リシュタンベルジェ「18世紀社会主義」〜「マブリ」

 以下、翻訳者・野沢協氏の了解のもと、アンドレ・リシュタンベルジェの「18世紀社会主義」(1981年、法政大学出版局)から、マブリについて書かれた第8章を全文引用する。野沢氏による同翻訳は、人物、事項にわたって詳細な註がつけられているが、一般的な読者を想定したホームページの性格上、それらはすべて割愛した。興味のある方は、直接同翻訳にあたって確認していただきたい。
 なお、同書全体の構成は次のとおり。


まえがき
第1章 18世紀社会主義
第2章 18世紀前半の社会主義
第3章 18世紀前半の社会主義(つづき)
第4章 モレリ
第5章 ルソー――その社会批判
第6章 ルソー――その改革案
第7章 ルソーの弟子たち
第8章 マブリ
(当引用)
第9章 百科全書派と哲学者
第10章 重農学派とその論敵
第11章 18世紀における社会主義と博愛主義
第12章 社会主義と文学
第13章 社会主義と文学(つづき)
第14章 社会主義と刑事法規の改正問題
第15章 革命直前の文献に見る社会主義
むすび



アンドレ・リシュタンベルジェ  Andre Lichtenberger

18世紀社会主義 Le Socialisme au 18e siecle (1895) 
野沢 協 訳 1981年/法政大学出版局

第8章 マブリ

 18世紀の社会主義者の中でも、ガブリエル・ボノ・ド・マブリ師は、レーナルやランゲとともに、時の作用からもっとも不利益を蒙った人である。今日ではかろうじてユートピストとして名をあげられるか、歴史家として侮蔑の的になるぐらいだが、18世紀にはもっとも高名な作家の1人だった。
 マブリに好意的でなかった批評家でも、彼のことはしょっちゅう敬意をこめて語っていた。グリムの「文芸通信」はマブリは理路整然として大胆だと言っているし、マブリの讃辞が2篇発表された時は、自らその1篇を掲載した。公正で多分に控え目なその讃辞は、ユヴェナリスの次の一句――それはマブリの或る肖像の下に刻まれていたものだった――をマブリに当てはめていた。

  激シク不羈ナル自由ノ教師ナリ

 もっとも、マブリの文章は「熱がなくて無味乾燥で生硬だ」と「文芸通信」はしばしばやっつけている。「これはいささか退屈な作家だ。」往々にして独創などほとんどなく、ほぼ例外なしに奇妙なほど非現実的だ。ヴォルテールはマブリの処女作を「才気に充ちた、モンテスキューの庶子にふさわしいもの」と言ったが、その後は遠慮なしに彼を馬鹿にした。特に、マブリは売文屋のクレマンを庇護しているとダランベールに教えられてからはそうだった。バショーモンはかなり好意的だった。ルソーのマブリ評はすでに見たとおりである。
 しかし、もっと熱烈にマブリを崇拝する者もいた。称讃演説のほめ言葉は割り引きしなければならないとしても、熱狂的な信者がいたことは明らかである。マブリをあらゆる点で崇拝するわけではなく、その経済学説には同調しないレヴェークも、ルソーとマブリをほぼ同列に置き、この二人はしばしば比較されると言っている。レヴェーク以上にマブリに惚れこんだブリザールは、彼の輝かしい肩書を得々として列挙する。「一介の目立たぬ市民の名が、いまだに自由に憧れる、または自由を失うのを恐れるすべての国家と結びついているというのは、注目すべきことであります。ベルンはこの人の格率を採用しました。ポーランドはこの人に法を求めました。コルシカはこの人の知識を必要としました。ジュネーヴはこの人から圧制を防止できる助言を得、アメリカの賢明な士はこの人の賛同を懇請しました。徳と結びついた才能の支配力と魅力はかくも強いのです。」だから、セナック・ド・メヤンのように、革命前には「文体が鈍重な彼の著作ははやらなかった」などと言うのは正確でない。しかし、革命期にマブリがたいへんもてはやされたのは事実である。それについてはゲリエ氏が多くの証言を集めている。そこで念頭に置かれていたのは概して政治思想で、マブリの共産主義ではなかったが、とにかくそうした証言から明らかなのは、この作家が読まれ尊敬されていたこと、その思想が反響を呼びおこしたこと、それゆえに私たちが足を止めるに値するということである。
 彼の理論の厳しさはその性格のいかめしさの反映である。曲ったことが何より嫌いで正直の塊のような人、見るからに誇り高く、陰気でいささか四角ばっており、ふだんは感情を面に表さないが、関心の強い問題では時に熱狂的な態度を示す人――マブリはそういう人物として私たちの目に映る。聖職者として出世することもできたはずだが、副助祭になったきりで、彼は宗門での栄達を自ら拒んだ。国事にもたずさわりながら、結局はパトロンのタンサン枢機卿と喧嘩して――枢機卿はマブリの見るところ、政治家というよりはむしろカトリックの僧侶だった――以後は公的な舞台から身をひいた。おそらくそういうところから近代政治に対する一種の嫌悪が生まれたのであろう。当代の人と物を評価する際のあの辛辣さもそこから来る。自由と平等を愛するマブリは古代の研究に没頭した。古代の著作家と親しくつきあう中で、自己を導く反近代的ないかめしい原理をうちかためた。彼の初期の著作には古代の政体に対する讃嘆の念が表われている。マブリは全生涯を研究に捧げた。王太子に政治学の講義をするのもことわり、リシュリューの称讃演説をさせられるからといってアカデミー入りも辞退し、ただ数人の友人に囲まれながら、目立たぬ形で多くの善をなし、外目には尊大な、いささかとりすました態度をとりつづけた。自分の本が攻撃されても、けっして応戦しなかった。自由と平等と道徳への愛が唯一の情熱だったのである。個人からももろもろの国民からも崇拝され、その隠れ家を訪れる人は絶えなかったが、マブリはただ助言するだけで、いつも気位が高く、自分から乗りだすことはなかった。どんな党派にも属さず孤高を持したこの人の態度は、時に滑稽な感じがしなくもないが、それはそれで威厳に充ちたものだった。文体の魅力はないとしても、とにかく誇張のない文章でマブリは50年間書きつづけた。この一風変わった人物こそ、モレリ、ルソーについで18世紀の道徳的社会主義者の最大の大物なのである。


1 社会批判

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