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『モラリストおよび政治学者としてのマブリ師』(W・ゲリエ) p.194〜
結 論
CONCLUSION |
| マブリの政治的理想とルソーの政治的理想との間の本質的差異を示すために、われわれは、大衆の政治的役割についてのマブリの判断を詳細に引用することが不可欠と考えた。一方の思想家が、立法権が直接かつ専一的に市民の大多数に帰属しないあらゆる政体を不 当として軽蔑したのと同様に、他方は純粋民主制を非難した。そしてもし、ルソーが一心 同体の市民=立法者しか知らなかった古典古代への回帰によってヨーロッパを再生しようとしたとすれば、マブリは、もしも全市民を公共広場に集めるかわりに、古代共和国の人民が一定数の代表者からなる民会しかもたなかったとしたら、しばしば見失ってしまうほど小さな悪徳だけを、民主制に対して非難していただろうと主張した(『立法論』)。おわかりのように、マブリの政治的理想は、モンテスキューの立憲君主制とルソーの立法する民主制の、いわば、中間を占めるように思われる。一方でマブリは、王の権力と立法府の均衡の体系を、またモンテスキューが均衡の基礎とみなした、投票権と世襲内閣といったすべての保証を非難した。そしてマブリは、逆に権力の完全な分立と、執行権の立法府への従属を主張した。他方彼は、絶対民主制に、原始的で実行不可能な形態、またとりわけ、大国にとっては非常に危険な形態しかみなかった。しかしなかでも、情念に対する恐れが、対立するモンテスキュー、ルソーの両体系を非難させた主因だった。彼は、立法府の永遠の敵である為政者や行政官の野望や簒奪、また無知な大衆の野蛮な情念を恐れた。 しかし彼にすれば、彼の体系つまり全能で無拘束な立法府においても、情念は恐るべきものではなかったか。マブリは反論をみこしていた。そして、『立法論』の特別な一章をそれにあてた。この側面でのすべての弊害を予防するため、「神聖なる議会」が、議会の活動を生じさせる叡智にいくらか対応した、何らかの形式に服することを彼は要求する。「なにごとも、発声による満場一致で決まることがありえないように。新法の立案や法規改正の計画は、その審理を委ねられた委員会に附託されるように。委員が報告をした1週間後に初めて、議員は法案についての賛成意見、反対意見を述べることが許されます。そして評決に付すまでには、さらに1週間を置きます。立法権は、いくら熟慮しても、またいわば、いくら反省してもしすぎることはありません。しかる後、秩序を保ち、混乱を避けるのに最もかなった方法で、票を取り集めます。」(同書「第三巻、第三章」294-5頁) マブリの考えでは、こうした警告は、立法議会が心酔や熱狂にかられるのを防ぐことを目的としていた。しかし他方で、立法議会において精神を疲労させないようにとも提案している。彼は夜間討議することを禁じたポーランドの法律を称賛し、審議がしばしば深夜の2時、3時にまでおよんだイギリス議会を非難する。こうした長い審議では、疲労によって理性がかたくなな要求に屈してしまうことを懸念するのだ。また立法権が国家の一部の不平を陳述しないよう、個々の議員が望むままに新法の制定や旧法の改正を提案する権利をもつことを、彼は主張する。「もしこの許可を得るために形式的手続きが必要ならば、あなたたちは策謀に扉を開くことでしょう。そして策謀は、不正な法以外のなにものも制定しないでしょう。」(同書「第三巻、第三章」296頁) 最後に、マブリは強制的委任(mandats imperatifs、現アメリカ合衆国の大統領選挙人選挙に代表される、被選挙人の当選後の態度を拘束する制度;訳者註記)を要求する。「選挙民に少しも拘束されない議員は、自分が固有の権威をもつと信じて、彼らの利益を裏切りえます。それゆえ議員は、選挙民の指示によって正当化されたもの以外、いかなる要求をもしてはなりません。この方法は市民と立法権力をより緊密に結びつけ、議員と義務とをつなぐでしょう。信頼が生じ、法はより尊重されるでしょう。」(同書「第三巻、第三章」296頁) 立法府による権威の濫用を防ぐのに、マブリはこれで十分だと考えていたが、これらの警告は、彼の体系の弱点をよく示している。実際に、マブリの崇拝者が多数席を占めていた憲法制定国民議会が、これらの方法は立法者の情念に対抗するのに不十分であり、また執行権が過度に制限され、立法権力から過度に分離されているときに大衆の情念が呈する危険に対しても不十分であると証明したのは、それから10年経つやいなやだった。さらに彼自身も、自分がモンテスキューの立憲君主制とルソーの直接民主制のかわりに提案した政治体系の無謬性について、読者に正直な疑問をなげている。メルシエ・ド・ラ・リヴィエールとの論争 において、マブリは、人間の情念に抵抗し、私的利益に対する一般利益の優位を確立しうる政府は存在しないことを証明しようとつとめる。重農主義の作家は主張した。「人間は、つねに、公共の幸福(bien public)という明証性に屈するよう強いられます。」そしてそこから、重農主義学説の明証性に導かれた専制は、決して立法権を濫用しないという結論をひきだした。この点にマブリは応じた。財産の共有(communaute des biens)と身分の平等という自分の体系においては、「この推論は非常に正しい。」なぜなら、そのときには、全市民が唯一の利益しかもたないから。その利益とは、個別財産が決して障害となることのない公共財産(bien public)である。しかし、現行の社会体系においては、個々の市民が二つの利益に引き裂かれている。社会の一般的利点と自分の個別な利点である。 「こうした対立した利益の闘争のなかで、市民は個別財産にのみ専心し、しばしば一般財産という視点を失うでしょう。そして必然的に、社会の支出で市民を優遇する法を、最も正しく賢明な法とみなすでしょう。またせいぜい、最も厳密な正義が強制しない限り、法を愛さないでしょう。」 「立法権がみずから提唱すべき目標、それを目指して立法権が定められた目標からほとんど継続的に立法権をそらしてきたのは、つねに、あるいはほとんどつねに一般利益と対立する、この個別利益です。これが、過去、現在、そして未来にわたって地上を荒廃させるすべての粗悪、野蛮、よこしまな法の真のみなもとです。」(『経済哲学者らに提示する疑念』) これらの省察の後、マブリは次のように結論する。「私は明白に理解します。立法権が、自己の規定されている規則からはずれることを防止する唯一の無謬な方法は、財産の共有と身分の平等を確立することです。なぜなら、つねに一般利益に勝利する個別利益を打ち砕きうるのは、ただこの手段しかないのですから。」 われわれは、ようやく、マブリの学説の主要な点にもどってきた。財産の共有。完全な政府を築きうるのは、この土台のうえにでしかない。かくて、このユートピア思想家は、自分自身で彼の政治理論の知的足場を打ち砕く。たとえ最良の政体といえども、財産の共有なしに、立法のなかで、一般財産の私的利益に対する勝利を確立しえないならば、権力の分立についてのこうした詳細な推論は、いったい何の役に立つのか。しかし他方で、マブリによって描かれた政治体系は、彼のユートピア的な夢想の空虚をよく証明する。彼によれば、財産の共有は現状においては不可能である。情念の支配下では、それ以前に、こうした諸情念、とりわけ野望と強欲とを弱め根絶しなくてはならない。立法者は賢明な政治で、「自然によって定められた場所にしか、幸福を求めない」ようにと、気づかぬうちに社会を導かなくてはならない。 しかしこの崇高な労力を良き結果へと先導しうる立法者とは、いったい誰(何)だろうか。 ――その立法者は、社会の利益と対立した利益をもつ、<合法的な>専制君主ではないだろう。そして、つねに情念にあざむかれる純粋民主制でもないだろう。しかし、それはまた、マブリが語ったような強制的指示を与えられた国民代表の立法府でもないだろう。なぜなら、この代表者たちは、選挙民の情念の盲目的な道具に過ぎないのだから。 それゆえ、マブリの学説は誤謬推理しか提示しない。そして彼の考えは悪循環する。真の社会道徳を基礎づけるためには、財産の共有が不可欠だ。しかし、財産の共有に至るためには、情念をまぬがれ真の道徳に導かれた完全な政府が必要だ。そしてこの完全な政府は、財産の共有においてのみ可能なのだ。マブリ自身が、彼の学説のこうした弱点に気づいていたのは非常に明白だ。そしてそこから、情念の力と価値についての彼の矛盾、『情念の経路と歩み』についての彼の最後の作品に刻まれている一種の失望と激しいペシミズムを説明することができる。重農主義者との論争で、自己のユートピアを弁護するために用いた、厳格、傲慢、教条的な口調と、晩年の作品で情念との永遠の闘争が呈する困難さ、そして自己を情念の勝利に委ねた国民を待ちうける不幸な運命をしばしば嘆くときの自棄的な口調には、本質的な相違がある。『情念の経路と歩みについて』のページは、彼の社会主義的なパラドックスに対する優れた批判で充ちている。 情念を主題としたこの作品のなかで、弟子にむかって話しかけながら、マブリは、立法者が国民に恒久的で夾雑物のない幸福を与えうるという幻想を取り除くあらゆる努力をする。彼は大声で叫ぶ。「第二のリュクルゴスの出現ですって。彼の一声で全市民が新しい人間になり、彼らの精神はいかなる古い先入見ももたず、心のなかから悪の芽が永久に摘み取られるだろうですって。――空しい希望です!法は、われわれを財産に向かわせる一般的衝動、そして、われわれをそれから引き離しうるすべてを軽蔑させる一般的衝動を情念に与えることができるのです。法は最も厳密な公平さで公的権力を分割しえます。しかし、すべての精神に同じ性格を刻むでしょうか。最高の善意、同じ祖国愛を抱くとしても、次々に交代するすべての為政者が同じ才能をもつでしょうか。それゆえ、対象を同じ視点でみるでしょうか。彼らはそこから同じ結果を引き出すでしょうか。また行動の際に同じ敏捷さを、執行の際に同じ勇気と同じ確固さをもつでしょうか。」(『情念の経路と歩みについて』、252頁) 他の箇所では、たとえ最も深い叡智の作品だとしても、法は、つねに広がろうとする心中の秘密の悪意を打ち砕くことが決してできないだろうと嘆く。そして「人類の保持に心を配る」自然によって、個人同様死と継承を定められた諸国民の運命の長い考察に、彼は専心する。情念は、われわれの哲学者を絶望させる。彼は情念に決定的勝利をもたらす力と<策略>について語ることをやめない。闘いながらしばしば退却し後に戻ってくるパルティア人と情念を比較する。彼は作品の最終巻全体を、<高貴で高邁な>情念と闘う<脆弱で怠惰な>情念についての推論についやす。そして後者は、最後には前者に勝利するはずだと証明する。このような事態がおこると、弱体化した法はもはや統治することができず、公共財産に向かうことの決してない情念は、必然的に各個人の個別財産へと向かうだろう。 実際、これらすべてのペシミスティックな省察ののち、読者には、『立法論』でマブリが計画した、立法者による腐敗状態の市民と自然の観点との和解を準備させるのに役立つプログラムに対する確信が、ほとんど残らない。 こうした省察のなかでも、とりわけ一つがわれわれの注意をひく。なぜなら、それは道徳の根底そのものにふれるからだ。「心のなかで、人間はつねに種々の感情間の闘争にいそしむ」ことを示し、「人間の巨大な集合でしかない社会は、それゆえ、われわれ一人ひとりと同じ矛盾、同じ闘争にさいなまれる」ことを語ったのち、マブリは結論する。「しかし、個々人を義務に結びつけ、最も困難な美徳の実行を快いものにするために、道徳が個々人に供するものと同等の援助を、悪徳から身を守るようにと政治が社会に提供しうるには、政治は多くを必要とします。」 こうした考えを説明するために、道徳の法則(lois de la morale)を学び、自然が定めた幸福しか求めない人間の一生と、最も賢明な法律によって治められた共和国の一生の相違を、マブリはみごとに描き出す。哲学者は、自分の力、いやむしろ自分の弱さを認識する。彼はたえず自分を警戒する。彼は決して自分の視点を見失わない。彼はたえず、自分の能力の一つひとつを完全化しようと努める。そして彼の理性は、経験によって自分を勇気づけ、強化する。マブリは問う。しかしいかに完全であろうとも、政治は、道徳が人間に与えうるものと同等の支配力を、すべての市民に対してもちうるだろうか。 「われわれの感覚からくる情念に多くの能力を与えたとはいえ、必ずや大きな美徳を破壊する誘惑を退けるようにと、道徳は哲学者を招きます。しかし、市民を破滅の撒き散らされた道筋へ導き、あらゆる方向にいつわりの快楽や幻影を提示しておきながら、いったいなにゆえ、政治は、自分の誤りを発見し、滑りやすい破滅の坂道で立ち止まり、人間を古い美徳へ押し上げる状態にあると思いこめるのでしょうか。――人間がこうした奇跡を行うことを、決して待たないようにしましょう。」 われわれには、こうした意見すべてが貴重に思える。われわれは、自然な利害(interet naturel)に基づく道徳の信奉者、社会の道徳的完成を政治と立法に負わせた作家が、とうとう結論に達したのをみる。政治は道徳を補うことができない。また、道徳が社会に救済をもたらしうるのは、個々の人間を義務に結びつけながらでしかない。このことは、道徳は<義務>の観念に基づかなくてはならないことを、また、よく組織された社会においては個別利益が一般利益と一致するというパラドックスを、道徳がつくりあげるしかないことを意味する。 しかし、こうした遅まきで、また言わば不本意な意見はさておき、マブリは、過去の世紀に非常に広がり、重大な誤りを宿していた学説の代表者ではある。その誤りとは、広義の幸福を実現し、自然の意図と純粋理性の要求のもとに社会を再建することに関して、政治と立法は全能であるという信仰である。この誤りは、根本的な改革を必要としていた社会、一国の立法における長い停滞をこらえきれなかった社会によって、容易に説明できる。無制御の力によって長い間管理されてきた社会の政治的不慣れ、抽象的観念の価値や能力に対する高邁な妄想、人間一般に関する感覚的なオプティミズム――これらすべてが、立法という手段によって社会と人間を更新しうるという確信を増大させたはずだ。 これらの信念は、18世紀末にフランスでおこった大事件に大いに寄与した。またこれは、部分的で穏健なすべての改革に対する精神の敵意、ならびに、社会の全体的刷新に反対するすべてを遠ざけたいという欲求にも、大いに与った。社会の再建という仕事に栄えある努力と耐えがたい誤算の夾雑物を断続的に持ち込んだすべての立法者のなかで、われわれは、その結果が最も致命的な誤りをもった幾人かに出あう。それは、政治と道徳を混同した人たち、社会を組織する時に、いまだ社会の道徳的再生を望んだ人たちである。そしてそれはまた、マブリの著作によってあらかじめ研究され、定義されうるプログラムをもった人たちでもある。こうした立法者たちは、(マブリの)モラリスト的な政治学の作品のなかに、社会における広義の幸福は、立法が悪徳を根絶し、美徳がよこしまな情念とりわけ強欲から遠ざかり、欲求の<段階的消失>によって、それなしには完全な平等も市民の徳も存続しえない厳格な質素を、立法者が習慣のなかに確立するまでは達成しえないという観念がながながと展開されるのを発見できた。 そしてまた、人間を有徳にし、社会を幸福にするために、立法者は「市民を強制的に美徳へ向かわせる聖なる暴力」に訴える権利があるという原則を彼らが発見したのも、マブリの著作のなかだ。 恐怖の歴史が、同様のプログラムが到達したに違いない結果を、われわれに知らせてくれる。確かに、広義の幸福を抽象的理性や市民の道徳に基礎付けようというこの試みの間以上に、平和や幸福を欠いた社会は決して存在しなかった。悪徳と堕落した魂に対するこうした雄弁の時ほど<怠惰な情念>が氾濫したしたことは決してなかった。そしてまた、美徳の名のもとに、あれほどの罪が犯されたことも。 われわれは、ここで、この時代の歴史に属する事実や人間を裁き、状況の圧力のもとになされたことを解決し、野望をもった暴君と真摯な熱狂家を区別する必要はない。――マブリの作品の研究は、事実や人間の影響を越え、その重大な誤りとそこから生じるすべての論理的結果とともに、抽象的で純粋な理論を知る機会をわれわれに供するという利点をもっている。 マブリには、人間精神のこうした単純な錯誤に生気ある光を投げかける、次のような言葉がある。「人間の美徳は固有の妄想をもつ。」晩年の著作の一つで、彼はこう語った。この言葉は、彼のユートピアそのものにも適用しうる。そして、彼の共産主義的ユートピアと同様、立法によって道徳を基礎づけるという彼の夢も、純粋理性と人間の広義の幸福へ向かう18世紀精神の偉大で高邁な運動のなかの、不健康なこぶのようなものである。 1979年10月4日訳出
2001年10月20日改訂 2006年5月15日部分改訂 |
『モラリストおよび政治学者としてのマブリ師』扉
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『ポーランドの政府と法について』
執行権の立法府への従属
立法権の帰属
マブリの民主制批判ーールソーとの比較1
『フォキオンの対話篇』ーールソーとの比較2