『モラリストおよび政治学者としてのマブリ師』(W・ゲリエ)
p.188〜


『フォキオンの対話篇』――(ルソーとの比較2)
Les Entretiens de Phocion. 


 立法的民主制に対するマブリの先入見は、次の二つの理由によって説明される 。1.古代民主制の歴史からひきだされた経験。 2.社会における人間の本性についての心理的考察。 古代の歴史と古典文学に対するマブリの造詣は、疑いなく、 18世紀の他のいかなる著述家よりも深かった。たとえスパルタの政府、 リュクルゴスの立法、 ペリクレスやグラックス兄弟の政治的役割等について、 マブリが誤った観念を抱いているのに出あうとしても、しかしなお、 彼がアテナイの政府や政治慣行を非常によく知り、 また非常な炯眼でそれを評価したことを正しく認めなくてはならない。 大衆の無節操と情念によって不正にも犠牲にされた偉大な愛国者 <フォキオンの対話篇(フォシオン対談)>は、 「為政者に空虚な名前と無益な権力しか与えなかった」、 そして「フィリッポスが城門まで進軍したときにも、 楽しげに見世物にかよった」 アテナイ民主制に対する手厳しい批判を、われわれに提供する。 ここから、『フォキオンの対話篇』のなかに、 自分の作品の恥知らずな寄せ集めしかみようとしなかったルソー のつぶやきが、 いかに不当であったかがわかる。なぜなら、 うまれたばかりの民主主義の二人の理論家間の顕著な対照を与えてくれるのは、 『社会契約論』の直後に出版されたこの作品だからだ。ルソーの説は、 一般意志の直接的表明にもとづく立法の弁明と、議会による政府の否定である。 そしてマブリの著作は、<人民政府>と<純粋民主制>に対する最も辛辣な批判を含んでいる。 政治は相続財産を所有した人間しか国家政府に認めてはならないと、 マブリはフォキオンに語らせる。彼らだけが祖国をもっている。 これがマブリの意見であり、大損失を被らずにこの原則の実行から身をそらすことができないのは、 ほとんど真実そうだとつけ加える。重農主義者の考えもこれと同様であり、 テュルゴーが <大都市>や<王都>に囲まれた都市の体系を基礎づけようとしたのも、 この原則にもとづいてだったということが知られている。
  しかしマブリにおいて、この意見は、重農主義者の<自然の秩序>ではなく、 彼が全面的に受けいれた、職人の仕事は彼らの魂を堕落させるという古代人の先入見に基づいていた。 この観点から、マブリのフォキオンは嘆く。 アテナイでは「全市民が雇い人になってしまいました。 染物屋、靴屋、石工、商人、蹄鉄屋、古物屋、以上が公共広場での民会の基底になっています。」 マブリは、市民としての意見をもちえないものは、奴隷同様、 決して公の行政に関与すべきではないと望んだフォキオンの判断を、説明し、同意する。 彼は正しかった。マブリは、アテナイの国家組織の衰えを、民会での職人の過剰に帰する。 「<職人によって治められた共和国>は、自然にそうした共和国が帯びるべき才覚を帯びました。」 個別の利益がつねに公共利益を決定した。フォキオンは語る。 「朝は小心で夜は大胆、怠惰であると同時に激しやすい。 われわれの情念はかわるがわる極端になるので、 われわれは自分の力も弱さも策略もまったく認識しませんでした。 目的にそって行動することもできませんでした。 危険を予見することも予防することもまったくできませんでした。 それでいて幸運にどんな不平を言おうというのでしょう。 職人の議会を公正、慎重、大度にするために、幸運は奇跡を行う義務があったのでしょうか。 それゆえ立法者は、彼らに保管物や主権の管理を委ねることを差し控えてください。」 (『フォキオンの対話篇』)
 完全な平等の理論家が責務を容認し、お気に入りの原則を事実上非難するときに使う手段を みるのはおもしろい。「アテナイの愛国者に語らねばなりません。私は人間の平等と人類の権利を 十分以上に知っています。しかし、私は共和国の幸福に諮るのです。職人を無視できない以上、 共和国は人間愛に充ちた態度で、軽蔑せずに彼らを統治してください。為政者は、 労働が職人の生計を容易かつ十分に充たすようにと配慮しなくてはなりません。 さもないと、彼らは共和国の敵となり、為政者は彼らの罪の半分と、 彼らの処罰で自分をさいなむことになるでしょう。しかし、仕事や労働によって腐敗させられ、 無知にとどめおかれる大衆自身にとっても、政府を占領しないことが肝心です。」(『フォキオンの対話篇』)
 『フォキオンの対話篇』では、マブリのよった精神が、十分以上にアテナイの「偉人たち」の意見に従う必要性を彼に課したようだ。 アリステイデース以外、 彼らはみな非常な貴族制派だった。 しかし、われわれは大衆の政治的無能についての同じ判断が、 より一般的な方法と辛辣なペシミズムで語られるのを、『情念の経路と歩みについて』 にふたたび見いだす。この作品で、マブリは心理的理由にも訴える。
 理性と情念の関係を分析しながら、マブリは異なった理性支配の段階に対応する魂の<三つの傾向> を区別する。そして、その傾向が「地上を覆うほとんどすべての人間の継続的で堅固な根底を それぞれ独立にかたちづくる」ので、この傾向を(人間の)三つの階級に割りあてる。
 「第一階級の人間は非常に少数です。諸国民や世紀の広い延長のここ・あそこに散らばり、 それらを照らすようにと自然が準備した哲学者たちです。 悟性を迷わしえない中庸をえた情念しかもたないので、哲学者たちは、 理性の全利点をつねに享受します。彼らの感覚をうつ全対象は、そのまま省察の主題となります。日々親密になってゆく真理は、彼らが目撃する多くの誤りを、日々遠ざけます。人類がすべての光明、知識、美徳を負うのは、こうした人間にです。 もしかりに、彼らの心と頭脳のこうした幸福な組織が全人類共通だったなら、 詩人たちが想像したあの黄金時代も、決してむなしい夢ではなかったでしょう。そして、人は法も政治も必要とせず、自然の規律と正義の規律に嬉々として従い、真理の魅力に導かれ、各人が自分自身の廉潔な為政者であったことでしょう。 しかし不幸なことに、優れた知性をもって生まれながら、 あまりに傲慢な情念によって堕落した第二階級の人間は、前者とは比較にならないほど多数です。彼らは賢人にもなりえたのですが、至上の善と思われた幸福の外見に欺かれました。そのときから、彼らの理性はためらったり、疑ったり、真理を探求したりできなくなりました。そして彼らの理性の光は、自分が従っている情念をより致命的にするのに役立つだけです。たいがいの著名人はこうした人間でした。彼らは堕落した心を充たすために、才能を悪用したのです。自分は、人類としての義務を果たすことによって人々を幸福にするようにと、 天の摂理によって定められた道具なのだと考えるどころか、彼らは才覚の誤ったひらめきによって、人々を篭絡しました。彼らは、野蛮な情念を第三階級の人類に伝えました。第三階級は真実と誤謬とを見分けられないので、何らかの恐怖や新しい希望が与えられると、 最も愚かな先入見に従うのです。」(『情念の経路と歩みについて』、178-80頁)
 「疑いなく最も数多いこの最後の階級は、思考を感覚以上に引き上げることができず、 また出来事の結果をみたり予測したりもできずに、 ある種の熱狂によってふき込みうる情念しかもたない、市民たちの階級です。 かりに共和国の性格が、いわば互いに矛盾した二つの才能からなるとすると、こうした大衆が、自分を最も高貴で高邁な才能まで高めることはないでしょう。彼らが日々見たり感じたりする方法に最も親密で類似しているので、必然的に最も怠惰な部分が最も賢明にみえるでしょう。逆に国家的才が優勢な情念にしか従わないと仮定すると、そのときから、少しもぼやぼやせず、悩まず、異なった対象に心を奪われない下層階級は、政府が見るように望んだものしか見ないのがわかるでしょう。そして、もしこうした奇妙な言い方が許されるなら、彼らの慣例(routine)と無知は、下層階級を機械じかけの英雄に祭りあげるでしょう。」(『情念の経路と歩みについて』、217頁)
 他の箇所では、マブリは諦めとともに、大衆のこうした政治的不能を受けいれる。そしてそれを、あたかも一種の善であるようにさえ考える。大衆は、「父親から子供の幼い精神へと受け継がれる」一種の公共理性が、<慣例によって>国家のなかに自己を打ち立てることを許容し、 野心家の企てや情念に対する障害としてはたらくと、彼は語る。
 「こうした人間のカスが、いわば、社会という船の底荷としてしか役立たないよう定めたように 思われる、あるいはむしろ実際にそう定めた自然の創造者を私と一緒にたたえてください。これらのカスは、彼らに考えることを禁じる魂の鈍重さ、そしてその結果であるこうした不動性によって、既存の秩序を乱し公共の習俗を混乱させうる外的な不慮の出来事に抵抗するのに適当です。人間精神に非常に共通なこうした愚鈍さなしには、才知、才能とともにどんな大嵐が生じ、政府の権威を揺るがし、法の力を逃れ、共和国を自分の幸運の犠牲にするために、政府の最少の悪徳をも見逃さない市民の傲慢な情念を社会に引き起こさないとも限らないでしょう。」 (『情念の経路と歩みについて』、167-8頁)


『モラリストおよび政治学者としてのマブリ師』扉



『ポーランドの政府と法について』

執行権の立法府への従属

立法権の帰属

マブリの民主制批判ーールソーとの比較1

結  論