エルヴェシウス『精神論』

"De l'Esprit" d'Helvetius


第一講 精神そのもの 

第4章 言葉の誤用について

 同様に無知と繋がっている誤謬のもう一つの原因は、言葉の誤用および人が言葉に結び付けるさほど正確ではない観念である。ロック氏があまりにも見事にこの主題を扱ったので、私は、精神にかくもしっかりと現れるこの哲学者の作品を所有していない読者の探究の労苦を節約するため以外に、その吟味を敢行するものではない。
 ロックの前に、デカルトはすでに次のように言っていた。言葉の曖昧さの後ろに隠れるアリストテレス派は、対等に闘うために目の見える人を暗い洞窟の中に引きずり込む盲人とよく似ていると。
 目の見える人は、洞窟の中に陽の光を差し込ませる方法を知っており、アリストテレス派に対し、彼らが用いている言葉に正確な観念を結び付けさせる。彼の勝利は確実である、とデカルトは付け加える。デカルトとロックをふまえ、私は、形而上学および道徳において、言葉の誤用とその真の意味に対する無知は、あえて言えば、もっとも偉大な才能がしばしばさまよった迷宮であることを証明しようとおもう。哲学者たちのあいだで、もっとも長くまたもっとも活発な議論を引き起こした言葉の幾つかを例にあげてみよう。形而上学において、それらは「物質(matiere)」「空間(espace)」「無限(infini)」という言葉である。
 物質には感性があるもしくはないということを、人はいつの時代にも代わる代わる支持してきた。そして、この主題について非常に長いあいだ非常に曖昧に議論してきた。いったい何について議論していたのか自問すること、そしてこの「物質」という言葉に正確な観念を結び付けるということに非常にあとになって気づいた。もし最初に意味を確定していたとしたら、人は次のことを認めていたであろう。すなわち、人間は、あえて言えば、物質の創造者であり、物質は存在ではなく、自然界には人が物体(corps)と呼ぶ個物しか存在せず、また、この物質という言葉によってすべての物体に共通する特性の集合しか理解できないということをである。この言葉の意味は、以上のように定義しておこう。次のことはさらに問題である。すなわち、延長、固性、不可入性は、すべての物体に共通する無二の特性であるのかどうか、またたとえば引力のような力の発見から、物体が未だ知られていないなんらかの特性をもつと疑うことが不可能であるのかどうか。このなんらかの特性とは、動物の組織的な身体においてしか明らかではないとはいえ、すべての個物がたとえば感じる能力をもち得ないのかということである。この疑問は次のように要約される。すべての物体が絶対に感じないと証明することが厳密には不可能だとすると、この主題に関し啓示によって光明を与えられていないすべての人間は、この見解の蓋然性を反対の見解の蓋然性と比較し計算しながら決定することしかできないと人は感じていたであろうということである。
 それゆえこの議論を終わらせるために、世界についての異なった体系を打ち立てること、可能なものの組み合わせに没頭すること、多少とも巧妙な誤謬ににしか到達しなかったし実際に到達するはずのなかった精神の非凡な努力を行うことは、少しも必要ではなかった。実際のところ(私がここで指摘することが許されるとして)、観察からすべての可能な部分を引き出さなくてはならないならば、観察とともにしか歩まず、観察がわれわれをうちやる瞬間に立ち止まり、未だ知ることができないことを無視する勇気が必要である。
 われわれに先立つ偉大な人間の誤謬に啓発され、われわれは次のように感じるべきである。すなわち、増え続け集積されていくわれわれの観察は、一般体系に含まれている部分的な諸体系の幾つかをかろうじて形成するに足るということ、現在にいたるまで人が宇宙の深部を引き出しているのは想像力の深部からであるということ、そしてまた、もし人が遠く隔たった地方について不十分な情報以外はけしてもたないとすれば、同様に、哲学者たちも世界体系についての不十分な情報以外はもたないということをである。多くの才覚と組み合わせに恵まれながらも、時間と偶然が他の人々が信頼することができる一般的事実を与えてくれるまで、哲学者たちは寓話の切り売り以外けしてしないであろう。
 「物質」という言葉に関して言ったことを、「空間」という言葉に関しても私は言う。ほとんどの哲学者は、それを存在であるとする。そしてこの言葉の意味についての無知が長い議論を生じさせた。もし彼らがこの言葉に完全な観念を結び付けていたならば、彼らはそれを短縮していたであろう。そのときには、彼らは次のことを承認していたであろう。すなわち、抽象的に考察された空間は純粋な無であること、物体において考察された空間は人が延長と呼ぶものであること、われわれは、空間の観念の部分を構成する空虚の観念を、そびえ立つ二つの山のあいだに知覚される間隙に負うということをである。この間隙は、空気によって、言い換えればある距離を置くとわれわれにいかなる感覚可能な印象も生じさせない物体によってしか占められておらず、遠く離れている山々を隔てている距離はいかなる物体によっても満たされない。ゆえにこの間隙は、それらの山々を一つひとつ示す可能性以外のなにものでもない空虚の観念をわれわれに抱かせるに違いないのである。
 同じく「空間」の観念に含まれている「無限」の観念に関しては、われわれはそれを、想像力が停止しなくてはならない限界を固定することができないので、平野にいる人間がつねにその果てを退かせる力能にしか負わないと私は言う。それゆえ「限界の欠如」は、どのような分野にせよ、無限についてわれわれがもちうる唯一の観念である。もし哲学者たちが、この主題についてなんらかの見解を打ち立てる前に「無限」という言葉の意味を定義していたならば、私がおもうに、以上の定義を適応させることを強いられ、軽薄な議論に時間を費やすことはなかったであろう。言葉の真の意味についてのわれわれのはなはだしい無知を主に帰すべきであるのは、これまでの世紀の誤った哲学にである。この哲学は、ほとんど完全に言葉を誤用する技術でなりたっていた。スコラ的なすべての科学を形成していたこの技術は、すべての観念をまぜこぜにした。それがすべての表現にもたらした曖昧さは、すべての科学一般に、なかでも道徳にひろがった。
 高名なラ・ロシュフーコー氏が、自己愛はわれわれのすべての行動の原則であると言ったとき、「自己愛(amour propre)」という言葉の真の意味についての無知は、この有名な著者に対して、いったいどれほどの人々を刺激しなかったというのだろうか。人は自己愛を傲慢や虚栄とうけとった。その結果人は、ラ・ロシュフーコー氏は悪徳のうちにすべての徳のみなもとをおいたと想像した。しかしながら、自己愛(amour propre)もしくは自分への愛(amour de soi)が自然によってわれわれのうちに刻み込まれた感情以外のなにものでもなく、この感情は各個人において、その人を動かしている趣味や情念に応じて悪徳にも美徳にも転ずるということ、またさまざまに変様された自己愛は傲慢と謙譲をともに生み出すと知覚することは容易であった。
 これらの観念についての認識は、ラ・ロシュフーコー氏を、この人は人間性をあまりにも暗く見ているという何度も繰り返された非難から防いだことであろう。しかし彼は、人間性とは何かをありのままに認識していた。私は、ほとんどすべての人間がわれわれに向ける無関心の純粋な視線は、われわれの虚栄にとって痛ましい光景であると認める。しかし結局は、人間をそのまま受け取らなくてはならない。人間の自己愛の結果についていらだつこと、それは、春の驟雨、夏の暑さ、秋の雨、冬の凍える寒さに不平を言うことである。
 人間を愛するためには、それにほとんど期待しないことである。人間の欠陥を怒ることなく見るためには、許すことに慣れ、寛大さは、弱い人間性が叡智によって必要とする権利をもつ正義であると感じなくてはならない。ところで、われわれに寛大さをもたらし、怨みに対し心を閉ざし、人間的で穏和な道徳の原則に心を開くためには、ラ・ロシュフーコー氏がもっていたような人間の心についての深い認識ほどふさわしいものはなにもない。それゆえ、もっとも啓発された人間はほとんどつねに、もっとも寛大だったのである。彼らの作品には、人間性についてのなんという格言がひろがっていることか。プラトンは言った。「不幸な友とともに生きるようにして、あなたより劣った人々や家族とともに生きなさい。」さるインドの哲学者は言った。「私はいつも聞くでしょう。金持ちは叫んでいます。『主よ、われわれの財産のごく僅少な部分であれ、それを盗むものを罰し給え。』その一方で愁いにみちた声をあげ、天に向かって腕をひろげて貧乏人は言っています。『主よ、あなたが金持ちに惜しげもなく与えている財産を私にも与らせ給え。』ゆえに私は、もしもっとも不幸な者たちが私の財産の一部を奪うとしても、あなたの復讐をけして嘆願せず、種まきの時期にその糧を求めて鳩が畑に群がるのと同様のお目こぼしと見なすでしょう。」
 しかしながら、自己愛という言葉に対する誤解がラ・ロシュフーコー氏に反対するあれほどの小人たちを生じさせたとしても、「自由(liberte)」という言葉が、さらに深刻な議論を引き起こさなかったといえるだろうか。それは、マールブランシュ神父と同じように真理の友であるすべての人間が、この巧みな神学者が言ったことを承認していたとしたら、容易に終結していたであろう議論であった。『物理的先動』のなかで彼は言った。「自由は神秘的である。人が私をこの問題に押しやるとき、私は、ごく短く立ち止まるよう強制される。」それは、一般的な意味で理解された「自由」という言葉の完全な観念を形成することができないからではない。自由な人間とは、鉄鎖につながれておらず、牢獄に拘禁されておらず、懲罰の恐れによって奴隷のように威嚇されていない人間である。この意味において、人間の自由はその力能の自由な行使において成立する。私が力能と言ったのは、鷲のように雲を突き抜けたり、鯨のように水中で生活したり、自分が国王、法皇、皇帝になることの不可能を「不自由non-liberte」ととらえるのは、ばかげているであろうからだ。
 それゆえ人は、一般的な意味においてとらえられた「自由」という言葉の完全な観念をもっている。この「自由」という言葉を意志に適用するときはそうではない。それでは自由とはいったいなんであろうか。この言葉によって、人は、あるものを欲したり欲しなかったりする自由な力しか理解できないであろう。しかしこの力は、動機なき意志が存在しうること、それゆえ原因なき結果が存在しうることを前提とするであろう。それゆえわれわれは、善悪を同じように欲することができなくてはならないであろう。しかしこれらは、まったく不可能な前提である。実際のところ、もし快楽への欲望がわれわれのすべての思考とすべての行動の原則だとすると、またもしすべての人間が実在する目に見える幸福へ向かう絶えることのない傾向をもつとすると、それゆえわれわれのすべての意志は、この傾向の結果でしかありえない。<ところで、すべての結果は必然的である。>この意味においては、「自由」という言葉にいかなる純粋な観念も結び付けることができない。しかし、と人は言うであろう。人は、幸福を知覚するあらゆるところにそれを追求するのが必然ではないだろうか、少なくともわれわれを幸福にするためにもちいる手段の選択に関して、われわれは自由ではないだろうかと。然り、と私はこたえる。しかしそうすると、「自由」は「啓発(eclaire)」の同義語にほかならず、人はこの二つの概念を混同しているだけでしかない。ある人間が訴訟手続きや判例を知っている度合いに応じて、彼は、多少とも有能な弁護士によってその訴訟を導かれるであろう。その弁護士はより良い側あるいはさほど良くない側につくであろう。しかしいずれの側につくとしても、幸福への欲望は、彼の関心、趣味、情念、そして結局は彼が幸福とみなしているものにもっともかなっているとおもわれる側をつねに選択させるであろう<選択することをつねに強制するであろう>
 いかにしたら、自由の問題を哲学的に説明できるであろうか。ロック氏が証明したように、もしもわれわれが友人、両親、読書、そして結局はわれわれを取り巻くすべての対象の生徒であるとしたならば、われわれの思考と意志のすべては、受け取る印象の直接的な結果であるか必然的な帰結でなくてはならない。
 それゆえ人は、意志に適応された「自由」という言葉のいかなる観念をも、自ら形成することができない。それは神秘であると考察し、聖パウロとともに「おお、高きところよ(O altitudo!)」と叫び、神学だけがこうした題材について述べることができるのであり、自由についての哲学的論議は、原因なき結果についての論議に過ぎないと認めることが必要である。
 言葉のほんとうの意味についての無知が、しばしばどのような永遠の議論と災難の種を含んでいるかを見てみた。神学的な遺恨や議論、そのほとんどは言葉の誤用にもとづく議論によって流された血については語らないとしても、こうした無知は、他のいかなる不幸をもけして生じさせなかったであろうか。民族をいかなる誤謬にもけして投げ込まなかったであろうか。
 こうした誤謬は考えることもできないほど多い。スイス人に関する次のような小話がある。さる人があるスイス人に、誰も入れてはいけないという禁止とともにテュイルリー宮殿の門を委ねた。そこへさる町人があらわれる。スイス人は言う。「誰も入れません。」町人はこたえる。「結構。私はなかへ入りたいのではありません。ただポン・ロワイヤルから出たいのです。」スイス人はこたえる。「ああ、出るだけですね。どうぞお通り下さい。」こんな話を誰が信じようか。しかしこの小話はローマ人の歴史でもある。カエサルが公共広場にあらわれる。彼はそこで戴冠することを望んでいる。ローマ人は王権という言葉に正確な観念を結び付けることに失敗し、「王(Rex)」という称号のもとに拒んだ権力を、「命令者(Imperaror)」という称号のもとに承認する。
 ローマ人について語ったことは、一般的に、トルコの全高官および君主の全諮問官に適合する。主権者においてと同様人民のあいだでも、言葉の誤用がなんらかのつまらない誤謬へ突き落とさなかった者は誰もいない。こうした陥穽から逃れるためには、ライプニッツの忠告に従って哲学的言語をつくり出し、個々の言葉の正確な意味を定義しなくてはならいだろう。そうすれば人間は、諸観念を互いに厳密に理解し、互いに厳密に伝え合うことができるであろう。言葉の誤用が長引かせている議論はおのずと終結するであろう。やがて人間は、すべての科学において、同じ原則を採用するよう強制されるであろう。
 しかしかくも有益で望ましい計画の実行は、おそらく不可能である。人が言語の創出を負うのは、哲学者にではけしてなく、必要にである。そしてこの分野においては、必要が満たされるのは困難なことではない。それゆえ、人はまず特定の言葉になんらかの誤った観念を結び付けた。次に、人はこれらの観念や言葉を相互に組み合わせ、比較した。新しい組み合わせの一つひとつは、新しい誤謬を生み出した。これらの誤謬は増え、増えながら、今や無限の労苦なしにはそれを追いかけたりそのみなもとを発見することが不可能とおもわれるほど複雑化した。言語のこうした状態は幾何学の計算に似ている。最初になんらかの誤謬がすべり込む。それらの誤謬は知覚されない。最初の計算にもとづいて計算が行われる。命題から命題へ、人は完全にばかげた結果にたどり着く。人はその不条理を感じる。しかしどのようにして、最初の誤謬がすべり込んだ場所を発見するのか。その結果、膨大な計算をやり直したり見直したりする必要があるであろう。不幸なことに、それを実行できる人間はほとんどいないし、とりわけ、人間の関心がこうした検証に反対しうるときにそれを望む人間はさらに少ない。
 私はわれわれの誤った判断の真の諸原因を示した。特定の事実に関してにせよ特定の言葉の真の意味に関してにせよ、精神のすべての誤謬は、情念もしくは無知のうちにそのみなもとをもつということを私は明らかにした。それゆえ誤謬は、人間精神の本性に本質的に結びつけられてはいない。それゆえわれわれの誤った判断は、われわれのうちに、感じる能力とは別に判断する能力をけして仮定させない偶発的原因の結果である。それゆえ誤謬は偶然に過ぎず、そこからは、すべての人間は本質的に公正な精神をもつということが帰結する。
 これらの諸原則がいったん認められるならば、すでに証明したように、判断することはまさしく感じることにほかならないということに進むことを妨げるものは、今やなにもない。
 本講の総合的な結論は、精神は次のように考察されうるということである。すなわちまず、精神はわれわれの思考を生み出す能力として考察されうる。この意味における精神は、感覚と記憶にほかならない。次に、精神はこれらの能力の結果であるとみなしうる。この第二の意味においては、精神は思考の集合に過ぎず、ある人間が抱いている観念の部分に応じて個々の人間に細分化されうる。
 以上が、それ自身において考察された精神が立ち現れる二つの側面である。それでは次に、社会との関係における精神(才覚)がどのようなものであるか、吟味することにしよう。



『精神論』目次

『精神論』〜第一講第3章「無知について」