『モラリストおよび政治学者としてのマブリ師』(W・ゲリエ)
p.173〜


執行権の立法府への従属(第2原則)
Le second principe, c'est que le pouvoir executif doit etre entierement dans la dependance du Corps legislstif. 

 (マブリの)第2原則は、執行権が立法府に完全に従属しなくてはならないということだ。この目的を果たすため、代議員の府は法の執行を委ねる大臣をみずから指名しなくてはならない。また大臣に行動の報告を求め、その行動を裁く権利をもたなくてはならない。
 「イギリス人が自分たちで王の顧問や大臣を選ばないことをどれほど不都合と考えているか、あなたたちにもわかるでしょう。もし王が柔弱だったり聡明でなかったりすれば、王の善意にかかわらず、王を欺く陰謀家だけが彼をとりまくでしょう。もし聡明だったとしても、王は気づかぬうちに情念に支配されるでしょう。そして、もし王が愚鈍、野心家、不正だったりしたら、顧問会議は王の不正と野心の共犯者で満たされるでしょう。かくて、自由な国民という外見にもかかわらず、イギリス人は、たぶん最後には議会から煩悶の種を買うという労をとらなくなる宮廷の奴隷になりはじめました。」もしこうしたマブリの意見が、18世紀にイギリス国外で一般的だったイギリス政体に対する誤解が原因でないとすると、この判断は逆説的な不機嫌ととられかねない。イギリスの大臣は、王によって恣意的に選ばれ、王の気まぐれに依存した顧問とみなされていた。そして、むしろ彼らは下院与党の指導者たちであり、いわば、王に間接的におしつけられていたこともみのがされていた。この誤りは、外部からはほとんど感じられなかったが、1688年の名誉革命後イギリス政体におこった深い変化によって説明される。イギリスも一時期は、マブリを代表とするはっきりした権力分立の考えに傾いていた。17世紀の王権と議会の闘争期には、議会は政府を批判し、政府に反対する特権をもった独立体であることを好んだ。一方王は、私的権威を支えようと決心し、議会から独立した顧問を好んだ。ハノーヴァー家という国外の王朝の即位によって完全に保証されるようになった、議会による政府の最初の下書きに出あうのは、名誉革命後、それもウィリアム3世の治世下でしかない。しかし、イギリス人はこうした新しい実践で満足し、この実践を理論として示すことをほとんど考えなかった。モンテスキューにイギリス政体の権力分立を教示したあの著名なブラックストンも、1765年の『イングランド法註解』で、いまだこうした考えにしたがっていた。
 同時代の立憲的実践によって理論を変えるかわりに、この偉大な作家(モンテスキュー)は極度の一貫性で、権力分立の原則、つまり大臣を議会の討論からしめだすことを表明していた。『法の精神』以来、権力分立は憲法理論の要点となっていた。そして、イギリスはこの原則をうとんじ、自由を危険にさらしたという非難が始まっていた。同様に、アメリカ憲法の起草者たちも、自分たちはイギリス型政体の報告にもとづいて二つの権力を遠ざけ、完全に分離し、自分たちのモデルを乗り越えたと信じていた。アメリカの例は、権力分立の原則への傾向をいっそう強化した。フランス革命初期、この傾向は完全に支配的で、少数のイギリス政体派もこの説を自分たちに適合させた。立憲議会は、人権宣言第16条「権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもつものではない」を受けて、この原則を承認した。この原則が、ルイ16世の統治から国民議会の決議に対するあらゆる影響を拭い去るのにいかに寄与したか、また、非常に苦心して練り上げられた1791年の憲法を破壊し、失効させたかもしれない執行権を弱めるのにいかに寄与したかは、よく知られている。
 18世紀の終わりにかけてのフランス精神界の運動をみごとに特徴づける、執行権に対するこうした一般的不信は、絶対王政の失策の主要な産物だった。そのうえ絶対王政は、みずから避けえなかった旧体制下のすべての誤りを帰せられていた。この時期の政治的な文学作品に、こうした王政に対する不信と軽蔑の精神が展開するのを追い求めるのは非常におもしろい。そしてマブリの作品は、こうした探求に貴重な例を供給する。マブリ自身も、自分が、サン=ピエール師の政治的意見に夢中になった一時期があることを認めている。サン=ピエール師は、フランスが王の権威によって、必要とされていた改革を果たしうることを望んでいた。彼の『政治年代記』を読んだ後、マブリは独語する。「このみごとな空論が実行されたらなんと幸福なことだろうか。」――しかしこうした考えを捨ててから、非常に才気煥発で、真理を愛し、80年間も哲学者や上流階級と交際した善良な市民が、自分が最も奇怪な誤りを何度も目撃した政府の下で、自由に反対し専制に味方する改革しか想像しなかったことに驚いた。
  マブリは、次のようにサン=ピエール師を非難する。なんらかの誤りに気づくと、彼は必ず王の権威の重みでそれを押しつぶす。彼の想像力はいとも簡単に、つねに公益をこころがけ、なんら困難なしにそれを実行する聖人君子を彼に供給する。すべての理性的な改革案は、王を法の下に置こうとするはずなのに、彼は、いつも王と法とを置き換える。自分の立場からマブリは応える。「われわれの災禍は、臣民の御し難さからくるのではありません。政府が臣民の従属を濫用することからくるのです。」(『市民の権利・義務について』
 この言葉は、古いフランスの君主制的精神が革命精神に置き換わろうとしていた、18世紀中葉の大変化をエネルギッシュに表明している。封建時代以来君主制の大きな支えであった改革と社会進歩の必要性は、君主制が望まれていた改革に対する無力を露呈した時、ようやく、君主制に対する反対へと変化した。しかしこの革命精神を生みだしたのは、単に旧体制の誤りに支配されていた18世紀の君主制の失策や無力にとどまらない。この精神は、この時代の著作が繰りひろげた道徳学説、存在しうるすべての悪徳を統治者に帰し、<市民>の側には美徳しかみいださなかった奇妙な道徳学説にも支えられていた。そしてマブリは、こうした学説を広めるのに大いに貢献したのだ。マブリによれば、歴史は、為政者がつねに権力を濫用したことを明白に証明している。「自分の義務を忘れて、為政者は人民を欺きました。もしくは、市民を意のままに隷属させることを目的とした法を制定したり、そうした目的をもつ用法を導入して、人民の信頼を濫用しました。」彼の眼には、為政者は情念に支配され、つねに法を犯そうとしているように映る。また健全な政治の目的は、法を従順に執行するようにとあらゆる方法で為政者を縛ることである。しかし概して、マブリは同じ情念が立法府を構成する市民の側にも生起しうるという危惧を表明することはない。彼の考えでは、市民を情念や悪徳の支配から引き離すには、市民が執行権と交わるのを禁じるだけで十分だった。
  マブリが確信していた為政者に対する<立法者>の道徳的卓越性は、彼に、執行権を正しい限界のなかに閉じこめ、立法府の裁量にまかせる方法を探させた。しかしマブリには、彼の政治学説をこの方向へ押しやるもう一つのモチーフがある。――<平等>の情念だ。
 われわれはすでに、人間の完全な平等へのマブリの教理的な信仰について語った。そして、彼が、どのようにしてこの原則を他のすべての道徳的、社会的美徳との分岐点にしたかをみた。しかしまさにここで、彼の平等の学説が、彼の立憲政治理論におよぼした影響を語らねばならない。すでに述べたように、マブリは王政――執行権という資格での王政――を立憲計画から決して排除しなかった。しかし同時に、彼は、社会を完全な平等の原則によって基礎づけることが必要だと信じていた。1789年の選挙民や代議員の大多数も、やはり、この互いにあいいれない傾向を追った。そしてこの影響の下に、1791年の憲法が制定された。この憲法は王政を破壊しようとはしなかった。しかし王政に与えられたのは、到底維持し難い場所だった。
 『立法論』のなかで、マブリは、統治者と被統治民のいる社会という政治状態は、自然状態において存在した完全な平等の否定ではないと主張する。そのため彼は、「共に自然のたまものではあるが、互いに異なったものであり、また異なった目的のためにつくられた」(同書「第一巻、第二章」62頁、訳者註記:同書からの引用頁数は1794-5年版マブリ著作集リプリント版第9巻によって示す。)独立と平等の区別を主張する。人間が社会を形成するためには、独立を放棄することが有効だった。しかし平等はそうではなかった。なぜなら平等は、「より大きな悪に出あったときにしか失われることのない大きな幸福の源泉であり、それゆえわれわれには、平等を放棄しないことが有益だったのですから」(同書63頁)。しかし社会において必然的な従属は、一種の不平等を含まないか。――為政者は、われわれのうえに存在しないだろうか。――「否」とマブリは応える。「少なくとも、私は、自分のうえに主人を置くほど愚かではありませんでした。あるいは少なくとも、為政者に過度に大きな能力や、私と彼の関心を引き離す特権を与えて、彼が私を押さえつける権利をもつことを認めませんでした。しかしもし、共通感覚の最も単純な規則に諮りその法廷に委ねた為政者が、順番で私も占めうる地位しか占めないならば、もし彼が、私同様強制的に法に従うならば、もし彼が法を犯したときに私が罰しうるならば、そしてもし、彼は秩序を守るためだけに、同市民や私の代理権を委ねられ、かりそめでつかの間の権威しかもたないならば、――いったいなぜ、為政者に負わせる尊敬は、私自身を誉めるかわりに私を卑しくするのでしょうか」(同書64頁)。
 この章句は、権力と権威の全代表者に対する深い羨望、完全な平等へ向かう傾向から切り離せない羨望の感情を正確に表明している。こうした性質の感情は、為政者に<かりそめでつかの間の>権威を与え、全市民に、いつか自分が為政者の地位を占めうるという希望を容認する憲法によってしか充たされない。そして多くの雑誌の編纂者たちや、1791年の憲法起草者たちが、善意と君主制の伝統の残滓とを混合したのは、こうした感情なのだ。

『モラリストおよび政治学者としてのマブリ師』扉


『ポーランドの政府と法について』

立法権の帰属

マブリの民主制批判ーールソーとの比較1

『フォキオンの対話篇』ーールソーとの比較2

結  論