モリヌークス問題(感覚と認識について) 

 ジョン・ロックは、『人間知性論』の初版を読んだその信奉者ウィリアム・モリヌークス(モリニュクス)から、1693年3月2日付けの手紙で、視力を得た盲人とその視覚認識について質問を受けた。この質問が感覚器官による認識(知覚)に関する重要なものであると考えたロックは、1694年刊の『人間知性論』第二版で、第2巻第9章「知覚について」のなかにこの質問と自身の回答を追加した。モリヌークスが提起した質問は、その後、ライプニッツ、バークリーによってもとりあげられ、18世紀哲学(認識論)の大きな問題の一つとなっていく。
 以下、『人間知性論』からモリヌークスの提起した問題とロックの解答、『人間知性新論』(1701〜3年執筆)からこの問題についてのライプニッツの解答(ただし『人間知性新論』は1765年にはじめて刊行されており、バークリーをはじめとする18世紀の哲学者は、このライプニッツの解答の存在を知らなかった)、『視覚新論』(1709年刊)からバークリーの解答を引用・紹介する。
 それぞれの解答をあらかじめ要約すれば、知覚認識は経験からくるとするロックとバークリーは視力を得たばかりの盲人は二つの物体を識別できないとし、幾何学的な認識は経験にはよらないとするライプニッツは盲人は物体を識別できるとして鮮やかな対照をみせる。しかしロックとバークリーの解答も完全に同じ理由によるのではない。すなわち、バークリーは認識における「言語」習得の必要性を主張し、はじめて見る物体が識別できないのは、経験の不在というよりも、正確には言語の不在によるとする。
 それぞれの解答は、三人の哲学者の思想の特徴を浮き彫りにしていると同時に、全体として、17〜18世紀の思想が何を問題としていたか、時代のなかの思想のあり方をも期せずして明らかにしている。この短い抜き書きに興味をもたれた方には、それぞれのテクスト全体をとおして、問題を再構成してみることをお薦めしたい。
 なお、それぞれの質問および解答は、次の翻訳による。
 ・モリヌークスの質問 ロック『人間知性論』(大槻春彦訳、岩波書店<岩波文庫>、1972年)
 ・ロックの解答 ロック『人間知性論』(大槻春彦訳、岩波書店<岩波文庫>、1972年)
 ・ライプニッツの解答 ライプニッツ『人間知性新論』(谷川多佳子・福島清紀・岡部英男訳、工作舎<ライプニッツ著作集第4巻>、1993年)
 ・バークリーの解答 バークリ『視覚新論』(鳥居修晃監修、下条信輔・植村恒一郎・一ノ瀬正樹訳、勁草書房、1990年)



【モリヌークスの質問】
 生まれつきの盲人が今は成人して、同じ金属のほぼ同じ大きさの立方体と球体を触覚で区別することを教わり、それぞれに触れるとき、どちらが立方体で、どちらが球体かを告げるようになったとしよう。それから、テーブルの上に立方体と球体を置いて、盲人が見えるようになったとしよう。問い。盲人は見える今、触れる前に視覚で区別でき、とちらが球体で、どちらが立方体かを言えるか。(上掲書、第一分冊205ページ)

【ロックの解答】
 鋭く明敏な問題提出者は、言えないと答える。なぜなら、盲人は、球体がどう触覚を感発し、立方体がどう感発するかの経験をえてしまっているが、触覚をかくかくに感発するものは視覚をかくかくに感発しなければならないという経験、すなわち、手を不平均に押す立方体の尖った角は、目に立方体の尖った角の現われ方をしようという経験をまだえていないからである。私は、自分が誇らしく友人と呼ぶこの考え深い紳士のこの問題に対する答えと考えが一致していて、盲人は触覚で立方体と球体を誤りなく名指せ、触れた形の違いで絶対確実に区別できるが、見ているだけの間は、初めて見てどちらが球体で、どちらが立方体かを絶対確実には言えないだろうという意見だ。私はこのことを記して、読者が経験とか[知識の]改善とか既得の思念とかをすこしも利用しないと、いいかえればそうしたものにすこしも助けられないと、考えているとき、どれほどそれらのもののお陰を受けているか、これを考える機会とする。(中略)が、これは観念のどれにも日ごろ見られるというものでなく、視覚で受けとる観念に見られることだと思う。というのも、私たちのすべての感官のなかでもっとも包括的である視覚は、この感官にだけ特有な光と色の観念を私たちの心に伝えるが、また[触覚も伝える]空間、形、運動というひじょうに違った観念も伝え、それら空間などのいろいろな多様性は視覚に固有な対象すなわち光と色の現象態を変えるのであり、そこで、私たちは光や色の現象態によって形などを判断するように、慣習的になるのである。こうしたことは、多くの場合、ひんぱんに経験される事物では一つの固定した習性によって絶えず営まれるし、す早く営まれるので、私たちは、私たちの判断が作った観念であるものを感覚の知覚とし、ひいては、一方すなわち感覚の知覚は他方[すなわち判断による観念]を喚起するだけに役立って、感覚の知覚自身はほとんど覚知されないのである。[たとえば]注意深く理解しながら読んだり聞いたりする者が文字や音をほとんど覚知しないで、文字や音がその人に喚起する観念を覚知するときがそうである(上掲書、第一分冊205〜7ページ)

【ライプニッツの解答】
 思うに、その盲人が自分の見ている二つの図形は立方体と球という図形であることを知っているならば、彼はそれらを識別しうるし、触れずとも、これは球でこれは立方体だと言えるでしょう。(中略)あなたが私の答弁を吟味してくだされば、私が、問題に含まれているとみなせる条件をつけていたのに気づかれるでしょう。すなわち、ただ識別することのみが問題であって、盲人は自分が識別すべき二つの形状の物体がそこにあるのを知っており、かくて、彼は自分に見えている現われの各々が立方体の現われであるのか球の現われであるのかを知っている、ということです。この場合、盲人が視力を回復したばかりであっても、以前に触覚が彼にもたらした感覚的認識に理性の原理を結びつければ、彼はそれらの物体を識別しうる。これに疑いの余地はないと私には思われます。なぜなら私は、彼が目新しさに眩惑され唖然として、はたまたそれに加えて帰結を引き出すのに不慣れなため、実際にその場で彼が為すかもしれぬこと、そういうことを話題にしてはいないからです。私の見解の基礎はこうです。すなわち、球においては球そのものの面から区別された点はなくて、そこではすべてが滑らかで角がないけれども、他方、立方体においては他のすべての点から区別された八つの点がある、ということです。図形を識別するこのような手段なくして、盲人は幾何学の基本を触覚では学びえないでしょう[し、他の人は触覚をもたずに視覚でそれを学ぶこともできますまい]。しかしながら、生来の盲人といえども幾何学を学ぶ能力があり、ある自然的幾何学のいくつかの基本を常に身につけてさえいるのが私たちには分っています。それに、麻痺患者やその他触覚がほとんど機能しない人も為しうるしまた為さねばならないように、触覚を用いずとも視覚のみで幾何学を学ぶ場合がしばしばある。これも分っています。ですから、これら二つの幾何学、すなわち盲人の幾何学と麻痺患者のそれとは、たとえ共通の像をもたないとしても、重なり合い一致するだけでなく、さらには同じ諸観念に帰属するに違いありません。しかもこれは、像というものを厳密な意味での観念からどれほど区別しなければならないかを示しています。厳密な意味での観念は定義に存するのです。(上掲書、145〜7ページ)

【バークリーの解答】
 生来の盲人は、最初に見るときに、彼が見たいかなる事物をも、触覚の観念に対して用いることに慣れてしまった名前で呼ぶことはないであろう(106節を見よ)。立方体、球、テーブルなどは、触覚によって知覚可能な事物に対して適用されることを彼が知っていた言葉であるが、しかし、全く触覚不可能な事物に対しては、彼はそれらの言葉が適用されるのを全く知らなかったわけである。これらの言葉は、[彼に]慣れた仕方で適用される場合には、物体とか固い事物とかを、いつも彼の心に表わしたのであり、というのも、こうした事物は、自らの与える抵抗によって知覚されたからである。しかし視覚によって知覚される場合は、いかなる固性も抵抗も突起も存在しない。要するに、視覚の観念はすべて新しい知覚であって、彼の心の中にはそのような知覚に付与されるいかなる名前も存在しないのである。それゆえ、彼はそのような観念に関して彼に語りかけられることを理解できない。そして、テーブルの上に置かれているのを彼が見た二つの物体について、どちらが球でどちらが立方体なのかと問うことは、彼にとっては全くのひやかしの理解不可能な問いだったのである。というのも、彼が見るいかなるものも、物体や距離などの、つまり一般に彼がすでに知っている事物の観念を、彼の思考に示唆することは決してできないからである。(上掲書135節、110ページ)

 

この問題の全貌に関しては、「ビュフォンの『博物誌』とモリヌークス問題」のページ参照

問題の次の展開に関しては、「コンディヤックとモリヌークス問題」参照

問題のその後の展開に関しては、「ディドロとモリヌークス問題」参照

モリヌークス、ロック、ライプニッツに関しては、「17世紀人物誌」参照

バークリーに関しては、「18世紀人物誌」参照

マールブランシュの視覚認識論