グロティウスの「自由海論」
〜"Mare liberum" de Grotius〜
| 1603年に起こったネーデルラント商船によるポルトガル船カタリナ号捕獲事件を受け、ネーデルラントの東インド会社は、グロティウスにこの事件を正当化する論考の執筆を依頼した。これに応じて、グロティウスは1604〜6年の間に航行・交易の自由を主張した「捕獲法論」De
iure praedae commentariusを執筆している。この著作はグロティウスの生前に刊行されることはなかったが、1609年、そのなかの第三部第12章に修正を加えたうえで抜き出した「自由海論」Mare
liberumが匿名で出版され、国際的な大論争を引き起こした。このページでは、伊藤不二男氏による「自由海論」の邦訳(有斐閣、1973年)から、その内容目次を引用、合わせてグロティウスの立論の核心となる序文の論旨を私見により紹介する。 序文 キリスト教世界の諸君主と自由な諸国民に対して 第1章 航行は、万民法によってなに人にも自由である 第2章 ポルトガル人は、オランダ人が航行する東インド諸島に対して、発見(先占)によっても、いかなる支配権(所有権)をも有しない 第3章 ポルトガル人は、東インド諸島に対して、教皇の贈与によっても、支配権(所有権)を有しない 第4章 ポルトガル人は、東インド諸島に対して、戦争にもとづいても、支配権(所有権)を有しない 第5章 東インド諸島へ行くまでの海と、その海を航行する権利とは、先占(占有)によっても、ポルトガル人の独占とはならない。 第6章 海と航行の権利は、教皇の贈与によっても、ポルトガル人の独占とはならない 第7章 海と航行の権利は、時効や慣習によっても、ポルトガル人の独占とはならない 第8章 通商は、万民法によっていかなる人の間においても自由である 第9章 東インドとの通商は、先占によっても、ポルトガル人の独占とはならない 第10章 東インドとの通商は、教皇の贈与によっても、ポルトガル人の独占とはならない 第11章 東インドの住民との通商は、時効や慣習によっても、ポルトガル人の独占とはならない 第12章 ポルトガル人が通商を禁止するのは、衡平にもとづいても、いかなる支持をもうけない 第13章 オランダ人は、東インドとの通商の権利を、平和のときでも、休戦のときでも、戦争のときでも、維持しなければならない 【序文の要旨】 正と不正とは、それ自体の本質によってではなく、人間のある根拠のない意見や慣習によって区別される、という間違った考えがある。 しかしながら、これに反して、いかなる時代においても、なにものにもとらわれることのない、賢明にして信仰の厚い人たちもいた。かれらは、神が宇宙の創造主であり、支配者であること、ことに人類の父であることを、はっきりと示した。それゆえに、神は、他の生物についてなしたように、人類をいろいろな種や、さまざまな類に区別することなく、それが人類という一つの類をなし、単一の名称でしられることを欲したのである。また、神はさらに、その人類に同一の起源と、同様の体の組織と、お互いに向い合う顔と、それに言葉やその他の意思を伝え合う手段をも与えた。が、これらは、かれらがすべて、相互に自然的な社会を構成し、血族関係であることを理解するためであった、というのである。そして、なおつぎのように説く。すなわち、神は自分の家族の最高の主であり、父であるから、その神みずから創造したこの家族や国家のために、ある法律を定めた。が、それらの法律は、銅板や石の板に書かれたものではなくて、個々の人間の意識や心のなかに刻まれたものである。従って、これを欲しないものも、これに反対するものも、それらの法律を読まないわけにはゆかない、ということになる。そのために、最高の地位にあるものも、最下位の地位にあるものも、等しくそれらの法律によって拘束される、ということになる。このようにして、それらの法律に対しては、君主たちといえども、一般の市民が役人の命令に対して、なしうる以上のことを行うことはできない。いなむしろ、おのおのの国家や都市の法律自体が、その神の根源からひきだされたものであり、それゆえに、自己の神聖と権威とを、その神の根源から与えられるものである、と説く。 ところで、人間自身についてみると、一方では、各人がすべての人と共通に所有するものがあり、他方では、他の人の所有から区別されて、各人が別々に所有するものがある。これはまさしく、自然が人間の使用のために作りだしたもののなかで、一方において、あるものは、すべての人間に共通のまま残され、他方において、他のものは、各人の努力と労働によって自分自身のものになることを、自然が欲したからである。このようにして、法律も、つぎの二つの場合について規定するために定められている。すなわち、一つは、すべての人たちが、たしかに他の人を害することなく、共通に使用しうる、という場合である。他は、各人がみずから所有するところのもので満足し、他の人の所有を侵してはならない、という場合である。 もしある人が、非常に神聖な宗教の信仰告白が要求すること、ーーつまり、その最小限度の要求は、不正を行ってはならないということであるが、ーーそのようなことを自分に尋ねても、正確には答えられない、というならば、たしかに各人は、自分の義務、つまり自分がなにをなすべきかということを、かれ自身が他のものに命令すること(すなわち、自分の国の国内の法律で、どのように定められているか、ということ)からしることができる。そうすると、諸君のうちのなに人も、各人が自分の所有するものに対して、それを支配し自由に使用しうる権利を有するということを、公然と主張しないものはない。また、すべての国民が、河や公の場所を平等にかつ差別なく使用しうる権利を有することを、主張しないものもない。さらにまた、交通と通商の自由を、全力をつくしてまもろうとしないものもない。 もしこれらの規則がなければ、われわれが国家とよぶ、あの小さい社会が存立しえないことになる。と、判断されるならば、なぜそれと同じことが、全人類の社会とその調和を維持するために必要ではないのか。宇宙の王は、人間の事柄に介入する二人の裁判官を、みずから任命した。それらの裁判官は、罪人のなかのもっとも運のよいものですら、それからのがれることができないものである。が、それは、すなわち、各人が有する自分自身の良心と、世論、つまり他の人たちの評価とである。 この二つの裁判所に対して、われわれもまた新しい事件を提訴する。それは決して、個人の間でよく行われるような、雨垂れとか杭に関してなされる訴えでもなければ、たしかに、近接した国境における土地の権利や、河や島の領有に関して、諸国民の間にしばしば行われるような、そのような種類のものではない。むしろそれは、海洋のほとんど全域や、航行の権利や、通商の自由に関するものである。われわれとスペイン人との間には、つぎの論争がある(引用者註記:「自由海論」刊行当時、ポルトガルとスペインは同君連合を結んでおり、ポルトガルとの係争は、スペインとの係争をも意味した)。すなわち、広大にして果てしのない海洋が、一つの王国の領域となりうるか、それとも、それは全世界の領域なのか、ということ。ある国民が、そうすることを欲する他の国民に、物を売ることや、交易を行うことや、さらに相互に交通することを禁止する権利を有するか、ということ。いかなる人も、決して自分のものではないものを、他に与えることができるか、また、すでに他のものに属するものを、最初に発見(先占)したということで取得することができるか、ということ。明白な不正が、永い間慣習として行われてきたということで、それが、あるなにらかの権利となりうる、ということが、いったいあるであろうか、ということである。 上述の問題の基礎となる法律は、それがすべての諸国民において同一であることを考えると、これを発見することは困難ではない。また、それが個々の人間にとって生得のものであり、個々の人間の心に植えつけられたものであることを考えると、これを理解することも容易である。つまり、われわれが訴える法は、いかなる国王もその臣民に対して、またいかなるキリスト教徒もキリスト教徒でないものに対して、これを否定してはならない、そのような性質のものである。というのは、それは、自然からひきだされたものであるからである。が、その自然とは、すべての人間に平等で、すべての人間に恵み深い母であり、その支配は、諸民族を支配するものたちにもおよび、最大の恵みをうけている人たちによって、もっとも神聖なものと認められているものである。 諸々の君主たちよ、この事件を審査してもらいたい。諸々の国民たちよ、それを審査してもらいたい。 この事件において、われわれは、おそらく根拠のないことを主張しているのではない、ということを期待する。諸君は、これまでわれわれにとって、親切で好意をもった友人であった。従って諸君は、将来においても、ますます親切な友人となるであろう。幸福の第一の条件は、正しい行為をすることであり、第二の条件は、正しい評判をきくことである、と考える人たちにとっては、それ以上に好ましいことはありえない。 |
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