同意した。これがデンマーク史で「政変」と呼ばれる出来事である。
 世襲王制導入後、直ちに統治体制の基礎となる憲章を制定するための委員会が設けられた。そこでまず問題となったのは、現行即位憲章の扱いであった。議論はしたが結論は出ず、結局その取り扱いを国王に一任することになり、各身分は、10月16日、委員会決定に基づき、現行即位憲章の破棄に関する文書に署名した。これは歴史的大事件であり、まさにこの時点で13世紀以来、様々な形で王権を制約してきたものが消滅し、王権が強化されたのであった。10月18日には、政体の変更を正式に内外に披露する宣誓式が開催された。そしてその数日後、王国顧問会議が廃止され、同時に身分制議会も19世紀まで召集されることはなくなった。さらに1660年末までに財務省、国務省、官房、陸軍省という中央官庁が次々と創設され、国王を中心とする新体制の基盤が整えられていった。
 そして年が明け、1661年1月10日付けで、通常「絶対世襲政府文書」と呼ばれる文書が交付、回覧され、諸身分(聖職者983人、市民381人、貴族183人)が署名した。この文書の本質的な内容は、諸身分が国王に対して絶対的政府すなわち絶対王権を無条件に与えることであった。このようにして世襲王制が導入されて数カ月後に、大した議論もなく絶対王政という政治体制が、いとも簡単にデンマークに導入されることになった。そしてその特徴は、他の西欧諸国のように王権神授説等に基づいて国王が勝手に導入したものではなく、絶対世襲政府文書にみられたように、諸身分より国王に与えられた形式を取っていることである。」(橋本淳氏編「デンマークの歴史」)

【絶対王政の終焉】
 1848年、フランスの2月革命の報を受けた市民集団のデモ行進が起こると、国王は市民の要求を受け入れ、デンマーク絶対王政は平和裡に終焉した。

「フレゼリク7世が戴冠式を挙げる直前の1848年3月21日のこと、コペンハーゲンで”自由主義の実現”を求める市民のデモ行進が発生した。そして市の役人を先頭に立てたこの平和な行進が、1660年以来の絶対王制に終止符を打つことになったのである。しかし他のヨーロッパ諸国の首都とは異なり、このデモ行進は軍隊と衝突するなどという事態にはついに至らなかった。そして、新王フレゼリク7世がクレチャンスボー宮殿のバルコニーに姿を現して、自由主義憲法を制定する約束をしたのである。」(ヘリエ・サイゼリン・ヤコブセン氏著「デンマークの歴史」)

「フランスの2月革命の知らせが届くと、コペンハーゲンでは、市民の要求に対する政府の政治決断を求める動きが活発になった。同時に公爵領(引用者註記:シュレースヴィッヒ・ホルシュタイン)では、ドイツ諸邦の動きに連動した身分制地方議会議員らが、シュレースヴィッヒ・ホルシュタインに共通の憲法と両地域のドイツ連邦への帰属を求め、その請願を掲げる代表団をコペンハーゲンに派遣することを決定した。
 その動向が伝わると、コペンハーゲンではナショナル・リベラルを中心とする市民集団が3月20日にカシーノ劇場で集会を開き、革命を求める宣言を採択した。ここに革命への気運は最高潮に達し、翌日1万5000人の市民が王宮へ向けて行進した。国王は、すでにこの時までに政権担当者を解任しており、市民集団の宣言に対してその要求を承諾する解答を出した。かくしてデンマーク絶対王政は、無血のうちに終焉した。」(橋本淳氏編「デンマークの歴史」)



17〜18世紀簡易年表

マブリ「市民の権利・義務について」(第三の手紙/その3)

参照:ポーランド小史