リシュタンベルジェ「18世紀社会主義」〜「マブリ」

1. 社会批判
 
 他の道徳的社会主義者と同じく、マブリにとっても政治は道徳に属している。いやむしろ政治と道徳は同じものである。当時の人はみなそうだが、マブリも個人の利益を真の道徳の土台として認める。マブリがめざすのは――モレリもそうだったが――立法によって人間を有徳にし、ひいては社会を繁栄させることだ。つまり彼の社会主義は、何よりも人間の徳と幸福を保証する道徳学説なのである。だから、その道徳原理、とりわけ情念論を簡単に紹介しておかなくてはならない。
 人は幸福を欲する。自然は人間にこう叫ぶ。「あなたがたは自分の幸福に努めるように作られています。自分の幸福をすべてに優先させるべきです。それこそあなたがたのルール、羅針盤です。」(「道徳原理」)人間は一人で幸福になれるのだったら、自分のことだけ考えていればよかろう。しかし、自分のありかたをしらべてみると、一人一人が他人とつながっていることに気がつく。すべての人間が平等の権利を持つことは明らかだ。この強いられた相互関係から、互に助けあう必要が生じる。「こういう永続的な同盟条約を自然は必要ならしめました。私たちを一つに集めて社会を作ろうとしたからです。この条約は社会の全体的な幸福と各市民の個人的な幸福を結びつけ統一し一体化するわけですから、すべての人間がそれを細心に守らなければなりません。」(「道徳原理」)そこから道徳と政治の規則が引き出される。エゴイズムに走らせかねぬ人間内部のあらゆるものを警戒し、人を良俗と徳へ導くため全力をあげねばならない。自分の幸福を助けうる者と見るかぎり、もともと人は他人に好意を持つものである。その気持ちをいっそう嵩じさせねばならない。最良の徳は明らかに社会にもっとも有益な徳であるが、自然が人を社会のためにうまく按配したことは間違いない。「自然の単純な欲求は私たちをみな相互に近づけます。、、、自然は地上に十分な財貨をばらまいているので、それを或る程度平等に分けあって悪用しないという知恵があったら、私たちはみなひとしく幸福になれるはずです。」(「道徳原理」)自然のもくろみに近づけば近づくほど、つまり、一方では社会的な徳を伸ばし、他方では情念の統御と抑制に心がければ心がけるほど、立法はますます賢明になる。
 「フォシオン対談」でフォシオン(マブリは、アテナイの病が経験医家ふうのしかたで扱われ、人間の幸福が結びついている確固不動の原理が研究されないのを嘆いている。人間の幸福を政治の便法の内に求める者は、コリントスがどこにあるかわからず、そのすぐそばにいながら、わざわざ極北へまで探しにゆく旅人に似ている。実をいうと、人間の不幸は情念から来るのである。情念に支配されるからこそ、人間は公共の利益や、理性が愛せよと命じる徳を忘れてしまうのだ。情念を緩和し統御することが政治家の目的でなければならぬ。情念は移り気で盲目だから、幸福を与えることはできない。「政治は私たちに徳を愛させねばならないこと、これこそ立法者も法も為政者もめざさねばならぬ唯一の目的であることは確かではありませんか。」(「フォシオン対談」)国民の幸福は常に習俗の醇良さに比例する。政治家は人間の間で摂理の代行者・協働者であらねばならない。家庭的な徳を花咲かせ、何よりも正義と慎慮と勇気を市民の内に強めることに努めねばならない。それらの徳を容易にするため、節制、勤労意欲、名誉心、神々への尊敬という補助的とも言える四つの徳を実行させねばならない。祖国愛はそこから自然に生まれる。もっとも、祖国愛は人類愛に従属せねばならないが。
 そういう徳を生じさせれば、情念から毒性を奪うという大きな義務を社会は果たしたことになる。情念は人間性に固有のものだから、良い情念も悪い情念もなくすことはできない。情念の中には偉大な徳をなすものもあるが、低級な性向や物質的な情念は悪いもので、危険をともなう。あらゆる情念は善への刺激となりうるが、往々にして悪へいざなう。哲学者は情念を十分警戒せねばならない。慎重に扱って、必要に応じ抑制したりかきたてたりせねばならない。自然の手から出てきた時には、人間もものの限度をわきまえていたから、本能に身を任せてもさしつかえなかった。だが今では、徳と幸福への道を開こうと思ったら、道徳によって人間の欲求をへらさねばならぬ、と理性は賢者に教えるのである。欲求がへれば、理性はもっと自由になって、おのずから善の方へと向かうだろう。今は人間の調子が狂っており、とかく低級な悪徳が支配している。欲求は増し、人間の理性は自然のもくろみからますます離れて、新たな誤謬に陥っている。
 多産な徳があるように、多産な悪徳もある。その筆頭は、全般的な腐敗を招いた金銭欲である。情念はほとんどみな金がなければ充たされない。だから、「いつでも貪欲の旗をかかげて進む気でいる。、、、貪欲な人間には祖国も親も友もない。富はあらゆる悪徳の中でいちばん怯惰な欠乏感、ないしは奢侈を生みだす。奢侈は金持に貧乏人の悪徳のすべてを与え、貧乏人には、犯罪または人の品位をもっとも落とす陋劣な振舞によってしか充たされぬ渇望を与える。快楽が奢侈に続き、金持の心を柔弱にし無気力にして、高潔な努力を一切不可能にする一方、民衆を窮乏に突き落として、獰猛ないし愚鈍にしてしまう。」(「美について」)
 この悪徳はどうやって成長したのか。その有害な結果は何か。マブリはそれを存分に説明している。彼の十八番なのである。
 人間に生まれつきあるエゴイズムによって貪欲が成長したのは、富を得ることが許されるようになってから、幸福と他人の尊敬が富に左右されるように見えだしてからだ。自己愛は人間に生まれつきある感情の一つで、社会にとってもきわめて有益な各種の感情を生みだせたが、富の蓄積に向けられるのを放置しておくと、それがいつしか貪欲に変わり、人間が初源的な平等状態から不平等状態へ移るにつれてますます増大していった。
 「考えれば考えるほど私は確信させられます。財産と身分の不平等が人間をいわば腐敗させ、人の心の自然な感情を変質させてゆくことを。」(「立法論」)不平等は平等状態では存在しえない無用な欲求や余計な欲望を生みだす。それは野心に向って心の門を開き、徳よりも無益なものを好むように教える。平等状態ならば、悪弊を防止し法を強固に確立するのも容易であろう。「平等はすべての善を生みだすはずです。人々を結びつけ、その心を高め、好意と友情という相互的な感情を教えこむものですから。私はそこから、不平等がすべての悪を生みだすのだと結論します。それは人々を堕落させ、卑しめ、相互の間に分裂と憎悪の種を播くからです。」(「立法論」)自然は万人に同じ欲求を与え、共同のものとして財貨を提供していたから、平等は明らかに自然が望んだものだった。人間が社会の幸福たるべきものから逸脱したのも、自然が悪いのではなくて、政治と法が悪いのである。マブリは不平等につきしたがう邪曲の列を詳細に叙述する。いわく金持の怠惰、貧乏人の卑屈、野心、羨望、等々。金持は権力を握ろうとする。貧乏人が抵抗できれば内乱が起こり、屈服すれば貴族制がうちたてられる。貴族制は寡頭制に変じ、最後は専制君主制になる。物乞いがはびこる。個人と同じく国家も貪欲だから、互に戦争をする。そういう不幸はみな、幸福が富の所有と結びつけられ、幸福は私たちをとりまく事物の内にあるよりもむしろ私たちの内部にあり、個人の幸福も国の幸福も良き道徳と結びついていることが忘れられたからである。革命があいついで起こったけれども、政治家は自分の誤りを認めなかった。私たちの理性は自然からますますそれ、個人の必要がどんどんふえて国家の必要と別なものになり、情念も拘束されなくなった。快楽を買いたがる金持がいると同時に、才覚を売らざるをえない貧乏人がおり、裕福になりたいという情熱が心中でますます大きな位置を占め、正義をのこらず圧殺してしまった。最低の情念が「酷薄で卑劣で品位を落とす性格」(「道徳原理」)をいたるところに刻印する。富というものは、それを軽蔑することを知っている賢者にとっては善でも悪でもないけれども、悪しき情念をかきたてるから、社会にとってはいつも危険なものである。富裕も貧乏もともに有害だ。「両極端のどちらでも、慎重で公正で節制を守り限度をわきまえることは同じようにむずかしいのです。ほとんど不可能なのです。」(「道徳原理」)こうして世界は今のようになってしまった。つまり、少数の金持が無数の貧乏人を苦しめて得意になっている戦場と化してしまった。 つきつめて言うと、不平等と貪欲に成長の可能性を与えたのは明らかに個人所有である。果たして、マブリはそれに厳しい批判を浴びせる。
 架空の対談でスタナップはマブリに言う。「人類を苦しめるすべての不幸の主な源はなんでしょうか。それは財貨の所有です。」(「市民の権利・義務について」)社会が所有制度を設けたのは正しいことではあった。「自然状態ですら、所有は確立されていました。人間が当時、自分で建てた小屋や栽培した木の実を自分のものとみなす権利があったことは、誰にも否定できません。」(「市民の権利・義務について」)いくつもの家が集まって社会を作った時、各家がそれぞれ財産を保有し、畑を互に分けあうのを妨げるものはなかった。自然状態から結果する無秩序は皆よく知っていたが、分割から生まれる悪は予測できなかったのである。「しかし、パンドラの魔の匣からとびだした無数の悪を目にしている私たちは、希望の光が少しでも理性を照らすなら、あのしあわせな財貨の共有を憧れるべきではないでしょうか。共有は詩人たちがおおいにたたえ、おおいに惜しみ、リュクルゴスがラケダイモンで制度化し、プラトンがその共和国でよみがえらそうとしたものですが、私たちの習俗の頽廃によって、この世界ではもはや一つの空想にしかすぎなくなっています。」(「市民の権利・義務について」)
 しかし、マブリが重農学派の所有理論を攻撃し共有の利点を対置したのは、とりわけ「経済哲学者らに提示する疑念」でだった。動産や土地の所有がどうして身体の所有と緊密に結びつくのか、どうしてそれらが一体となり社会の自然的・本質的秩序を作るのか、わからない、とマブリは言う。多くの国では土地所有などないが、それでも国は存立している。スパルタ人は所有者ではなかった。パラグアイのインディオもそうだ。「国家がすべてのものの所有者で、個人に必要なものを分配します。正直に言って、こういう政治経済学が今でも私に好ましく思われるのは、わが哲学者たちが土地所有について書いたものを読まなかった場合と変わりありません。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)勤労意欲を起こさせるのは所有だけだと言われる。しかしインディオは単なる労働者だが、実によく仕事をする。所有はこの世に無為徒食を導きいれた。勤労への刺激として奢侈が必要ではなかったのだ。人にぬきんで、人の尊敬を得たいという気持ちも、貪欲と同程度に人を刺激し、「社会の共同の資産を各個人に大事なものと思わせるはずです。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)実際は逆に、不平等から生じるさまざまな悪徳が見られる。土地所有が原因であることは疑いない。「私たちは、自分の存在の作り主が置かなかった場所に幸福を探したため、ばちが当たったわけです。」(「経済哲学者らに提示する疑念)
 「財貨の共有というあの快い観念」(「経済哲学者らに提示する疑念」)が彼を魅了する。個人所有制が富の産出を増すかどうかということすらどうでもいい。幸福は重農学派が言うように潤沢の内にあるのではなく、徳の内にあるのだから。社会の自然な秩序は重農学派が説く秩序とはまさに正反対である。自然はいろんなしかたで私たちにこう言う。「お前たちはみな私の子だ。私はお前たちをみな平等に愛している。、、、土地の全部がお前たち一人一人の資産なのだ。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)哲学も私たちに同じことを言うべきではないか。「財貨の共有をうちたてなさい。そうすれば、身分の平等をうちたて、その二つの土台の上に人々の幸福を築くのも易々たることです。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)平等がたえずこわされがちなことは事実だが、政治の義務は共有を維持し、少なくとも土地制限法を制定して、平等がこわれるのを、防ぐことにあった。
身体の所有や動産の所有は自分で暮らしを立てる権利にほかならないから正当だが、土地所有権がそこから必ず生じるというのは間違いだ。最初の人間の立場に身を置いてみても、「土地所有という考えを起こさせるものは何も発見できないようです。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)共有の方に考えが向かうのがずっと自然だったにちがいない。「土地所有という考えが最初に浮かんだのは、自分では苦労せずに他人の犠牲で生活しようとして少数のすずめ蜂のような連中――その連中には勤労を愛させることができなかったわけです――の怠惰のせいにすぎないというのが、かなり本当らしく思えるのですが。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)
 収穫の安全を得させる人にその代価を払うこと、為政者が耕作者や地主と生産物を分けあうことが必要だと言われる。「自然の本質的な秩序のかわりに、ここでは貪欲と強欲と愚かさの自然な秩序しか与えられないのではないかと心配になります。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)為政者に払うべきものは敬意だけである。敬意だけでは足りず、報酬を求めるようになったら、すでに国家の必要という名のもとに個人的な貪欲が働きはじめているのだ。
 重農学派が言うように、人間の精神には自然な秩序をうちたてようとする傾向がもともとあるというのは間違いだ。共有の秩序こそ本当の秩序であるが、それも現在、闇にとざされた精神にはいかなる感化も与えられまい。往々にして相矛盾する直接的な利害が精神を導くからである。「何も持たない人々に、つまり最大多数の市民たちに、可能な最大量の快楽と幸福を見いだせるような秩序の内に自分が明証的にいるなどとどうして思わせられましょう。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)貧富の必然性を認めたとしても、「私がつまらない貧乏人の役をさせられ、ほかの者がなぜかわからないのに金持という大役を演じることに、どうして満足しろと言うのですか。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)直接的な利益と苦しみは、重農学派が説く明証性よりも声高だ。重農学派は人間を、或る時は飼育すべき動物のように考え、或る時は明証性の力に抗しえぬ天使のように考えているが、それはどうかしている。人間は情念に動かされる知性的な存在にすぎない。情念を考慮にいれ、情念から身を守らねばならない。自分の利益にかなうものを誰でも明証的と考えるから、明証性など往々にして空語にすぎない。メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは正しい法が必要だと言う。それは結構だ。しかし、所有を認めて自然の道からそれた上で、どうして正しい法を作れるのか。そのように情念がかきたてられた社会を幸福にする力など、どんな統治にもありはすまい。財貨が共有なら、公共の福祉は個人の福祉と区別されない。しかし、ひとたび土地所有が生じるや、各市民はそれぞれ個別の利益を持ち、自分に都合のいい不正な法を好むようになる。為政者も自ら個人として不正な法を作るだろう。したがって、立法権が課せられた限界を踏みこえるのを防ぐ唯一無謬の手段は、「財貨の共有と身分の平等をうちたてることです。全体の利益を常にうちまかす個人の利益をぶちこわすには、そうするほかないのですから。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)
 重農学派は多数決制を悪いと考えるが、それが悪いのは土地所有が私利私欲を生みだしたからにすぎない。つまり、私たちが多数決制を誤らしたのである。それさえなければ、多数決制は最善の結果を生むだろう。全体の意志を真に表現するはずであるから。多数決制より古い誤りから来る悪弊を多数決制のせいにしてはならない。重農学派は多数決制を批判するより、情念と闘う方法を教えて、私たちがその制度の恩恵を受けられるようにしたほうがよかったろう。社会の病弊をいやせるのは「法の専制」ではなくて、むしろ緩和された統治である。そのほうが本質的に、情念を弱め所有から生まれた諸悪をへらすには適しているから。
 こういう格率は「疑念」で述べられてから、さらに「立法論」で詳細かつ精力的に再説される。所有を安泰ならしめるために社 が作られたというのは間違いだ。社会が生まれたのは、人間が社会的な動物だからである。所有が生じる前から社会が存在していたことはごく容易に理解できる。当時の社会はいくつかのクラスに分かれていた。いちばん体力のある者が土地を耕し、他の者は必要な技術に従事していた。品物は公営貯蔵庫に納められ、為政者が習俗に目を光らせていた。所有が確立されたのは、たぶん、一部の人間が怠け者で他人の労働によって生活したり、為政者が最大の分け前を取ったりしたところから来たのであろう。瞬間的な怒りにまかせて所有制度を設けたが、そこから生じる不都合は予測できなかったのだ。こうして不和と不平等が地上に永続化した。有徳で一体となった小社会のかわりに、複雑な法と憎しみをともなう大社会が現出した。「所有は私たちを金持と貧乏人という二つの階級に分けます。金持は自分の家の不幸をいつも国家の不幸より優先させるでしょう。貧乏人は自分が不幸であるのを許している統治や法をけっして愛さないでしょう。」(「立法論」)
 不平等の必然的な結果たる奢侈は、マブリのもっとも激しい糾弾の的だった。奢侈は民の窮乏の証拠であり、国の衰退の前兆である。16世紀以来、奢侈が広まったことは大きな不幸だ。「みな遊惰と虚栄から来る必要をふやすことで、自分の幸福を増せると思った。、、、私たちの快楽と便益を作るために働く人が多いほど、私たちがますます幸福でなくなることがつかないとは、なんという無分別であろう」(「フランス史考」)しかし、金が全能な近代国家ですら、奢侈がもたらす金は奢侈が導入する悪しき習俗を相殺できない。奢侈は労賃を釣り上げ、したがって商品の値段を釣り上げるから、商業国でも奢侈を追放せねばならない。奢侈は必要を増大させて、金持をすら貧しくする。貿易を是が非でも伸ばそうと思うべきではない。貿易から生まれる享楽や奢侈は、本当は人々の幸福にならないからだ。「各民族が自分の国でとれる財貨に満足して、いわば自然の必要以外には何も感じない時代があった。貿易は習俗のこういう幸多き素朴さをなくしてしまった。」(「フランス史考」)貧しい民族がいつでも富んだ民族を負かしてきたから、金こそ大国の原動力だなどと私たちが言うのを聞くと、古代の諸国はいずれも眉をひそめるだろう。「貿易とは、自分の手で自分をこわす怪物のようなものである。」(「フランス史考」)奢侈から貧乏へのたえまない変動ほど、国家を疲弊させるものはない。そういう状態こそ有利だと政治家が考えたのは、何よりも有害な間違いだ。その反面、国内の商業は有益なのに、富の総量をふやさないからなおざりにされた。農業から生じるような商業は称讃すべきものである。では、製造業はどうか。「そこに雇われる労働者は卑しい人間だ」(「フランス史考」)、とマブリは断じる。工業については古代的な観念しか持たないのである。われわれのような国でも、海外貿易は奢侈を助長するならまったくの悪となる。それが真理なのに、残念ながら「貪欲はヨーロッパに、こわすのがあまりにむずかしいかずかずの偏見を与えてしまった。」(「フランス史考」)今日ではあらゆる富が少数者の手に集められ、ほかの者は才覚によって生きるだけで、皆が皆相反する利害を持っている。遊び暮らす金持が飢えた多数者を搾取する図しか見られない。その多数者の境遇はまったくひどいものだ。近代の労働者の状態は奴隷より劣る、隷属の度合も甲乙ない――そんなふうに考えたのはおそらくマブリが最初であろう。「各ヨーロッパ人が享受するつもりの自由とは、新しい主人をいただくために今までの鎖を断ち切る力にほかならない。そこでは欠乏が奴隷を作りだすが、いかなる法も生活の資を供給してくれないから、その奴隷はいっそう不幸だ。、、、古代の人は奴隷の暴君だった。しかし、主人と奴隷の間に法を設けることは不可能だろうか。市民が他の市民を雇って自分に仕えさせ、もっとも卑しい、人間にはもっとも耐えがたい仕事をさせるような国で、すべての者が自由だなどと称するのは、理性を愚弄するものではないか。」(「フランス史考」)
 ごらんのとおり、社会と所有に対するマブリの批判はモレリの批判とよく似ている。モレリより詳細で多くの紙数を費しているが、違いはほとんど文明への対しかた一点にすぎない。モレリのほうは文明に対してそれほど敵対的でないからである。人間は生まれつき社会への資質を持つ。政治の目的は人間を幸福つまり有徳にすること、そのために自分個人の利益と他の人々の全体的な利益を一体化させることにある。政治は人間の情念に細かく目を光らせ、個人の利益をまず考えるような情念を抑止せねばならない。欲求が少ししかなく、所有など全然なかった自然状態では、それは容易なことだった。致命的な誤りは土地所有が生じたことだ。土地所有は生まれたばかりの貪欲のしわざだが、それがまた貪欲の成長を促した。この情念は解き放たれて、他のもろもろの情念を過度にかきたてた。こんなになった人間が住む近代国家という場所では、醇風美俗の存続などもうありえない。だからどうしても不幸が地を被うことになる。所有とともに富の不平等が生まれ、利害の対立が生じ、競争が起こり、法律がいたずらにふえ、社会は敵対する二つの階級に分裂した。所有から生まれた諸悪はかくのごときものなのである。

 

「18世紀社会主義」扉

2 改革プラン(前)

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