ディドロとモリヌークス問題

〜「盲人に関する手紙」から〜

 17世紀末から問い続けられてきたモリヌークス(モリヌー)問題は、ディドロの「盲人に関する手紙(盲人書簡)」(1749年刊)で一応の決着を見る。この作品は、生まれながらの盲人の心理、盲人の物理学や幾何学の認識を主題としたもので、最後にモリヌークス問題にふれられる。ここでディドロが最終的に出した結論は、「初めて眼を開いた幼児や、手術を受けたばかりの盲人の場合では、視覚作用が非常に不完全にしか行われない」というものであり、そもそも問題が不適切に問われていたことを明らかにするものであった。しからばモリヌークス問題はまったく無意味に問われていたのであろうか。いやそうではあるまい。いわば「白紙状態」の感覚認識の例として手術によって視力を得たばかりの盲人の視覚認識が問われたればこそ、視覚認識そのものにもある種の習熟が必要であることが明らかとなったのだ。この指摘は、直感的な視覚認識を否定するという意味では、一見、経験論よりであるようにみえながら、その実、経験そのものの絶対性・無関与性をも奪うという破壊的な性質のものであった(なぜならロックら経験論者は「白紙状態」での完全な視覚認識を前提としており、経験そのものは、その白紙の認識にいろいろな事実を書き込む透明なプロセスとみなしていたから)。ディドロは、単純な経験論を超え、認識のもつ身体性の問題を新たに切り開いたともいえる。この「盲人に関する手紙」を受け、コンディヤックは、再度、感覚認識とは何かという問題を立てざるをえなくなる(「感覚論」1754年)。
 こうして、いわゆるモリヌークス問題は一応の決着をみたが、これまたディドロが指摘しているように、モリヌークスの発した問いは、本来的に、「視覚と触覚から受ける印象がたえずくいちがっているような人」の認識という別の問題点をも孕んでおり、その解決は後代に残された。私見では、失語症についての研究が、この二つの感覚器官が形成する認識の統合という問題の解明に取り組んでいるように思われる。
 そうした展開はさておき、以下、ディドロ著作集第一巻(法政大学出版局、1976年)収載の「盲人に関する手紙」(平岡昇訳)から、モリヌークス問題についてのディドロの見解の一部を抜き出して紹介する。



 生まれつきの盲人の問題は、モリヌー氏が提出したよりもう少し一般的に取り上げるならば、他の二つの問題を含んでおります。今からそれを別々に考えていくことにいたしましょう。第一に、生まれつきの盲人は、白内障の手術が行われるとすぐに見ることができるかどうか問うことができます。第二に、見ることができる場合、図形を十分判別できるほど見えるかどうか、触っているときにつけていた名前を、見ることによって図形に確実に与え得るかどうか、またこの名前が図形にかなっているという論証を得られるかどうかを問うことができます。
 生まれつきの盲人は、その器官が治った直後に見ることができるでしょうか。(中略)
 この推論にチーゼルデン(訳注:Cheselden、イギリスの有名な外科医<1688−1752>。生まれながらの14歳の盲人少年の白内障の手術をした。彼の実験については、早くからフランスに知られていたが、とくに、ヴォルテールが「ニュートン哲学要綱」<1738>の中でこれを花々しく紹介して一層有名になった。その後、ディドロのほか、ラ・メトリ、ビュフォンもこれにふれた。)の有名な実験をつけ加えることができます。この有能な外科医が白内障を手術してやった青年は、長い間大きさも距離も位置も外形さえも判別しませんでした。眼の前に置かれ、家を隠してしまう1インチの事物が、彼には家と同じ大きさに思われました。彼はすべての事物を眼の上にもっており、それらは、触覚の対象が皮膚に押し当てられているように、この器官に押し当てられているように思えました。彼は、手の助けで丸いと判断していた物と、角形と判断していた物とを見分けることができませんでしたし、上に、あるいは下にあると感じていた物が、実際に上に、あるいは下にあるかどうかを眼で識別することもできませんでした。とうとう彼は、ただし大変な苦労の末にでしたが、彼の家が彼の部屋より大きいことを認めるようになりました。けれども、どんなふうに眼がこの観念を与えてくれるのかを理解するまでにはなりませんでした。(中略)
 初めて眼を開いた幼児や、手術を受けたばかりの盲人の場合では、視覚作用が非常に不完全にしか行われないことが、ほとんど疑う余地がないほどです。
 したがって次のことを認めなくてはなりますまい。即ち、私たちは対象の中に無数の事物を認めるに違いありませんが、幼児や生まれつきの盲人は、眼底には事物がひとしく写されているにもかかわらず、それらを認めることができないのです。また、事物が私たちを刺激する、というだけでは十分でなく、さらに私たちが事物の印象に注意を払わなければならないのです。だから、眼を初めて用いたときには、人は何物も見ることができません。視覚作用の最初の瞬間には、多数の混乱した感覚印象を受けるにすぎず、それはただ時間とともに、また、私たちのなかで起ることについて反省を重ねるにつれて、次第に判断されるようになるのです。感覚印象を、それを惹き起したものと比較することをわれわれに教えてくれるのは、ただ経験だけであり、感覚印象は事物と本質的に類似しているようなものは何ももっていないので、純粋な約束事のように思われる感覚と事物の類比について教えてくれるのも経験です。一言でいえば、事物と事物から受ける像との一致について正確な知識を眼に与えるのに、触覚が大いに貢献していることを否定することはできません。(中略)
 視覚と触覚から受ける印象がたえずくいちがっているような人については、私は、彼が形や秩序や対称や美や醜についてどう考えているかわかりません。(以下省略)
(上掲書、85〜97ページ)

 

ディドロの生涯と思想

ビュフォン「博物誌」とモリヌークス問題

「モリヌークス問題」(感覚と認識について)

コンディヤックとモリヌークス問題