リシュタンベルジェ「18世紀社会主義」〜「マブリ」

2. 改革プラン(前半)

 こういう状態をどうやって改めるのか。もちろん、政治家たちがうちたてた誤りを棄て、自然が私たちの行手に置いた道徳的で社会的な状態に接近すべく努めることだ。
 だが、 改革は可能だろうか。明るい人でないマブリは往々にしてそれを疑う。もしかすると、「人間はあまりに堕落しているので、賢明な政治などありえない」(「アポロンの神託」)かもしれない。ヨーロッパのすべての国を通覧して、改革が成る可能性に彼は疑問を呈している。とりわけフランスについては暗黒のペシミズムを表明する。予想外な事でも起こらないかぎり、この国は「衰退・悲惨・沈滞の状態に陥るだろう。市民が公事に関心を持つのを妨げるような社会は、最後にはみなそうなるのだ。」マブリはしまいにこう叫ぶ。「私はこんな国の相手をするのに疲れてしまった。この国はどうしようもない。大臣どもが最低なのも、この国の無分別と軽率の報いだ。」(「フランス史考」)
 にもかかわらず、 彼は多少の希望を持ちつづける。「貧欲を規制する私の法があなたの言われるほど無益でなくなるような情況もありえます。」(「立法論」)そしてマブリは、多くの民族が有益な機会をつかまえてしあわせな革命をなしとげたたくさんの例をあげ、これからもそういうチャンスが利用される可能性はあるはずだと言う。
 その場合には、すべての市民が行動の権利を持つ。社会によって自己の立場が自然状態より有利になることを要求する権利は誰にでもあるからだ。法律が不合理なら、そのくびきから脱することは正当である。手足の切断と同じく、内乱も善でありうる。「内乱をいつでも正しくないと考える、、、のは、良俗にも公共の福祉にももっとも反する学説です。」国民主権は現状を変える権利を含意する。反撃するには、暴政がぎりぎりの限界に達するまで待つ必要はない。人間が作った法を検討し、それの廃止を求める権利は誰にでもある。マブリは最後に叫ぶのである。「革命と隷属のどちらかをお選びなさい。中間はありません。」
 マブリがなんら革命を ― 暴力革命すら ― いとわなかったのは、ここからも明らかである。だが概して言えば、革命を勧めるようなことはしていない。必要なのは一歩ずつ変革をなしとげることだ。彼はしばしば、「ゆっくり段階的に善をなし、気長に行かざるをえない距離を一足とびに超えない術」(「フランス史考」)を説いている。ポーランド人に与える助言もほぼ全部いたって穏健なものである。「悪しき統治を改革する場合、できるかぎりの善をなすのにたぶん必要なのは、あまり高度な完全性をめざさないことであろう。」(「ポーランドの統治と法について」)悪弊と闘う時にも手加減をし、或る悪弊をうちまかすため別の悪弊を黙認することもしなければならない。特に、いつでもつとめて悪の根源にまでさかのぼらねばならない。「ポーランドは傷だらけの体のようなものである。だが、恐れをなすには及ばない。全部の血を浄化し一新すれば、そういう傷口もいわばひとりでにふさがるだろう。期して待つべきである。」(「ポーランドの統治と法について」)リュクルゴスはスパルタで一足とびの革命に成功したが、それはスパルタが小国だったからである。またリュクルゴルだったからである。
 幸福は徳にもとづくから、良き立法者は何よりも道徳家でなければならない。良俗の回復という目的からあらゆる施策を発想せねばならない。人間の初源的な本性と運命がいかなるものであったかを思いおこし、その後に生じたすべての変化を見すえ、穏やかに、「友人が友人を矯め直す」(「立法論」)ようなやりかたをする。危険きわまる情念はなくし、その他の情念はたわめるように努める。敵が強すぎれば策略を使い、付随する細かな悪徳を攻撃する。徳の支配を一挙にうちたてることなど考えられない場合もある。そういう時は、いちばん手近にありそうな徳を伸ばすことから始める。必要とあらば情念と情念を、悪徳と悪徳をまず闘わせる。いずれにしろ、よほど慎重にやらなくてはならない。目標は遠く、道は長い。しかし、とにかくそういう精神で行動し、貧欲という「所有が与えた第一の情念」とまず闘うのだ。
 道徳化という一般的な精神は示されたが、その上で、立法者はどうすべきか。
 めざすべき理想は明らかに共有状態である。それは詩人が描く黄金時代よりずっと前の原始社会の状態だった。スタナップは模範的な国家を夢見て楽しむ時、舞台をとある無人島に置く。そこに居をかまえ、国家を作るわけである。その国の第一のきまりは、財産として何かを持つのはなんぴとにも許されないということだ。共有状態は疑いもなくいちばん完全な状態である。プラトンは一つだけ国家論で間違いを犯した。普通の市民に所有を許したことである。この誤りは国家に混乱をもたらしたろう。立法者は共有の制定を命じるべきか。私たちの理性を偏見から解き放てるなら、むろんそうすべきだろう。だが、ここまで来て、今さら後もどりできるだろうか。マブリは首をひねって、そんな期待は持てないと言う。共有の利点を示すのは、「財産を棄てて自然の道に立ちかえれと言うためではなく」(「経済哲学者らに提示する疑念」)、私たちを苦しめる諸悪の根源を指摘するためにすぎない。「今日では、人間のいかなる力をもってしても、なくそうとする混乱よりもっと大きな混乱をひきおこさずに平等の回復をはかることはできないでしょう。」(「経済哲学者らに提示する疑念」)だから、マブリの言う共有状態は社会の今の諸悪を改めるための政体の模範とはならない。それはルソーの自然状態と同じくはるか彼方の理想であって、立法者はそこから発想を汲み出すのである。
 実践的な射程からそれほど遠くないのは、古代共和国の実例と古代の著作家たちの研究である。マブリの好みの思想を実行したのはそういう政治家、とりわけリュクルゴスだ。マブリの著作にはリュクルゴスの名がたえず出てくる。「彼はいわば市民の心の底まで下りていった。」(「ギリシャ史考」)「リュクルゴスは自然のもくろみをもっともよく知り、市民たちがそれからはずれぬようにもっとも有効な措置を講じた。」(「美について」)それは「一種の奇蹟によって、哲学者の明知と賢者の徳と王侯の家門を一つに集めた人だった。、、、天地創造以来、おそらくリュクルゴスは世界に四人といなかったろう。」(「理性の発展、進歩、限界について」)シャルルマーニュをほめる時も、マブリは格式をつけるためあえてリュクルゴスになぞらえる。ポーランド人やアメリカ人に語る時も、たえずリュクルゴスの名を口にする。好みの国は頭に描いたスパルタ、立法者が道徳的な意図と人の心の洞察に導かれ、所有権を個人から奪って国家へ移し、平等をうちたて、芸術と奢侈を追放し、個人のイニシアティブのかわりに共同精神を置いた国だ。マブリはできればそういう国で暮らしたいと思った。「スパルタに生まれていたら、私は何かになれたと思う」などと言っている。
 マブリが好きな作家はプラトンである。「この人は人間の理性の力、情念の力を測っていました。悪徳の発生や、すべての悪徳を互につなぐ宿命的な鎖を知っていました。たぶんこの人だったら、お国<アメリカ>の辺境をうろつくあの未開人のほうが、商業を伸ばし富を愛する民族より良き文明の原理に近いと言いきる勇気があったでしょう。」(「アメリカ合衆国の統治と法の考察」)マブリはたえずプラトンから想を得ている。往々にして「彼の本はプラトンの国家論のパラフレーズにすぎない。」(エスピナス「経済学説史」1891年)
 彼の共感はすべて、素朴と一定の貧しさが支配する国に向けられる。スイスが気に入るのも奢侈禁止法と財産の相対的な平等のせいだ。マブリはスエーデンに感心し、その国の政体や奢侈禁止法、貧困者のための施策などをすばらしいと思う。「この国はその叡智で今後も北方を支配するだろう。その勇気でかつて覇をとなえたように。」悲観的ではあるけれども、彼はしばしばアメリカの各共和国<州>に讃辞を呈する。主権在民を唱えたことも一つの理由だ。あいにく、それらの共和国の性格は貧欲が根底とならざるをえない。もともと貧欲ゆえに蜂起したのだから。今後にとっても、それはよくない徴候である。
 真の道徳の知識に導かれ、多幸な共有状態の記憶を胸に、古代共和国や比較的堕落の少ない近代国家の実例を目の前に置きつつ、立法者は何よりも貧欲から生まれた情念を消すこと、それにより財産の不平等をへらすことを考えねばならない。
 「法の賢さを判定する間違いない検査法があります。提案されたその法が市民の間の平等を増すかどうか考えてみることです。そういう効果を生めるのだったら、ためらうことなく、非常に良いものと判定すべきです。必ず多くの悪弊を正し、多くの利益を与えるでしょう。」(「立法論」)かといって、所持する財貨を剥奪し、財産を勝手に処分せよというのではない。貧欲とは闘わなければならないが、力ずくではなく、計略を使うべきだ。所有がひとたび確立されたら、「それを秩序と平和と公安の礎石とみなさねば」(「立法論」)ならない。所有権が侵された古代の共和国は、いずれも不幸で騒ぎが絶えなかった。所有権が尊重されない君主国も、とかく暴動と惨禍に見舞われる。「当初は、財貨の共有をこわすような法はみな悪でした。でも、今では逆に、所有権をわずかでも傷つけるなんらかの手段ないし口実を情念から奪うような法は、みな賢明なものです。」(「立法論」)だから立法者は、人情をわきまえた穏やかなしかたで平等へ向って進む公平な法律を作り、必要とあらば、わずかなものに甘んじることも覚悟せねばならない。完全な国家を作ろうと試みるべきではない。かりに、金持が甘んじて財産を剥奪されても、平等を存続させるに必要な有徳な感情は貧乏人にもないだろう。未開人なら、てんから無知で悪徳など持たないから、私たちよりは良き立法を受け入れる素地があろう。彼らの間には、穀物が公営貯蔵庫に納められる部族もある。「財貨の共有をうちたてるには絶好の条件です。プラトンが共和国を建設できるのはオハイオ川かミシシッピ川の岸辺でしょう。」(「立法論」)だが私たちは、共有からもはやあまりに離れてしまっている。今さらそこへ戻るわけにはいかない。水先案内人は嵐で航路からはずれても、せめてできるだけもとのルートへ近づこうと必死の努力をするものだが、立法者もそうしなければならないのである。
 節欲と徳行の模範は上の者が与えなくてはならない。「政府が貧欲で私利を追求する度合が多いか少ないかによって、市民が富を重んじる度合もきまります。」(「立法権」)国家財政をまずへらさなければ、貧欲の力に法律で抵抗しても無駄だろう。「国家財政などできればなくしてほしい」(「ポーランドの統治と法について」)、とマブリはポーランド人に言う。顕職にある者は無給で公共の福祉に専念すべきである。名誉と光栄を愛する気持が金のかわりに報酬とならねばならぬ。国家債務は最大の悪を生み出してきた。「わずかな金で多くのことをするように努力しないと、やがて、多くの金でわずかなことしかやれなくなる。あるいは何もできなくなる。それは証明ずみのことだ。」(「ポーランドの統治と法について」)租税の徴収は簡単にし、仲介者を置かないようにしなければならない。金が余ったら、有益な事業に使うべきである。ためておくと金銭欲が刺激されるから。為政者が公正であるためには、国家の必要を少なくし、為政者自身もほかの市民と同じ必要しか感じないようにすることだ。スイスではそれがかなり成功している。「よそでは国家が市民を貧しくしますが、そこでは損をした市民を国家が助けにくるのです。」(「立法論」)国家が金を重んじないのを見て、市民もだんだんそうするようになるだろう。「貧しさは多くの徳、多くの法の代りになる。欲求がわずかで、命しか奪われるもののない人は、自由でありたいと思えばいつも自由である。」(「フランス史考」)昔から、貧しい民族が富んだ民族を負かしている。国家がめざすべき幸福は、もっぱら自然が提供する幸福、つまり中庸を得た状態なのだ。国家の歳入をふやすものはみな良くない。歳入がいるのなら、土地に対する直接税だけからなるようにすべきだ。「あらゆる租税は最後には地主にかかる」し、「自分の腕と労働と汗を国家へ犠牲として捧げたのに、何も所有していない土地を耕作または防衛して得た賃金の一部が、一種の手品で国家にまたまきあげられてしまうのは正しいことではありません。」(「立法論」)間接税には債務を隠しふやすという不都合がある。為政者の必要は国家の必要を増大させ、為政者の徳不徳は国民一般の徳不徳を決定するから、富が為政者たるものの資格であってはならないし、その職務も無給でなくてはならない。そうすれば、貧乏人が公職につきたがることもなくなる。国庫の豊かさが貧欲をかきたてないよう、たえず減税に努めねばならない。征服をめざす貧欲を根こそぎにして、自分の財貨に執着するという維持目的の貧欲だけを残しておくようにすべきである。
 あらゆる手をつくして、貧欲が一国に生まれ育つのを防がねばならない。「私が普通なみの財産で満足するように法律を按配なさい。富をたくわえる方法を私があれこれ考えるのがおいやなら、富が私の役に立たないようにしてください。」(「立法論」)絵画・彫刻など無用な芸術は追放される。奢侈禁止法は無限の幅を持たねばならない。「奢侈禁止法の利点を全部説明したらきりがないでしょう。それはあらゆるものに及ぶべきです。家具にも住居にも食事にも召使にも衣服にも。一部をなおざりにしたら、いずれ全部に拡がる悪弊に門戸を開くことになります。規則が厳しいほど、財産の不平等は危険でなくなります。」(「立法論」)マブリはスエーデンの奢侈禁止法をほめたたえ、とりわけポーランド人に推奨する。またアメリカ人にも。再組織されたフランスにも風紀取締官を置くといい。「その仕事は特に、あの法外な奢侈に歯止めをかけるため全国または地方の三部会が制定する奢侈禁止法を実施することにあります。」(「市民の権利・義務について」

 

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1 社会批判

改革プラン(後半)



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