『モラリストおよび政治学者としてのマブリ師』(W・ゲリエ)
p.180〜


立法権の帰属(原則の適用)
A qui devait appartenir la puissance legislatrice.


  われわれは、マブリの執行権に対する考えを追ってきた。残された疑問は、彼のプランではいったい誰に、立法権が属さねばならなかったかということだ。――マブリの理論が与える解答は単純明快だ。「みずからが立法者でない限り、人民は法に対する確信がもてないでしょう。」(『立法論』「第三巻、第三章」294頁)――「君主制や貴族制政府に公正で理性的な法を期待するのは愚かなことです。他の人間以上に盲目的で激しい情念を個別の利益に向かわせず、いったいどうして、こうした君主や尊大な特権階級たちが立法権を享受するというのでしょう。これとは逆に、人民が立法権を確保するやいなや、最も賢明で有益な法をもつことは明かです。」(『市民の権利・義務について』
  そこで今度は、マブリの理論によれば、人民はいかにして立法権を執行しなくてはならないかをみてみよう。メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは<合法的>専制を擁護して、「立法権は、一体となった国民によってのみ執行されなくてはならない」という<社会契約>説に対する雄弁な反論を繰りひろげていた。
 『経済哲学者らに提示する疑念』のなかで、マブリは、いつもの峻厳さでメルシエ・ド・ラ・リヴィエールを反駁する。メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは、不正と暴虐へと向かう人間の<自然的傾向>は人間が立法者になることを許さず、またもし各人に個別に諮ると、おしなべてすべての人間は、権利は所有したいが義務は少しもいらない、多くを受け取りたいが少しも与えたくないと望んでいることがわかるだろうと断言した。これに対してマブリは、それは政府の誤った政治によって腐敗した社会の人間だけであり、自然は人類の継母ではなかった、また、自然はわれわれの心に社会的性質を授けたということ、そしてもし個々人が立法者たりえないならば、合法的専制も、またほかのいかなる政府も問題たりえないだろうと応える。
 マブリは続ける。「もし人間が情念しかもたなかったなら、必然的に、彼は社会をなさず野蛮人として生きていたでしょう。またもし情念を免れ、人間が秩序や正義に対する自然的傾向しかもたなかったなら、なんら困難なしに幸福になれるので、人間はいかなる法も為政者も必要としなかったでしょう。それゆえ、人間に法が必要であり、人間が法を制定しうるのは、情念とともに、自然が正義と知性に対する愛を人間に授けたからです。」(『経済哲学者らに提示する疑念』、「第七の手紙」165頁、訳者註記:同書からの引用頁数は1794-5年版マブリ著作集リプリント版第11巻によって示す。)
  歴史にもとづいて、マブリは、社会の誕生そのものが人間は立法者たりえたと証明していること、また最も古い伝統は人間が合法的専制をうちたてることから始めたという考えを認めないことを示す。人民の<無知>を口実にして反論することを、マブリは許さない。人民は、社会の腐敗が愚かにしたので無知なだけだ。そして人民は、腐敗からひきあげられながらしか啓蒙されないとマブリは応える。立法権力を執行するとき、多数者は自分たちを<判定者>や<当事者>とみなすとメルシエ・ド・ラ・リヴィエールは反論していた。すべての回答として、マブリは次のような疑問を設定する。しかしそれなら、国民体(corps de la nation)自身以外のいったい誰が、自分にかなったものを判定しうるのか。最後に、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは、国家の異なった階層を隔てている対立した利益は、おのおのの階層を有利にするために力に訴える必然性を生じさせると主張していた。マブリは、彼の<パニック的な恐怖>を嘲笑し、彼が納得させようと望んだところでは、知性に恵まれ、本性的に危険の接近に対して臆病な人間は、自分のノドを絞めるのに決して熱心ではないだろうと応えた。マブリは、「国民議会の自由が、内乱に火をつけた例を一つでも引用するように」と反対者に挑戦する。同時にマブリは、国民に共通の利益を与えて彼らを近づけ、また彼らが互いに協力するのを助けなければならないのは、国民を形成する異なった階層が対立した利益をもつというまさにそのゆえだと主張する。
  立法権は国民体に帰属しなくてはならないという原則に対する反対者との論争で、マブリが、こうした立法体系は革命と内乱を引きおこすかもしれないという不安の一掃に努めているとしても、これ以前に書かれたがあえて公刊しなかった作品のなかで、彼みずから、はっきり革命を奨励している。『市民の権利・義務について』のなかで、マブリは、個々の市民には不正な法に従う義務がない、それゆえ、市民は法を吟味する権利をもつという原則を提起する。この原則を証明するため、彼は法の分類を試みる。<自然>法はこうした分類の第一にランクされる。マブリによれば、自然の法は非常に単純明解で、何らかの情念に惑わされていない人間がこの法を獲得するには、それが提示されるだけでよい。こうした自然の原初的な法を深く窮めると、それだけいっそう、精神は政治的な法のなかにもひろがってゆく。この政治的な法に関しては、彼自身、各国の政府にとって<基本的、骨組み的な法>と呼ぶ、第一クラスの法をつくる。彼によれば、ここでは、法が自由であるか権威の奴隷であるか、政府が一般的幸福(bien general)を考慮しているか、社会体(corps de la societe)が構成員の一部の犠牲になっていないかを知るには、最も単純な良識で十分だ。そして「もしよこしまな政府が樹立されたり、制度が堕落すれば、」各市民は政府に従わない権利をもつ。基本法から生じ、法学者が、経済法、刑法、民法等に分類する個別の法に関しては、プラトン同様、マブリも、市民が自分は法より賢明だと主張したり、不正とみなした法への従属を拒んだりしないことを望んだ。しかしマブリによる制限は、「自由な人民の作品である法が、それに尊厳と力を与える賢明でよく反省された形式と十分な時間をともなって熟慮され、制定され、公布された、幸福な地方」にしか該当しない。「しかしこうした幸福な共和国は世界でもまれであり、つねに自己の情念によって暴虐と隷属に導かれる人間は、非常に邪悪で愚かな存在で、不正で不条理な法を制定しますから、不服従以外のいったいいかなる救いを、この悪に適用しうるでしょうか。そこからなんらかの困難が生じるでしょう。しかしなぜそれを恐れるのでしょう。この困難自体が、われわれは秩序を愛し、秩序を打ち立てることを望む証拠ではないでしょうか。」(『市民の権利・義務について』)


『モラリストおよび政治学者としてのマブリ師』扉

『ポーランドの政府と法について』

執行権の立法府への従属

マブリの民主制批判ーールソーとの比較1

『フォキオンの対話篇』ーールソーとの比較2

結  論