ライプニッツの認識論と「無意識」について 

 普遍学ともいわれるライプニッツの学問体系はさまざまな側面をもつが、このページでは、ライプニッツの認識論と「無意識」の理論の関係について、研究書から要点を抜き出してみる。



 デカルトは、「我思う」という内省的な思考のはたらきをもたない動物を人間から厳然と区別し、動物は機械だとしたが、ライプニッツは連続律を適用して、人間と他の生物のあり方をつなげていく(たとえば動物にも魂を認める)。佐々木能章氏によれば、ライプニッツは犬や猿だけでなく、メダカやミミズ、さらにはクラゲやバラやキノコにも「意識」が存在することを認めているという。
 「人間は必ずしもいつも自分がしていることを意識しているとは限らない。夢中になって何かにとり組んでいるようなときには、文字通り「我を忘れている」ほどである。眠り込んでいるとき、意識が朦朧となっているとき、完全に意識を失っているようなときもある。デカルトは、このようなときには自分は(広い意味での)思考活動をしていないので、その限りは自分が存在することを断言できないとまで言う(「省察」第二部)。いついかなる場合でも「私」というフィルターを通過させなければ確実性を認めることができない質であった。ライプニッツはその逆の発想をする。ある人に何らかの意図的な行為が認められるならば当然そこには意識が働いていると言える。しかし意図的な行為が観察されないからといってそこに意識が働いていないとは言えない。無自覚にとった行動は決して筋肉の反射運動だけによるものだとは限らない。自覚に上がってこない何らかの隠れた意図の仕業かもしれない。20世紀に無意識と呼ばれることになる潜在的な力が介在しているとも言える。「無意識」とは意識がないことではなく、自覚されない意識のことなのだ。ある人の意識が全くない状態にあるということは断言しがたいことである。このことは他人に対しても自分自身に対しても同じように言える。一般的に言って、ある個体にとって意識内容が存在していることは、当の個体がその意識内容を自覚しているかどうかとは別の問題だということである。自覚しているかいないかにかかわらず、どの個体も他者とのつながりがある。このようなつながりをライプニッツは「表象」と呼んだ。」(佐々木能章氏「ライプニッツ術ーーモナドは世界を編集する」、工作舎、2002年)
 ライプニッツ自身の言葉で、それは次のように簡潔に表現される。
 「「一」すなわち単純実体において、多を含み、かつ多を表現している推移的状態が、いわゆる表象に他ならない。」(ライプニッツ「モナドロジー」、邦訳「ライプニッツ著作集」第9巻、工作舎)
 ここで「表象」と訳されているのはperceptionという語であり、一般的には「知覚」と訳される。しかし、perceptionという概念を取りあげるとき、ライプニッツはいわゆる「知覚(知るはたらき)」を問題としておらず、外的事象は、あくまでも個(モナド)のなかに自動的に映し出されるにすぎない。したがって佐々木氏は、この語に対して「映し込み」という訳語をも提案しているのだが、ともかくこの作用は個の内部の「表象」のみを指しているのだ。そこに「意識」が介在する余地はない。
 同様のことを、井上龍介氏は外的実体の存在とからめながら、次のように指摘している。
 「ライプニッツは宣言する。モナドの他には、またモナドを超えては、実体は考えられず、他の一切はモナドによって表出された形象であり、「現れ」の領域に属する、と。たとえば、ここにあるこのコーヒーカップが今「私」の精神に現れているのは、精神の外部にあるなにか物理的実在が「私」の感官を刺激/触発した結果なのではなく、精神自身が、まさにこのようにコーヒーカップを表象/表出しているからこそ、それは今ここに現れているのである。だから、この現実的形象の内的構造は、そのまま、それがそこにおいて現象しているところの、精神の、表出の構造にほかならない。ここには、色彩、硬さ、芳香、熱などが存在しているが、それらは皆精神の内にのみある。それらは「明晰だが乱雑な」表象の様式であって、精神の恒常的活動である無数の「微細表象」(petites perceptions)の集合的効果である。」(井上龍介氏「ライプニッツ<試論>」、晃洋書房、1999年)
 こうした意味を与えられたperceptionに対し、ライプニッツは、今ひとつapperception(意識的表象)という概念をもち出す。
 「物質の集塊が非存在に近いのは、表象=現象が、「モナドの内的状態」あるいは、モナドの「移ろいゆく状態」にほかならないからである。物体は、根源的な意味においては、実体の生み出した「思想」(pensees)であり、霊魂の「変様」(modifications)である。だから、先に指摘されたように、物体のいわゆる第一性質も第二性質も、モナドの表出に内在するもろもろの差異に還元されうるし、またそこから派生しもする。この種の表象は相互に区別して認知されうるので明晰であるが、そこに含まれている諸成素は識別不能であり、おそらく複雑できわめて微細な形状と運動との、無限に多数の表象/表出なのである。これらの表象はわれわれの認知能力の限界を凌駕しているかぎりにおいて、「乱雑な表象」と呼ばれる。つまり感覚は、われわれが無数の微細表象を或るまとまりとして混乱した仕方で意識することにより、生じるわけである。ここには雑多な、或る意味で無意識的な「表象/表出」と、それを貫きつつ明るみへともたらす「意識」(conscience)との区別がある。意識の光に照らされないかぎり、乱雑な表象は識閾を超えないのであるから、この膨大な規模の感覚は、明晰な意識活動(s'appercevoir)の意図せざる所産であることになる。このように表象作用は内的に差別化され、原則的に意識の圏域の外なる実体的活動としてのたんなる表象/表出と、この没意識的活動の自己照明である「統覚」(apperception)とが措定されている。」(井上龍介氏、前掲書)
 したがって佐々木氏のように、これを次のようにまとめることも可能になる。
 「「表象」は外的事物を表現する一般的なはたらきであるのに対し、「意識的表象」は、その意識の反省的認識だとされている。わざわざ「意識的」という断り書きを付け足すことで、単なる表象とは違う段階にあることが予想される。しかし、「反省的」といわれたからといって、「意識的表象」を自我に対する反省的意識と限定する必要はない。たしかにそれも含むが、もっと広く、表象の内容や作用そのものに自覚的であればよい。」(佐々木能章氏、前掲書)
 つまり、デカルトと違って、ライプニッツは外界を認識するはたらき(表象)を人間以外の生物にも認めたために、逆に人間の認識作用を動物とも共通する表象一般から区別する必要が生じてくる。別のいい方をすれば、無意識的(無自覚的)なものを意識から切り捨てるのではなく、無意識的であるのが意識の一般的あり方とすると、今度は(意識的な)意識とは何かを説明しなくてはならないわけだ。
 「人間の表象は反省的な段階にまで高まることがある。そうなっていないときは、ただの表象ということになる。意識的表象が表象の中でレベルが高いものだとすると、それ以外の大部分の表象はそれより低いレベルにあることになる。だが、低いレベルとはどういうことだろうか。多くを映していない状態のことだろうか。そうではない。表象は基本的には宇宙のすべてを映しているものである。レベルが低いのはその映し方に問題がある。いわば、宇宙を映す鏡が曇っている状態が低いレベルの表象なのである。意識的表象は、いわば磨きぬかれた鏡であって、対象を細部に至るまでくっきりと映しだす。曇った鏡も対象を映してはいるのだが、映像はぼんやりとしていて鮮明ではない。輪郭がぼやけ、ときには歪んでもいる。このぼやけ方がどんどんひどくなり何を映しているのかがわからなくなるほどまでに曇ってしまったような表象を、ライプニッツは「微小表象」と呼んでいる。」(佐々木能章氏、前掲書)
 より具体的に、微小表象(微細表象)とはどのようなものであろうか。
 「われわれの内には、われわれには区別ができないような微小な表象が無数にある。たとえば群衆の全体が発するざわめきのような轟々たる騒音は、一人一人の人間の小さなささやき声が集まったものであり、人はそれを一つ一つ聴き分けることはできないものの、感覚はしている。そうでなければ全体の音を感覚することなどできないだろう」(ライプニッツ「唯一の普遍的精神の説について」、邦訳「ライプニッツ著作集」第8巻、工作舎)
 「微小表象がもっと意味のある存在となるのは、(クラゲと人間の意識を比較したような場合ではなく;註・引用者)意識程度が高い段階にそのときの表象のいわば裏打ちとして働く場合である。別の言い方をするなら、多少なりとも自覚的に他や自分を表象している段階でも、その方向性を定めるような流れとして、微小表象が背後で働いている場合である。少し前に「無意識」という言葉を持ち出したが、微小表象という考え方は無意識という発想とかなりのところまで共通している。サブリミナル効果と言われているような現象とも通じるところがある。これを身体性もからめて理解するならば、暗黙知と言われるものともつながるだろう。」(佐々木能章氏、前掲書)
 続いて、佐々木氏はライプニッツから次の文章をひく。
「それゆえこれらの微小表象は、考えられているよりもずっと大きな効力をもつ。集合的全体では明晰だが、部分としては錯然としているあの何とも言えぬもの、好み、感覚的性質の諸形象を形成するのはこれら微小表象である。われわれを取り巻く物体のなす、無限を包み込んだ印象や、各存在が宇宙の他のすべてとの間にもつ繋がりを形成するのもこれら微小表象である。これら微小表象の結果として、現在は未来を孕みかつ過去を担っているとさえ言えるのだ。」(ライプニッツ「人間知性新論」、邦訳「ライプニッツ著作集」第4巻、工作舎)
 ライプニッツによれば、世界全体は微小表象というかたちで、各個(モナド)に表象されている。したがって、この微小表象は、世界知(一切知)と意識や行動のかかわりを説明するものでものでもある。  
「モナドの本性は表現的であることだから、何ものもそれに制限を加えて事物の一部分しか表現しないようにすることはできない…。ただし、この表現は宇宙全体の細部では混雑しているしかなく、判明なのは事物のごく小部分、すなわちそれぞれのモナドに対する関係からいって最も近いものとか最も大きいものにおいてでしかない。さもないとどのモナドも神になってしまう。モナドが制限をうけるのは、その対象についてではなく、対象を認識するさまざまの仕方においてである。どのモナドも混雑した仕方で無限へ向かい、全体へ向かっている。しかし、どれも制限をうけており、表象の判明さの度合いによって区別されている」(ライプニッツ「モナドロジー」、邦訳「ライプニッツ著作集」第9巻、工作舎)
 佐々木氏によれば、ここでは「モナドの区別が、その対象によってではなく、対象を認識する仕方によるという点が重要である。対象は全宇宙でみな共通だから、それによっては区別ができない。しかし認識の仕方はそれぞれ違っている。その違いをここでは「制限」と表現し、表現の判明さの度合によるとしている」(佐々木能章氏、前掲書)という。
 以上簡単にみてきたが、ライプニッツのなかで、認識の問題を[全体−個]の問題と切り離して考えることはできない。個が全体を認識するとするころから、意識されない認識の問題が生じてくる。そういう意味では、ライプニッツの微小表象は形而上学的な要請ともいえよう。

註1) apperceptionおよびs'appercevoirは、aperceptionおよびs'apercevoirのライプニッツ当時の綴り。s'appercevoirは、ジョン・ロック「人間知性論」の仏訳者ピエール・コストがperceiveの訳語として使い、ライプニッツがそれを名詞化したという。(井上龍介氏、前掲書)

註2) 「人間知性新論」「モナドロジー」など、ライプニッツの主要な哲学的著作が刊行されたのは、1765年以降であるが、この時期の思想界では、フランスを中心に感覚論、機械論的な論調が強くなっており、18世紀には、テクストに依拠したライプニッツ思想の正確な解明はほとんど行われなかった。
2003・7・14

 

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参考:ドルバック「自然の体系」第12章