| 『モラリストおよび政治学者としてのマブリ師』(W・ゲリエ) p.184〜
マブリの民主制批判(ルソーとの比較1)
Mably repudie la democratie legiferante. |
| このように、一般に全市民が法を吟味し不正な法に従わない権利を、マブリは要求する。そしてまた、立法権が国民体に専一的に属することを強く要求する。しかしここで、彼はいったい何を意図しているのか。どのようにして、国民が法を制定することを望んでいるのか。以下は彼の政治体系の本質的な点である。そしてこれは、彼をルソーから深く区別し、フランス民主主義の真の理論家にする点でもある。『社会契約論』が人民の直接立法権を要求していること、そしてルソーが、すべての政治的代議制を、人間の自然権の譲渡として、新種の奴隷制として非難していることはよく知られている。マブリは逆に、(人民が自分で)<法律を制定する(legiferante)>民主制を拒む。マブリにとっては、人民の代表者による立法が政治的自由の基礎であり、理性と正義という意味でのすべての漸進的発展の基礎である。『立法論』のなかで、人民は自分自身の立法者でなくてはならないという原則を表明しながら、マブリは急いでこうつけ加える。「しかし私が大衆に立法権を委ねていると恐れないでください。法を制定するとき、人民は、法への軽蔑を決して隠しません。なぜなら、その法を公にさせたのは、陰謀、熱狂、性急、策動、党派精神だからです。それゆえ、この崇高な権威が委ねられるべきなのは、おのおのの階層が自分を代表させるために選んだ人たちになのです。」(同書「第三巻、第三章」294頁) 立法権が代議員の集会に属するこうした政治制度に、マブリは、<純粋民主制(pure democratie)>と呼んで全著作で専制や貴族制政府同様に厳しく批判したものを対比させる。「民主制においては、トルコの政令(decrets)同様不正や不条理をともなう政令が、公共広場で伝えられるでしょう。」――「市民が法に従わなくてはならないのは、こうした政府においてではないでしょうか。全市民が、自分の夢想を提示して法にしうる純粋民主制、そして、悪意ある人物のたくらみを挫き、熱狂を予見し、つねに傲慢な大衆の情念を静める理性的予防策をまったくもたない純粋民主制においては、眩暈によってすべてが決まるのは明白です。そうなれば、私は自分の共通感覚をおとしめ、単なる雑踏でしかない議会の政令に盲従しなくてはならないのでしょうか。」(『市民の権利・義務について』)『歴史研究』のなかの論議で、マブリはより詳細に、民主制と他の政府形態の間の平行関係を追及する。そして忘却から救い出す価値のある雄弁なページのなかでそれを性格づける。「民主制において、いつも放縦と自由を混同しがちな市民は、自分たちの法によってあまりに苛酷な軛を課せられるのを恐れます。また為政者を自分の情念の手足のようにしか考えません。人民は、まさに自分が主権者であると知ります。そして媚びへつらう人間を、その結果、専制君主がもつすべての先入見と悪徳をもつでしょう。専制と貴族制は運動を欠きます。しかし民主制では運動は断続的、いやむしろしばしば麻痺的です。民主制は公共の幸福に身を捧げる決意をした市民をうみだします。民主制はヒロイズムをうみだす原動力を心に与えます。しかし、規則や理性の光の誤りのために、こうした原動力は、先入見や情念によってしかはたらきません。こうした人民=君主に一定の性格をもてと、決して要求しないでください。彼らは、移り気で無思慮でしかありえないのですから。彼らは決して幸福ではありません。なぜなら、彼らはつねに行き過ぎだからです。人民の自由を支えるものは継続的な大変革だけです。人民が自由を保持するために想像するあらゆる制度や法は、同じ数の誤りをうみだすもとになる大失策です。それゆえこうした人民は、いつも暴君のダシにされたり、貴族制を打ちたてようとする元老院の権威に押しつぶされる危険にさらされているのです。」(『歴史研究』) しかし、マブリが民主制のさらされている危険を最も強く指摘するのは、遺作『社会における情念の経路と歩みについて』(以下では、『情念の経路と歩みについて』と略す)のなかだ。民主制において、人民があまりに生気があり傲慢すぎる情念をもつことを証明するために、彼は歴史の証言を援用する。それはたぶん、主権のうえにあぐらをかいた人民が、自分は、為政者がその単なる執行者や役人でしかない法や議決の主人であることを非常によく知るからだろう。大衆が自分で疑問に思うことのない無知や憶測にともなわれた傲慢は、専制や恐怖、そして彼らをあちらこちらに動かし、あなたはつねに正しいと大衆に説く希望に対して、いかなる限界も設けない。(『情念の経路と歩みについて』、224-5頁、訳者註記:同書からの引用頁数は1794-5年版マブリ著作集リプリント版によって示す。) 他の形態の政府における以上に、こうした民主制において、人々が幸運の作品である偶発事に従うのはもっともなことだ。いったいなぜ。――それは、考えること、さらには異なった観念同士を結び合わせることができず、つねに小心であるか大胆で場所をわきまえない人民が、不幸や繁栄のなかで、あるときは理性を欠いた不敵な人間に、またあるときはその優柔不断が周到さに似ている市民に、そしてしばしば、自己の信用や財産をつくりだすために政府の悪徳を利用することを望む野望を抱いた陰謀家に、自分を委ねてしまうからだ。 こうした政府はわずかな時間で自己崩壊するだろう。もしこの状態を支配している無秩序、あるいは、少なくともこの状態から隠密裡に芽ばえた無秩序の精神が、何者にも準備した企みや愚行を完遂する時間を与えないほど、すべての情念を不安定で変わりやすく気まぐれにしない限りでは。またそれゆえに、情念がかわるがわる突然に交代して、自己の誤りを何度か矯正しないまでも、その誤りを互いに打ち消さない限りでは。 |