『自然法論』(ジョン・ロック)

John Locke : Essays on the Law of Nature

 このページでは、ジョン・ロックの初期の著作『自然法論』を要約・紹介する。テクストは、『<世界大思想全集> ホッブス・ロック・ハリントン』(河出書房新社、1962年)所収の『自然法論』(浜林正夫氏訳)を用いる。
 ロックは、1660年に母校オックスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジのギリシャ語講師となったが、その直後から1664年にかけてラテン語で書かれたのがこの『自然法論』である。ロックの後年の著作である『統治二論』(1689年)で展開される政治思想の根底には自然法思想があるが、自然法を体系的にあつかった著作はロックにはない。こため、主著『人間知性論』(1689年)の議論と『統治二論』を統一的に理解することが困難なのであるが、この『自然法論』は、そうした疑問に一応の解答を与えるものと位置づけられる。浜林正夫氏によれば、「ここでロックはすでに認識論的には経験論の立場にたっており、ーーただし第一、第二論文ではまだそれは不明確であるがーー、しかも同時に感覚・経験から普遍妥当的自然法の認識にたっすることができる、と主張している」(『自然法論』解説)という。
 浜林正夫氏による『自然法論』全体の性格は次のとおり。
 「この「自然法論」におけるロックの認識論は、「人間悟性論」におけるそれにくらべると、まだ粗雑なものだ、ということをつけ加えておく必要があるだろう。(中略)さらに自然法の内容についてみると、後期のロックの考え方とのあいだに、いくつかの重要な違いがあることに気づく。(中略)しかしだからといって、わたくしはそれを、ロックの変節とか転身とかと考えているのでは決してない。むしろまったく相反するようにみえる初期と後期のロックの政治的立場を、一貫して貫いているものを、われわれはよみとらなければならないであろう。それは、ごく簡単にいってしまえば、革命の民衆的ないきすぎにも、絶対王政の反動化にも反対するブルジョア階級の立場なのであって、ロックの経験論と自然法思想は、いわばそういう両刃の剣なのである。王権神授説と革命的ピュウリタニズムのいずれにも加担せず、すべてを白紙にかえし、ーー人間は生まれたときは白紙のようなものだからーー、健全な悟性と感覚・経験とがみちびきだす普遍的秩序の存在を、すべての人に納得せしめようとするロックの努力は、そこからでているものであり、そしてそれにかれは一生をついやしたのであった。この「自然法論」はそういうロックの生涯の努力の出発点を、まざまざとしめしてくれているという点に、一番大きな意味をもっているように思われる。」(『自然法論』解説)
 なお、この『自然法論』はロックの生前には刊行されず、1942年にはじめて公刊された。
 各編の表題(内容)は次のとおり。
 1.道徳律、あるいは自然法はわれわれに与えられているか。与えられている。
 2.自然法は自然の光によって知ることができるか。知ることができる。
 3.自然法は人々の心のなかに刻みつけられているか。刻みつけられていない。
 4.理性は感覚をとおして自然法の認識に到達することができるか。到達することができる。
 5.自然法は人々のあいだの一般的同意から知られるであろうか。知られることはできない。
 6.人間は自然法によって拘束されているか。拘束されている。
 7.自然法の拘束力は永遠で普遍的であるか。永遠で普遍的である。
 8.各個人の利益は自然法の基礎であるか。そうではない。



1.道徳律、あるいは自然法はわれわれに与えられているか。与えられている。

 至善にして至高なる神について考え、いついかなるところにおいても人類全体が変わることなく意見が一致していることを思い、あるいは自分自身のことやみずからの良心について反省してみさえすれば、何人も、人間に法則が与えられていないとは信じないであろう。
 自然法は、自然の光によって見出される神の意志の命令であり、何が理性的な自然に合致するか、また合致しないかをしめし、それらを命じたり禁止したりするものである。自然法が理性の命令だというのは不正確であり、理性はこの法の立法者ではなく解読者たるにとどまる。
 自然法の存在は、まず第一に、アリストテレス『ニコマコス倫理学』第一巻第七章の「人間に特有な働きとは精神の能力を理性の原理にしたがって積極的に働かせることである」という記述から認められる。
 これに対する、「自然法はどこにも見出しえないから存在しない」という反論にはどう答えたらよいか。
 @実定法の場合も、盲人は読むことができない。自然法は理性によって知られるが、だからといってどんな人にも知られるということにはならない。
 A自然法とは何であり、その本当の周知の命令とは何であるのか、ということについて、理性的な人のあいだにも完全な意見の一致はない。しかしだからといって自然法が存在しないということにはならない。
 自然法の存在に関する他の証明は次のとおり。
 第二に、自然法の存在は人々の良心からみちびかれる。つまり、「悪事をおかしたものはみずからの裁きからのがれえない」という事実からである。
 第三に、すべてのものが一定の運動法則と、それぞれの本質にふさわしい生存の様式とにしたがっているという、この世界の構造そのものからみちびきだされる。
 第四に、人間の社会ということからみちびかれる。自然法がなければ、人間は相互に社会的な接触や結びつきをもちえない。人間の社会の基礎には、一定の国家制度と統治の様式および契約の履行という二つの要素がある。国家の実定法の拘束力は、それ自体の本質または力によるのではなく、上位者への服従と公共の平和の維持とを命ずる自然法の力にのみよっている。
 第五に、自然法がなければ美徳も悪徳もなく、善のむくいも悪の罰もない。

2.自然法は自然の光によって知ることができるか。知ることができる。

 われわれは、この自然法を認識する方法は自然の光によるものである、と主張する。しかし自然の光が自然法をあきらかにするというわれわれの主張は、人間の心のなかに自然的に光がうえつけられ、それがたえず人々にその義務を思いださせ、そのすすむべき道に迷うことなくまっすぐにみちびいていくという意味に解されてはならない。われわれは、この自然法があたかも書板にかかれたもののように、われわれの心のなかにあり、内面的な光がそれに近づくと、(まるで松明をかかげて暗闇の掲示板を読むように)、ただちにこの法がこの光の輝きでこまかに読みとられ、識別され、注意をひく、というようなことを主張しているのではない。むしろ、自然の光によって与えられた諸能力を正しく用いるなら、他人の助けを借りず、自分一人の力で認識しうるようなある種の真理が存在するという意味にほかならないのである。
 認識には次の三種類がある。生得的知識(inscriptio)、伝承的知識(traditio)、感覚的知識(sensus)である。理性は有力な推理能力ではあるが、まずはじめに何物かが意識のなかにおかれ真実と認められているのでなければ、理性は何をすることもできない。
 生得的知識については、当面、人がその理性と自然が与えた生得的能力とを正しく利用するなら、その義務について先生の教えをうけたり、他人の忠告をうけたりしなくとも、自然法の知識をえることができる、ということが証明されれば十分であろう(引用者註記:この説についての詳しい反論は、次の第三編で行われる)。
 伝承的知識については、@相対立する伝承のうちには非常にいろいろなものがある、A自然法が伝承によって知りうるならばそれは知識というより信頼の問題になる、B伝承にはかならずその作者があるの三点から反論できる。
 残る感覚的認識については、これこそ自然法の認識の基礎であると考える。しかしこのことは、自然法がどこかに明示されていて、われわれがこれを目で読み、手でさぐり、あるいはその告示を耳できく、という意味では決してない。そうではなくて、われわれがいまもとめているものは自然法の認識の原理と源泉、およびそれが人類に知られる方法なのであって、その認識の基礎がすべて感覚をとおして知覚されるものからえられる、ということを主張しているのである。
 しかし、もし自然法が自然の光によって知られるのであるなら、実際には非常に多くの人がこの法を知らず、また大ていの人が自然法について異なった考えをもっているのはどうしてなのであろうか。こういう反論に対しては、われわれの精神能力がこの法の認識にいたりうるとしても、すべての人が必ずしもこれらの能力を正しく使うということにはならない、というのがわれわれの回答である。こういう宝物は、怠けものや無精ものの手にははいらないし、一生懸命さがしている人の手にさえはいるとはかぎらない。一生懸命苦労して何もえられない人もいるのである。

3.自然法は人々の心のなかに刻みつけられているか。刻みつけられていない。

 次に、この認識の起源を探究し、生まれたばかりの赤ん坊のたましいがまるで白紙のようなもので、大きくなるにつれ観察と推理によってそれに知識が書き加えられていくのか、それとも生まれたときから自然法が刻みつけられ義務のしるしとなっているのかを研究することは、努力するにふさわしいことであろう。しかし以下の議論は、そのような心のなかに刻みつけられた自然法というものは存在しない、ということをしめしている。
 @人々のたましいが生まれたときから、あらゆる種類の文字を書きこむことはできるけれども自然的には何も刻みつけられていないところの白紙以上のものであるということは、多くの人々の努力にもかかわらず、なお証明されていない。
 A自然法にかんして人々の意見は非常に異なり、自然と正しい理性の規則はところによって異なり、同じことがある人々のところでは善とされ、他の人々のところでは悪とされ、ある人々は別のものを自然法とし、他の人はこれを否定し、すべての人が自然法を漠然としたものだと思っている。
 Bもしこの自然法が人々の心のなかに刻まれているとすれば、幼児や文盲の人々や、原始人で制度も法も知識もなく、自然にしたがって生活している人々こそ、もっともよくこの法を知り、理解しているはずであるのに、そうではない。
 C愚者や狂人は自然法の知識をもたない。
 Dもし自然法がわれわれの心のなかに書かれているのなら、実践的な原理だけでなく思弁的な原理もまた、刻みつけられていると考えられなければならないであろう。だがこの証明は困難である。

4.理性は感覚をとおして自然法の認識に到達することができるか。到達することができる。

 すでにのべたように、この自然の光は伝承でもなく、また自然によって心に刻みつけられた内面的な道徳原理でもないのだから、それは理性と感覚以外の何ものでもありえない。ここで理性というのは何らかの道徳原理の意味ではなく、また、われわれの行動がそれに合致したときに正しい理性にしたがったといわれるような意味での、心のなかの命題でもない。ここでいう理性とは、精神の推理能力の意味であって、既知のものから未知のものへすすみ、一定の秩序だった命題にしたがって、あるものから他のものへと議論をすすめていく能力のことである。しかし、理性が建設し天高く築きあげる知識の体系の土台となっているものは、感覚の対象なのであって、感覚こそが、まずはじめに推論の最初のかつすべての対象を提供し、精神の奥ふかくこれをみちびきいれるのである。
 感覚によってあきらかになる第一のことは、自然界に知覚しうる対象が存在することである。この知覚しうる世界はおどろくべき巧みさと規則正しさをもって構成されており、われわれ人類もこの世界の一部であることがあきらかである。
 第二に、精神は、感覚が知覚したこの世界の構造を注意ぶかく考察し、その対象の美しさ、秩序、排列、運動を考慮して、その源泉の探究へすすみ、こういうすばらしい作品の原因、製作者は誰であるのかを見出そうとする。
 次に、すべてのものには創造者があり、しかもそれは強い力をもつのみでなく賢明でもあることを認めなければならない、と結論すべきであるなら、この創造者がこの世を無為無目的につくったのではない、ということになるであろう。
 人間がみずからのうちに感覚と理性を見出すなら、かれはすすんで神の作品と、それがあらわしている神の叡智と力とを考え、かくも偉大で恵みぶかい創造者にまつたくふさわしい賞讃とと崇拝と栄光を神にささげるであろう。さらにかれは、生活の経験とさしせまった必要とのみから、他の人々との社会生活をなしこれを維持しようとするのみでなく、生まれつきの性向からも社会に入りこみ、言語能力および言語による人との接触によって社会を維持し、自分みずからの生命を維持するのと同じくらい社会の維持につとめようとする。

5.自然法は人々のあいだの一般的同意から知られるであろうか。知られることはできない。

 「民の声は神の声」。われわれはこの格言がどんなに疑わしく誤っており、いかに弊害を生みだし、またこの不吉な諺がどんなに党派的に利用され、悪意をもって大衆のあいだにひろく流布されたかを、最近のきわめて不幸な教訓から学んだばかりである(引用者註記:ピューリタン革命に対する批判的言及)。われわれが理性の命令と自然の命令を人々のあいだの一般的同意にもとめることは無益である。
 人々のあいだの一般的同意はいろいろに考えうるが、まず第一にそれは実定的な同意と自然的な同意にわけることができる。
 実定的な同意というのは契約によるものであり、自然の原理からみちびきだされたものではないから、こういう形の一般的同意は自然法ではない。外交使節の通行の自由や交易の自由、国境線の定めや特定の商品の購入や輸入の禁止などは、むしろ万民法とよばれるべきであり、共通の便宜のためにもうけられたものなのである。
 第二に自然的な同意であるが、これには次の三つの種類がある。
 @道徳や行為にかんするもの、すなわち、人間の道徳的行為や社会生活の実践の基準となるもの。
 A意見にかんするもの。これに対し、人々はいろいろな方法で、あるものにはしっかりとまた必ず同意し、他のものには不安そうに弱々しく同意する。
 B第一原理にかんするもの。これは健全な精神の持主なら否応なくただちに同意し、その意味を理解すれば、狂人でないかぎりその真実性を何人も疑わないようなもの。
 @そこでまず第一に、道徳にかんする一般的同意についていえば、それは決して自然法ではない。何故ならもし正しいこととか合法的なこととかが人々の生活様式によってきまるとするなら、道徳的正義とか誠実とかいうものはなくなってしまうだろうから。もし多数の人のおこないが法となるのであれば、どんな不道徳なことでも認められ、避けられなくなってしまうであろう。
 A次に人々の意見のうちにあると思われる一般的な同意の検討にうつろう。貞節と純潔、両親に対する義務、自己保存、これらの根本的な原理についてさえ人々の意見が違い、神や魂の不滅性についてさえ疑いをもつ人々がいるのだから、正義や善について考え方が違うのは当然のことであろう。神や魂の不滅性が道徳的命題あるいは自然の法でないとしても、自然法がもし存在するとすればそれらは必ず前提されなければならない。したがって、自然法が人々のあいだの一般的同意からは決して帰結しえないことは、まったくあきらかである。第二に、もしある意見について人々のあいだに完全なかつ普遍的な同意があるとしても、だからといってこの意見が自然法だということにはならない。何故なら、各人が自然法をみちびきだすのは、自然の第一原理からであって、他人の信念からではないからである。
 B第三の種類の一般的同意については、道徳的事実に関係がないので、ここでは述べない。

6.人間は自然法によって拘束されているか。拘束されている。

 ある人々は自然法をすべて各個人の自己保存ということへ還元し、その基礎を、各人が自分を大切にし、できるだけ自分の安全と幸福をもとめようとする愛と本能にだけおこうとしているが、すべての人は自己保存にはまったく熱心で一生懸命なのだから、自然法というものがどういう拘束力をもっているのか、それはどのぐらい拘束的なのかは、研究にあたいすることであろう。何故なら、もし自然法全体の源泉と起源が自分自身への配慮と保存であるのなら、美徳は義務というよりは便宜となり、人間にとって有用なものだけが善いものとなるだろうし、この法を守ることは、われわれが自然によって拘束された義務や責任でなく、われわれの便宜のための特権や利益になるであろうから。
 自然法がどのようにして、またどの程度拘束的であるかを知るためには、まず、義務にかんする若干の事実をあきらかにしておかなければならない。法律家は義務を次のように定義している。すなわち、義務とは人が当然なすべきことをなさなければならぬようにする法の拘束である、と。この場合の法とは実定法の意味であるが、しかし法を、いまその拘束力を定義しようとしているあの自然法の意味に解しても、この定義はあらゆる種類の義務をたくみに叙述しているのである。
 ところで法の拘束はわれわれにわれわれの義務をはたすよう要求するのだが、この義務は二重である。第一に、忠実に服従するという義務、すなわち、上位者の命令のままに何ごとかをなし、またはなさないという義務である。この義務の源泉は、一部は立法者のすぐれた叡智のうちにあり、一部は創造者がその被造物に対してもつ権利のうちにある。第二は、刑罰に服する義務である。しかしすべての義務は良心を拘束し、精神それ自体に負担を課するのであって、刑罰の恐れではなく、正義にかんする理性的な理解がわれわれを義務づけるのであり、道徳については良心が判決をくだし、われわれが罪をおかしたときには、良心が罰を宣告するのである。
 ものごとの拘束性のうちには、それ自体として内在的な力によるものと、間接的に外部の力によって拘束するものとがある。
 @それ自体として内在的な力によって拘束するものは、神の意志である。それは自然の光によって知られるか、あるいは神の霊感をうけた人によって、またはその他の方法で啓示されるかのいずれかであるが、先の場合はわれわれがいま論じている自然法であり、あとの場合は神の実定法である。
 A間接的に委託された力によって拘束するのは、神以外の上位者の意志であって、それが国王であれ両親であれ、われわれは神の意志によってそれに服従するのである。神以外の立法者が他人に対してもつ支配権は、立法の権利にせよ服従義務を課する権利にせよ、神から借りたものであって、神がそのように命じ意志するからこそわれわれに服従の義務が生ずるのであり、かれらに服従することによってわれわれは神に服従しているのである。
 このように考えてみると、自然法の拘束力は第一次的であり、それ自体の内在的な力によるものであって、このことは以下の議論によって証明されるであろう。
 @自然法は法の拘束力を構成するのに必要なすべてのものを含んでいる。この法の立法者である神は、この法がわれわれの道徳的生活の規則となるように意志し、またこれを十分にしらしめたのであるから、真面目に研究しこの法の認識に心を用いるものなら誰でも、この法を理解することができる。したがって、義務を課するのには、支配者の権威と正当な権力とその意志の公示以外には何ものも必要とされないのだから、自然法がすべての人を拘束するということは、何人も疑いえないところである。
 Aもし自然法が人々を拘束しないのなら、神の実定法も拘束力をもたないはずである。
 Bもし自然法が人々を拘束しないのなら、人間の実定法も拘束力をもちえないのである。われわれが国王にしたがうのは、国王が強い力をもち強制することができるからといって、それを恐れているためでなく、(もし恐怖から服従するのであれば、暴君や泥棒や海賊でもその権威を確立することになるだろう)、国王がわれわれを支配する権利をもっているという理由により、良心によって服するのである。すなわち、自然法が、国王や立法者やその他いかなる名でよばれようと一切の上位者にしたがうよう命ずるから、なのである。

7.自然法の拘束力は永遠で普遍的であるか。永遠で普遍的である。

 自然法と人々の義務の根拠とについての人々の意見がいろいろあるということは、すべての人々がおそらく一致して認める唯一のことであろう。この事実は、言葉のうえであらわされないにしても、道徳的行為が非常に多様だということのうちに、よくしめされている。わずかの数の人々や私的な立場の人だけでなく、国民全部に法律観念や道徳的正義がみられないような場合が、いたるところにあるのである。またそのほか多くの国民は、自然法の命令の少なくともある一部を無視して罪悪感をもたず、あるいは正しく考え自然にしたがって生きている人々にとってはまったく嫌悪すべき犯罪を容認し、これをおかすことを賞讃さえするのである。こういう状態であるから、人々が一定のはっきりした考えをもたず、きわめて多様な制度になれ、衝動的にまったく相反する方向へ走っているのをみると、自然法が全人類を拘束しているのだろうかという疑いが生ずるのは当然であろう。
 われわれは先に、自然法は道徳的に拘束的なものとして与えられていることを論証した。いまや、それが実際にどの程度拘束的であるかを論じなければならない。
 第一にいえることは、自然法の拘束力が永遠的であること、つまり、この法の命令に反して行動してもよいという期間はない、ということである。しかし自然法の拘束力については次の諸点が注意されなければならない。
 @窃盗、殺人のように、完全に禁止されており、われわれが永久に拘束されているところのものがある。
 A神をうやまいおそれ、両親にやさしい愛情をしめし、隣人を愛するというように、われわれがある感情をもちつづけるように自然法が要求することがらがある。これらにもわれわれはつねに義務づけられている。
 B神をうやまう形式とか、隣人の苦しみをなぐさめるとか、悩んでいる人を助けたり、飢えている人に食物を与えるとかいうように、外部にあらわれる行為が命ぜられることもある。こういうことについては、われわれはたえまなく義務づけられているわけではない。
 C隣人と会話をしたり、他人のことに干渉することのように、行為それ自体が要求されるのでなく、それにともなう環境によってのみ義務が生ずることがある。
 次に自然法の拘束力が普遍的だということであるが、これは自然法のすべてがすべての人に対して拘束力をもつということではない。自然法の命令のうち、絶対的で、窃盗とか淫乱とか中傷とか、あるいは他方、宗教や慈善や誠実などをふくむもの、その他これに類するものは、世界中のすべての人を、国王でも臣民でも、貴族でも平民でも、親でも子でも、野蛮人でもギリシャ人でも、すべての人を拘束する。しかし人々のいろいろな状態や人々のあいだの関係にかかわるような自然法は、私的公的な機能の必要に応じて人々を拘束する。
 以上の考え方にもとづいてわれわれは、自然法の拘束力があらゆる時代をつうじ、全世界をつうじて不変であり同一である、と主張する。もしこの法がすべての人に拘束的でないとするなら、その理由は、この法が人類の一部には喜ばれていないからか、またはこの法が廃されたからか、のいずれかであろう。しかしこのことは二つとも考えられないことである。
 自然法の拘束力が普遍的であることをしめすもう一つの議論は、帰納的に、すなわち、もしこの拘束力がどこかおよばないところがあるとすればどんな不便が生ずるか、ということからえられる。もしそうなれば、宗教もなくなり、人々のあいだに社会もなく、誠実さもなく、その他無数のそのようなことが生ずるであろう。しかしこのことについては簡単にこれだけふれておけば十分である。

8.各個人の利益は自然法の基礎であるか。そうではない。

 自然法を攻撃して次のような議論を用いる人がある。「人々が法律をつくるのは自分の利益のためであり、それはそれぞれの風俗習慣によって異なり、同じ国民のあいだでもときに応じて変わってくる。すべての人はほかの動物と同じように内部的な衝動によってみずからの利益をもとめるのだから、自然法は存在しないし、また自然の正義の法というようなものも存在しない。もしそんなものがあるとすれば、それはまったく愚かなものであって、他人の利益のことに気をつかっていると自分自身を傷つけることになる」。こういう議論はかつてカルネアデスがそのアカデミーで主張したものであった。しかしこのきわめて有害な意見は、たえず、もっと理性的な人々の反対をうけてきたのである。
 ところでもっとこまかく問題を規定するために、まずはじめに言葉の説明、すなわち自然法の基礎とはどういうことか、各個人の私利とは何か、を与えておかなければならない。
 第一に自然法の基礎というのは、自然法のそれ以外の、あまり明白でない一切の命令がその上にうちたてられ、そこから何らかの方法でみちびきだされるところの、基底という意味である。つまりそれは、根源的な基本法である。
 第二にわれわれが、各個人の私利が自然法の基礎ではないという場合、それは決して、人々のあいだの公正という共通原則と各個人の私利とがたがいに対立している、ということをいっているのではない。何故なら各個人の私有財産のもっとも強力な保護は自然法だからであり、自然法を守ることなしには誰もその財産を所有しその利益を追求することはできないのである。しかしそれにもかかわらず、各個人がそれぞれの環境に応じてみずからの利益になると思うことを勝手にやってよい、とはわれわれは考えない。
 したがって、問題の中心は正確には次のとおりである。各個人がそのときどきに自分と自分の生活にとって有利と考えるものが、自然法に合致し、したがってその個人にとって合法的であるばかりでなく不可避であるということや、また自然的にはいかなるものも何らか直接に個人の役にたつのでないかぎり拘束性をもたないということは、ほんとうであろうか。われわれはこのことを、次の三つの理由で否定する。
 @自然法の基礎、あるいは主要な法となるものは、それ以外の自然法のなかでもっとも普遍性の少ないものの拘束力の土台となるものでなければならない。もし義務の根拠が利益におかれ、便宜が正義の基準として認められるなら、それはあらゆる悪事に門戸をひらくことになるのではなかろうか。
 A自然法の根本的なものが、必ず侵害されるようなものだ、ということはありえない。しかしもし各個人の私利が自然法の基礎だとするなら、この法は必ずおかされるだろう。この考え方によれば人々が自然法によって戦争状態にあるといわれ、あらゆる社会や社会のきずなである信頼がすべてなくなってしまうのだが、そうなると必然的に、人々の争いという結果が生ずるのである。公正と正義が効用と同じものだとすれば、約束を守る理由はなくなり、社会の保障も、人々の共同生活もなくなってしまうだろう。各個人が他人からあらゆる手段によって他人のものを奪ってもよいとされ、さらに奪わなければならないとされるなら、そして他人もまた自分のものを安全に守らなければならないとするなら、人々のあいだには、偽瞞、暴力、憎悪、略奪、殺害などのほかに、どんな関係がありうるのであろうか。
 Bここで第三の論点が生ずる。すなわち、正義と友好と寛容がすべてとりさられるような原理を、自然法の基礎として認めることはできない、ということである。
 ある反対論者はいうかもしれない。もし自然法と生活の義務を守ることが、必ず有益なことになり、自然法にしたがっておこなうことが、直接間接に必ず大きな利益を生みだすのなら、自然法の基礎は各個人の私利となるのではないか、と。
 この反論に対するわれわれの答えは次のとおりである。効用は法の基礎あるいは義務の根拠ではなく、法にしたがったことの結果である。ある行為がそれ自体として何らかの利益を生むということと、それが法にかなうがゆえに有用であり、法がなければ何らの効用ももたないということ、たとえば、自分の損になることであっても約束を守るというようなこととはまったく別のことである。われわれは行為それ自体と法にしたがう行為とを区別しなければならない。行為の正しさはその効用によるのではなく、逆にその効用がその正しさの結果なのである。

 

ジョン・ロックの生涯と思想

『人格知識論の生成ーージョン・ロックの瞬間』(一ノ瀬正樹)