エルヴェシウス『精神論』

"De l'Esprit" d'Helvetius


〜Preface〜

前書き

 この作品で私が吟味することを提案している対象は興味深い。新しくさえある。これまで人は、その幾つかの側面においてしか精神を考察しなかった。大作家たちは、この題材に対して慌ただしい一瞥を投じたに過ぎなかった。そのようなわけで、私は大胆にもこの題材を扱ってみようと考えるにいたったのである。
 その言葉をもっとも広義にとらえるとき、精神についての認識は人間の心と情念についての認識ときわめて緊密に結びついており、この主題について執筆する際に、すべての民族に共通する道徳のこうした部分について、またすべての政府において公共の利益という目的しかもちえないこうした部分について、少しも言及しないことは不可能であった。
 この題材について私が確立する諸原則は、おもうに、一般的な関心と経験に合致したものである。私が原因へと遡及したのは、事実からである。私は、道徳を他のすべての科学と同様に扱うべきであると、またそれを経験的物性論となすべきであると信じた。私は、その原則が民衆に有益なすべての道徳は、必然的に、人間道徳の仕上げにほかならない宗教道徳に合致するという確信によってのみ、この観念に身を委ねた。しかしながら、もし私が誤っていたというならば、また、私の期待に反してもし私の原則の幾つかが一般的関心に合致しなかったというならば、それは、私の才覚(精神)の誤りであって心の誤りではないであろう。それゆえ私はあらかじめ、そうした原則を非とすることを宣言しておく。
 読者に対しお願いする赦免はただ一つである。それは、私を非難する前に私の言うことを聞いて頂きたい、すなわち、私の全観念を結び付けている鎖を追って頂きたいということである。私の味方というより私の裁判官になって頂きたい。この要求は、愚かな確信の結果ではない。自分の光明について高尚な見解を抱くには、私はあまりにもしばしば、朝には良いと信じていたことが夜になると悪いとおもわれるということを経験している。
 おそらく私は、自分の力以上に主題を扱ったかもしれない。しかし自分の力を過信しないほど自分自身をよく知っている人間など存在するであろうか?少なくとも私は、公衆の同意に値する努力をまったく行わなかったと自分を非難する必要はないであろう。もし私が公衆の同意を得ないならば、驚くというより、それを悲しむであろう。この分野においては、そうした同意を獲得するためには欲するだけでは不十分なのである。
 述べたことすべてにおいて、私は真実しか求めなかった。それは、真実を語る名誉のためのみならず、真実は人間に有益だからである。にもかかわらず私が真実からそれていたというならば、誤りのなかに、私は慰めの動機すら見いだすであろう。フォントネル氏は次のように言っている。「人間は、ある分野において想像上のすべての愚行を極めつくした後でなければ、どのような分野にせよ、理性的ななにものかに到達することができないのであろうか」と。それゆえ、私の誤りは同市民にとって有益であろう。私は自分が難破した暗礁を示したことになるであろう。フォントネル氏は続ける。「もし古人がわれわれより先に愚かなことを言っていなかったとして、またあえて言えば、われわれからそれを取り除いていなかったとしたら、現在われわれはどれほど愚かなことを言っていたであろうか」と。
 それゆえ私はもう一度言う。私の作品において私が保証するのは、意図の純粋さと正当さでしかないと。しかしながら、その意図がどれほど確実であったとしても、羨望の叫びがかくも好意的に聞こえ、その頻繁な朗読が光明に照らされたというよりは実直な魂を誘惑するに十分なときには、言わば、震えながら書くことしかできない。しばしば諧謔的である不名誉が才能ある人間を突き落とす失意は、無知の世紀への回帰の前兆をすでに示しているようにみえる。すべての分野において、人が嫉む者の追求からの隠れ家を見いだすのは、その才能の中庸さのなかにでしかない。中庸さは、今や保護にと転じている。そして私は、まさしくわれ知らずこの中庸さに配慮したのである。
 そのうえ私は、羨望は同市民のある者を傷つける欲望を私に帰することを困難にすると考える。個人としての人間をまったく考察せず、総体としての人間や民族について考察しているこの作品は、悪意からくるすべての疑いからの避難所を私に提供するに違いない。以下の諸講釈を読みながら、人は、個人としての人間の幾人かを憎んだり軽蔑するどころか、私が人間を愛していること、人間の幸福を欲していることに気づくであろうとさえ付け加える。
 私の観念のうち幾つかはおそらく冒険的とみえるかもしれない。もし読者がそれらは誤りであると判断するならば、それらの観念を非難しながらも、人がしばしばもっとも大きな真理の発見を負わせるのは試みの大胆さにほかならず、誤りをおかすことの恐れが真理の探究からわれわれの身をそらさせることはけしてないはずであるということを思い起こすよう、読者に懇願したい。悪意があり卑劣な人間がその探究を斥けようとし、それに対してしばしば放縦という唾棄すべき名前を与えようとしても無駄である。真理はしばしば危険であると彼らが繰り返しても無駄である。真理がしばしば危険であるとしても、無知のなかでよどむことに同意した民族が、さらに大きな危険にさらされることはないだろうか?光明なきすべての民族は、野蛮獰猛であることをやめたとき、堕落し遅かれ早かれ征服される。ローマ人がガリア人に勝利したのは、軍事学の価値によってではなかった。
 もしこうした真理の認識が、ある瞬間、なんらかの不都合をもちうるとしても、そうした瞬間が過ぎれば、同じ真理はふたたび、すべての世紀すべての民族にとって有益となるであろう。
 結局、以上が人間に関する事柄の宿命である。ある瞬間に危険となりえないようなものはなにも存在しない。しかし人がそれを享受するのは、こうした条件においてでしかないのである。こうした動機にことよせて、それから人間性を奪おうとするものに不幸あれ。
 特定の真理の認識が禁じられるとき、もはやいかなる真理について語ることも許されないであろう。権力があり、またしばしば悪意さえもった幾千人かの人々は、しばしば、真理を沈黙させるほど賢明であるという口実のもと、世界から真理を完全に追放するかもしれない。それゆえ、光明に照らされ、また彼らだけが真理のすべての価値を知っている民衆は、絶えることなく真理を求める。民衆は、真理がもたらす真実の利益を享受するためにある種の悪にさらされることをけして恐れない。人間の諸性質のなかで、民衆が最大の敬意をはらうのは、虚言を拒む魂のこうした高揚である。民衆は、すべてを考え、すべてを語ることがいかに有益であるかを、またそれに対して反論を述べることが許されるときには、誤りでさえも危険であることを止めるということを知っている。そのとき、やがてそれは誤りであることが知られ、忘却の深淵のなかに自らの身を沈め、真理のみが諸世紀の広大な延長のなかに浮かび上がってくるのである。



『精神論』目次

『精神論』〜第一講第1章「諸原則の説明」