| 第一講 精神そのもの 本講の目的は、「身体的感受性」と「記憶」がわれわれのすべての「観念」を生み出す原因であること、また、すべての誤った判断は、われわれの情念もしくはわれわれの無知の結果であることの証明である。 第1章 諸原則の説明 人は毎日、「精神 Esprit」と呼ぶべきものについて議論する。おのおのがめいめいの言葉で語る。しかしこの言葉に同じ観念を結び付けるものは誰もいない。すべての世人は理解することなしにそれについて語っている。 この「精神」という言葉および人がこの言葉を理解している異なった語義に適正かつ正確な観念を与えるうるためには、まず精神をそれ自体として考察しなくてはならない。 人は精神を思考能力の結果であると(そしてこの意味における精神は人間の思考の集合に過ぎないと)みなしているか、あるいは思考能力そのものと判断しているか、いずれかである。 後者の意味で理解された精神がなにであるかを知るためには、われわれの観念を生み出す原因とはなにであるかを認識しなくてはならない。 われわれは自分自身のうちに二つの能力、あるいはあえて言えば、その存在が広くかつ判明に承認されている二つの受動的力能をもっている。 その一方は、外的対象がわれわれに与える異なった印象を受け取る能力であり、人はそれを「身体的感受性 sensibilite physique」と呼んでいる。 他方は、これらの対象がわれわれに与える印象を保持する能力であり、人はそれを「記憶 Memoire」と呼んでいる。記憶とは、継続してはいるが弱まった感覚以外のなにものでもない。 私がわれわれの思考を生み出す原因とみなしており、また動物とも共通するこれらの能力は、特定の外的組織と結びついていないならば、非常に少数の観念しかわれわれに引き起こさないであろう。 もし自然が、自由に動く手と指の替わりに、われわれに馬の脚を与えていたならば、技芸をもたず、住居をもたず、動物に対する防御手段をもたず、食べていくことと獰猛な野獣を避けることの配慮にだけ専念して、人間は逃げ回る群として森のなかをさまよっていたであろうことを誰が疑うだろうか。 ところでこのように仮定すると、いかなる社会においても、社会統制が現在そうであるような完全な段階に達することはなかったであろうことは明白である。もし人がその言語からわれわれの手の使用を前提とする「弓」「矢」「弦」といった言葉を取り去ったならば、二百の観念しかもたないためにその観念をあらわすための二百の言葉しかもたず、その結果、動物の言語のようにその言語が五つか六つの音声や叫びにまで縮小している特定の野蛮な民族よりも精神に関してかなり劣る状態にいなかったような民族は存在しないであろう。ここから私は結論する。特定の外的組織なしには、感性と記憶はわれわれにとって不毛の能力でしかないであろうと。 さて今度は、この組織のたすけによって、これら二つの能力がほんとうにわれわれのすべての思考を生み出すかを調べてみなくてはならない。 この主題にはいる前のすべての吟味において、おそらく人は、これら二つの能力は霊的もしくは物質的実体の変様ではないかと私に問うであろう。哲学者たちによってかつて論争され、<古代の教父たちによって論議され、>われわれの時代に再提起されているこの設問は、私の作品の企図には必ずしも関係しない。「精神」に関して私が言いたいことは、この仮説の双方に同程度に一致する。この主題に関して、私は単に次のことを観察する。もし教会がこの点についてわれわれの信念を確定しておらず、人が理性の光によってのみ思考原則の認識に達する必要があったならば、人は、この類のいかなる見解も証明が疑わしいと確信することを禁じ得なかったであろう。また人は理性をあれこれ吟味し、難点を均衡させ、最大の真実らしさによって証明し、その結果、仮の判断にしか達しないであろうと。他の無数の問題同様、確率計算のたすけによってしか人はこの問題を解くことができないであろう。それゆえ私はこれ以上この設問に留まらず、自分の主題へとすすんで次のように言いたい。身体的感受性と記憶、あるいはより正確に言えば、感受性のみがわれわれのすべての観念を生み出すと。実際のところ、記憶は身体的感受性の器官の一つでしかありえない。われわれのうちなる感じる原則は、必然的に想起する原則でなくてはならない。なぜなら、すぐに証明するように、「想起する se ressouvenir」とはまさしく「感じる sentir」ことに他ならないのであるから。 一連の観念によって、あるいはある種の音声が私の耳の器官のうちに引き起こす振動によって、私が樫の木の形像を思い浮かべるとき、私の内的器官は必然的にこの樫の木を見ているときの状態にほぼ近い状態になくてはならない。ところで、器官のこうした状態は、確実にある感覚を生み出さなくてはならない。それゆえ、想起することが感じることであるのは明白である。 この原則が認められるならば、さらに次のように言おう。精神のすべてのはたらきが存するのは、さまざまな対象が相互間に有する類似もしくは相違、適合もしくは不適合についてのわれわれの知覚能力のうちにであると。ところで、この能力は身体的感受性そのものでしかありえない。それゆえすべては感じることに帰着する。 この真実を確証するために、自然について考察しよう。自然はわれわれに対象を提示する。これらの対象はわれわれと関係をもち、相互のあいだでも関係をもっている。この関係の認識が、人が「精神」と呼ぶものをかたちづくる。それはこの類におけるわれわれの認識の広がりに応じて、大きくも小さくもなる。人間精神は、これらの関係の認識にまで達する。しかしこの関係は人間精神がけして乗りこえることのない限界である。それゆえ、さまざまな言語を構成し、人が人間の思考のすべての記号の集合とみなすことのできるすべての言葉は、「樫の木」「大海原」「太陽」といった言葉のようにわれわれに形象を思い浮かべさせたり、観念すなわち対象相互のあいだのさまざまな関係を指示したりーーこれには、「大」「小」といった言葉のように単純な観念と「悪徳」「美徳」のように複合観念とがあるーー、さらには対象がわれわれとのあいだにもつさまざまな関係を表現したりするーーこれには、「私は砕く」「私は掘る」「私は持ちあげる」といった言葉のように対象に対するわれわれの行動の表現と、「私は侮辱された」「幻惑された」「恐い」のように対象に対するわれわれの印象の表現とがあるーー。 たとえば「木の観念」とか「美徳の観念」という風に人が非常に異なった語義で受け取る「観念」という言葉の意味を以上のように要約したのは、この表現の意味の不決定が、言葉の誤用がつねに引き起こす誤謬に陥らせうるからである。 私が述べたことの結論は次のとおりである。もし異なった言語のすべての単語が、対象および対象とわれわれ、もしくは対象間の関係しか指示しないならば、それゆえ、すべての精神はわれわれの感覚や観念を比較すること、すなわち、それらが相互間でもつ類似や相違、適合や不適合を観ることで成立する。ところで判断とはこうした知覚力そのものでしかないか、あるいは少なくとも、こうした知覚力の宣告でしかないので、精神のすべての作用は判断することに帰着するということが結果する。 これらの限界に含まれる疑問のなかから、今度は「判断する」とは「感じる」ことではないか調べてみよう。人が私に提示する対象の大きさや色について判断するとき、これらの対象が私の感覚器官に引き起こした異なる印象についての判断が、まさに感覚以外のなにものでもないのは明白である。また次のような場合、私は判断するとも感じるとも同様に言いうることは明白である。すなわち、二つの対象があって、私が「トワーズ」と呼ぶ対象が私が「ピエ」と呼ぶ対象とは異なる印象を引き起こす場合、また私が「赤い」と名付ける色が私が「黄色い」と名付ける色とは異なる作用を眼に及ぼす場合である。ここから私は結論する。このような事例の場合、判断するとは感じること以外ではありえないと。しかし、と人は問うであろう。身体の大きさよりも力の方が好ましいような場合、判断することが感じることであると確信することができるか知りたいものだ、と。それに対しては「然り」と私は答えるであろう。なぜならこの主題に判断をくだす前に、記憶は、人生行路において私がごく普通に遭遇したさまざまな状況の光景を次々に引き写すに違いないからである。さて判断するとは、これらの光景において、力は身体の大きさよりも非常にしばしば有益であると観ることである。しかし、と人は再び問うであろう。王において正義が善意よりも好ましいか判断することが問題であるような場合にも、判断は感覚に過ぎないと想像することができるだろうかと。 疑いなく、こうした見解にはまず詭弁の趣がある。しかしながら真実を証明するために、ある人間のなかに人が善悪と呼ぶ認識を仮定しよう。そしてまたこの同じ人間が、行動は社会の幸福を害するか否かに従って多かれ少なかれ悪となることをも知っていると仮定しよう。この仮定において、国家に多くの市民を保持させる正義が、王においては善意より好ましいことを生き生きと知覚させるために、詩人や雄弁家は、どのような技を使う必要があるだろうか。 雄弁家は、この同じ人間に想像上の三つの光景を提示するであろう。最初の光景においては、雄弁家は罪人に死刑を宣告し刑を執行させる公正な王を、二番目においては、同じ罪人の牢獄を開き彼を鉄鎖から解放する善意ある王を描写するであろう。三番目においては、この同じ罪人が、牢獄を出ると短刀を手にして50人の市民を殺戮するのを表現するであろう。ところでこの三つの光景を前にして、たった一人の死によって50人の死を予防する正義が、王においては善意よりも好ましいと感じない人がいるであろうか。しかしながら、この判断は実際には感覚に過ぎない。実のところ、特定の観念を特定の言葉に結び付ける習慣によって、経験が証明するように特定の音声によって耳を刺激しながら、われわれのうちに、対象が現前するときに経験する感覚とほぼ同じ感覚を引き起こすことができるならば、これら三つの光景の開陳にあたって王においては正義が善意より好ましいと判断することは、最初の光景において一人の市民を犠牲にし第三の光景において50人の市民を殺戮するのを感じかつ観ることである。ここから私は、すべての判断は感覚に過ぎないと結論する。 しかし、と人は言うであろう。たとえば特定の方法の多少なりとも大きな卓越についての判断をも感覚 と同列にしなくてはならないのだろうかと。それはたとえば、多くの対象を記憶するのにふさわしい方法や抽象の方法、分析の方法のことである。 この反対論に答えるためには、まずはじめに、「方法 methode」という言葉の意味を定義しなくてはならない。方法とは、直面している目的に至るために人が用いる手段以外のなにものでもない。ある人が特定の対象もしくは特定の観念を記憶しようとしており、偶然がそれらを、ある事実もしくは観念の想起が他の無数の事実もしくは観念の記憶を呼び起こすような具合に配置し、かくてその人は特定の対象を記憶に容易にかつ深く刻みつけたと仮定しよう。そのとき、この配列は最良であると判断し、それに「方法」の名を与えること、それはすなわち、他のすべてではなくこの配列を学びながら、注意のための努力が少なくて済んだ、より困難でない感覚を試したと言うことである。ところで、困難な感覚を想起することは感じることである。それゆえ、この事例において「判断すること」が「感じること」であるのは明白である。 次のことも仮定してみよう。幾何学の特定の命題が真実であることを証明するため、また生徒たちにその命題をより容易に了解させるため、幾何学者が大きさも厚みもない線について考察させることを思いついたとしよう。そのときに、抽象のためのこの手段もしくはこの方法が、生徒たちに幾何学の特定の命題についての知識を容易にするための最も適正なものであると判断することは、すなわち、他の方法ではなくこの方法を用いながら、彼らは少ない注意の努力で済むと言うことであり、また彼らが困難の少ない感覚を試みると言うことである。 最後に次のように仮定してみよう。複合命題が内包している個々の真理の個別の吟味によって、この命題の知識に至ることが容易になるとしてみよう。そのときに、分析という手段もしくは方法が最良であると判断することは、複合命題をすべて同時に把握しようとするときよりもその命題に内包されている個々の真理を個別に考慮するときの方が、注意の努力が少なくて済み、それゆえまた、困難の少ない感覚を試みると言うことと同じである。 以上述べたことから、特定の目的に至るために偶然がわれわれに提示する手段もしくは方法についての判断は、まさに感覚以外のなにものでもないこと、また人間においては、すべては感じることに帰することが帰結する。 しかし、と人は言うであろう。なぜ人は今日にいたるまで、われわれのうちに、感じる能力とは別に判断する能力を仮定してきたのであろうかと。私の答えは次のとおりである。こうした仮定が生じたのは、精神の特定の誤りを他のいかなるやり方でも説明できないと、人が現在に至るまで信じ込んできたために過ぎないと。 こうした困難を取り除くため、以下の章で、われわれのすべての誤った判断および誤謬は二つの原因ーーこれらの原因はわれわれのうちに感じる能力しか仮定させないーーに関係することを、またそれゆえ、そうした能力なしでも説明できること以外は何も説明しない判断力をわれわれのうちに認めることは無意味であり、不条理ですらあるであろうことを私は示そう。それでは本題に入ることにしよう。以下私は、われわれの情念もしくは無知の結果でないような誤った判断はけして存在しないことを語る。 |