ヒュームの奢侈観と社会観

〜勢力尚雅氏「道徳感覚学派とカント」による〜

勢力尚雅氏は、論集『カント哲学のアクチュアリティー 哲学の原点を求めて』(坂部恵・佐藤康邦編、ナカニシヤ出版、2008年)に収載された論文「道徳感覚派とカント」のなかで、カントの批判哲学の前史としてのイギリス道徳感覚学派哲学に触れ、なかでもヒュームの思想について詳しく分析している。このページでは、そのなかから、ヒュームの奢侈観および社会観、さらには目的因のとらえ方に関する部分を抜き出して紹介してみたい。

「ヒュームは奢侈(luxury)への欲求がむしろ徳性を向上させるという逆接的な観察を次のように説明している。まず、簡素な趣味、怠惰な生活、無駄な歓待に耽っていた貴族たちが奢侈への欲求によって、調度や家屋の華やかさを競うようになると、「商人はより野心的になり、製造業者はより勤勉と熟練を増し、農民でさえ機敏に集中して耕作するようになる」。いわば、奢侈への欲求により、誰もが「自分自身にも他人に対しても有益であろうとする」ようになる。さらにヒュームによれば、「人間の幸福は活動、快楽、怠惰という三つの混合要素に存する」(『道徳政治論集』270)。人々がたえず活動するような時代には、人々は誠実に労働することに喜びを感じ、労働のあとの怠惰も快く感じることができる。このような時代には技術が洗練され、賢者は好奇心に、愚者は虚栄心に促されて社交性をもつようになり、「彼らは都市に群がり、知識の授受を愛し、機知や育ちを互いに示し、会話や暮らしや衣服や調度の趣味を互いに示すようになる。…そして互いの快と楽しみのために貢献しようとする社交の習慣そのものから人間愛(humanity)の高まりを感じずにはいられまい。したがって、勤勉、知識、人間愛は分かちがたい鎖で結ばれており…より奢侈的な時代とたいていは呼ばれる時代に特有なのである」(『道徳政治論集』271)とされる。そして「人々が快楽について洗練すればするほど、どんな種類の快楽においても耽溺するということは少なくなる。というのも過度の耽溺ほど真の快楽を損なうものはなすからである」(『道徳政治論集』271)というわれわれの経験知への信頼をヒュームは表明している。つまり、社交の場における「実践(practice)」によって、自分自身にとって、あるいは他者にとっての快楽に貢献するものがどういうものなのかに習熟することを通じて、われわれは労働について、あるいは会話について、いやわれわれがこの世界でなすあらゆるふるまいについて、その「マナー」を日々洗練していくことになる。こうして「知識が改良されるだけでなく、人間の気性が柔和にされる」時代に到達して初めて、「厳格で苛烈な」支配でなくとも人々が統治されうるようになり、「人間愛がより顕著に現れ、この人間愛こそが、文明化された時代を野蛮と無知の時代から区別する主な特徴となる」(『道徳政治論集』274)とされる。私たちの認識やふるまいをガイドする情念と構想力が文明を生成する仕方は、長い目で見れば徳性の向上という目的にとっても合目的的なガイドとなるというのがヒュームの洞察である。」(勢力氏、上掲論文164-5頁)

「ヒュームにとって、道徳的感情を腐敗させる原因の一つは、人間の知性の働きを過大に評価して、情念の働きを過剰に貶める哲学者や宗教家たちによる「知性」への熱狂であった。彼らが虚構する「知性」に基礎づけられた「人為」的な道徳(『道徳政治論集』247-249、『道徳原理研究』341-343)を批判するべく、ヒュームは「知性」批判を敢行したといえよう。」(勢力氏、上掲論文167頁)

「ヒュームによれば、ハチスンが言うような「人類への普遍的な情愛」などわれわれはもっていない(『人間本性論』481)。その証拠に、もしそのような普遍的情愛が人間に与えられていたら、所有や約束などをめぐる正義のルールなど人間社会につくられる必要はなかった(『人間本性論』495-6)。なるほどわれわれには利他的な側面があるが、同時にわれわれは深刻な偏愛を抱えており、この偏愛をわれわれが不便と感じることによって、個人的な博愛とはしばしば対立する正義の徳もまた是認の対象となっていくというのがヒュームの論点である。したがって、ハチスンのように神の目的に向かう現象として道徳を説明することはあまりにも蓋然性の低い空想であり、道徳の説明として用いるべきでないとヒュームは考える。ではヒュームやスミスは、人間的自然を観察する際に、そこに何の目的因も感じとらなかったのだろうか。いや、そうではあるまい。ヒュームにとって「哲学的」な態度とは、人間的自然の生成を観察することを通じて、そこに繰り返し現れている「傾向性(propensity、inclination、disposotion)」の観察を洗練し、そのような傾向性が人間的自然をどこに連れて行くのかについての因果的推理の蓋然性を高めていくことであった。人間的自然の「解剖学者」(『人間知性研究』10)を自称するヒュームやスミスが観察・摘出した傾向性とは、情念の奴隷として奉仕する構想力の働きや、何かと何かを交換しようとする「人間的自然における傾向性」(スミス『国富論』25)である。これらの傾向性は、われわれの認識や行動のいわば無自覚的なガイドの働きをなしており、われわれが意図しないままに多くの産物をもたらしている。私たちの美的・道徳的判断が、正当性・合理性に固執する理性によって自律的かつ能動的に生み出されたものではなく、むしろ本能的な感情に導かれて受動的かつ必然的に感じずにはいられないものであるというシャフツベリやハチスンの洞察を、ヒュームやスミスは大幅に拡張しているとさえいえよう。これまで見たように、構想力は、われわれの精神に去来継起する諸知覚を情念を満たすという目的にとって合目的的な形態に束ねるだけでなく、他者の信念・感情についても形態を与え、互いに共有できるルールをある程度暗黙のうちに生成し、互いの不便を緩和する制度のよりよい形態を模索する共同体へと諸個人を束ねる。また、交換しようとする傾向性は、われわれを「分業」へと向かわせ、商業社会を進展させ、都市をつくり、社交の機会を増進させる。つまり、これらの傾向性が働くことによって、諸知覚間に働く構想力、諸個人間に働く構想力(共感)は、この世界において安定した認識や行動を他者と確認しあいながら共同制作するという、いわばよりよい形態を自ら模索する有機体のようなありようを可能にしているように見える。しかも、この傾向性は、それを採用することの利益をわれわれが予め計算して理性的かつ意図的に採用してきた「人間の知恵」(スミス『国富論』25)の産物ではない。近視眼的な人類の意図を超えて展開される、以上のような光景は、改めて考えれば「驚異」の感覚を与える事態であるかもしれない。実際、このような光景の観察者であるヒューム自身、「目的因の発見と観照に喜びを感じる人々」は「彼らを驚嘆させ、賞賛させる豊かな主題をもつ」(『人間知性研究』55)と述べている。驚嘆や賞賛に値する目的因を発見した観察者がその究極原因として神の意図を想像してしまうことは、「哲学的」な態度ではないものの、必然的なこととヒュームもまた考えているのである。」(勢力氏、上掲論文171-3頁)



18世紀人物史〜ヒューム

エルヴェシウスの奢侈観〜『精神論』より