森村敏己氏によるコンディヤックとエルヴェシウスの比較

Comparaison de Condillac et Helvetius par Toshimi Morimura


森村敏己氏は、その著書『名誉と快楽 エルヴェシウスの功利主義』(法政大学出版局、1993年)のなかで、コンディヤックの思想とエルヴェシウスの思想を詳細に比較している。このページでは、そのなかから、ジョン・ロックの経験論がコンディヤックからエルヴェシウスへとどのように変形されながら継承されていくか、なかでも感覚論の問題に焦点をしぼって、森村氏の議論を紹介してみたい。

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まずは全体の概説。
「フランス啓蒙思想に少しでも興味をもつ者にとって、18世紀フランスのフィロゾーフたちにジョン・ロックが多大な影響を及ぼしたという事実は、いわば常識といってよい。その影響が最も顕著に現れている分野が、経験論哲学であることに異論はないだろう。啓蒙期の知識人たちの間では、ロックの認識論は、ニュートンの物理学と並んでイギリス経験論を象徴する記念碑ともいうべきものだった。」(上掲書17頁)

次に、そのなかでのコンディヤックとエルヴェシウスの予備的位置づけ。
「ロックの認識論の継承という問題を考える場合、真っ先にその名が思い浮かぶのはコンディヤックだろう。エルヴェシウスの思想はコンディヤックが確立した認識論の体系を、道徳、教育、政治に適用したという観が強く、少なくとも認識論の次元では、独自性を持つものではない。しかし、コンディヤックから感覚論を継承しながらも、エルヴェシウスはこれを唯物論の枠組の中で解釈し直した。それにより、感覚論はコンディヤックが全く意図しなかった方向に向けて利用されることになるのである。」(上掲書18頁)

コンディヤック思想の概観。
「認識論でのコンディヤックの業績は、ロックの経験論を批判的に継承し、内省という知的・精神的諸機能は感覚の発展にほかならないとして、感覚と内省というふたつの知の源泉を、感覚に一元化したことにある。ロックを継承するという意識は1746年の『人知起源論』からすでに明瞭に現れていた。しかし、この作品ではロックがそれに気づきながらも、十分には展開しなかった言語の重要性が大きなテーマとなっており、すべての精神活動を感覚から演繹するという面では、不十分な点を残していた。1754年の『感覚論』ではこの問題が前面に現れる。よく知られているように、コンディヤックはここで人間と同じ肉体をもつ彫像に、嗅覚、聴覚、味覚、視覚、触覚という五つの感覚を次々に与えるというユニークな思考実験によって、この彫像が観念の形成をはじめとして、あらゆる精神機能を獲得してゆく様子を描いて見せた。その際、感覚を精神機能にまで高めるための原動力となっているのは、快苦原理である。」(上掲書18-9頁)

続いてエルヴェシウスがコンディヤックの思想を受け継いだときの状況とエルヴェシウスの思想の独自性。
「コンディヤックと同じく、ロックの経験論を信奉し、感受性に基づく快苦原理の支配を信じるエルヴェシウスにとって、コンディヤックを受け入れる素地は初めからあった。『精神論』にも『人間論』にもコンディヤックの名は一度も登場しない。しかし、エルヴェシウスが自己の独自性を強調したがる癖の強い人物だったことを思えば、それは少しも不思議ではない。
 しかし、快苦原理に従うとはいっても、コンディヤックが霊魂を不死とすることで、快苦を死後にまで延長し、感覚的快苦だけでなく、道徳的快苦をも人間の行動原理としたことは、すでに説明したとおりである。ところが、エルヴェシウスは霊魂の不死にきわめて懐疑的だった。「霊魂が肉体より先に誕生したのか、あとに誕生したのかは誰にもわからない」といった記述もそうだが、ノートが先に進むにつれてエルヴェシウスは霊魂の不死の否定、さらには神の存在についての疑問へと向かってゆく。 
理性と霊魂は肉体の進歩に従属する。肉体と同じく、幼少期、老年期にはその力は弱い。霊魂が物質である可能性は十分にある。
…テルトゥリアヌスや幾人かの教父は、霊魂は肉体の一部だと信じていた。(Notes de la main d'Helvetius, ed. par A. Keim, Paris, 1907, pp. 16-17)
 医師としての知識を駆使しながら、肉体と霊魂の相関関係をさまざまに例証し、霊魂が肉体とは異なる実体ではなく、肉体の一部であると主張したのはラ・メトリであった。エルヴェシウスの記述も同じ論理に立っているといえる。」(上掲書30-1頁)

最後に、コンディヤックとの比較からみたエルヴェシウス思想の特徴。
「コンディヤックの感覚論を継承する前に、エルヴェシウスはすでに快苦を人間の行動原理としており、そこから彼はコンディヤックが擁護した意志の自由の否定に向かっている。しかもコンディヤックが感覚的快苦のみによる支配から人間を解放するために、そしてキリスト教のドグマとの対立を防ぐために主張した霊魂の不死と神の認識という枠組を、エルヴェシウスは拒否している。残る検討はひとつしかない。すなわち感受性は物質の特性たりうるか、という問題である。すでに示したようにコンディヤックに従えば、感受性さえあれば、人間は思考しうる。ゆえに、コンディヤックは物質は感受性をもつえないと予防線を張っておいたのだ。エルヴェシウスが霊魂を肉体の一部と見ていた以上、彼がこの問題をどう考えていたかは、明らかだ。しかし、エルヴェシウスは、この問題への回答は、いずれにせよ明証性はもちえないとして、カトリックとははっきり距離を置いている。(中略)彼は次のような表現で、自分の見解をほのめかす。
物質とはひとつの存在ではない。自然界には物体とよばれる個体しか存在しない。物質という言葉は、すべての物体に共通する特性の集合を意味するにすぎない。このように言葉を定義しておけば、あとは延長、固体性、不可入性だけがすべての物体に共通の特性なのかどうかを知ればよい。つまり、たとえば引力のような力の発見は、さらに何か他にも未知の特性を物体がもっていることを推察させはしないだろうか。たとえば感じる能力である。この特性はまだ動物のような有機体の中にしか発見されていないが、あらゆる物体に共通のものだという可能性はある。(『精神論』第一編第4章)
 明言こそ避けているものの、エルヴェシウスは読者にはっきりと自分の意図を伝えることに成功している。彼が明確な形で、感受性は物質の特性であると主張するには、検閲を受けるつもりのなかった『人間論』を待たなければならないが、『精神論』およびそれ以前のノートの記述からでも、彼の意図を誤解することはありえない。こうしてエルヴェシウスは、コンディヤックがキリスト教の枠の中に慎重に閉じ込めておいた感覚論を解き放った。その結果、死後の快苦は否定され、快苦の範囲は地上だけに限定された。同時に、神を恐れる必要のない人間は、死後の賞罰への期待と恐怖に由来する道徳的快苦など知らず、ひたすら感覚的快苦に由来する幸福だけを追求することになる。」(上掲書34-5頁)



コンディヤックの生涯と思想

エルヴェシウスの生涯と思想