ポーランド小史(18世紀を中心に) par如月

Histoire sommaire de la Pologne

 

1) 建国
2) モンゴル人の侵入
3) カジミェシュ大王
4) ハンガリー王による統治
5) リトアニアとの同君連合(ヤギェウォ朝による統治のはじまり)
6) ルブリンの合同
7) 国王選挙のはじまり
8) マグナート勢力の拡大
9) 大洪水
10) ポーランド継承戦争
11) バール連盟
12) ヴィエルホルスキ伯爵
13) 分割

 

1) 建国

 ポーランド民族は、1.現在のドイツとポーランド領にまたがるオードラ(オーデル)・ヴィスワ(ヴィストゥラ)河間地域、もしくは、2.黒海北方の西ウクライナまたはウクライナ全域――を現住地とするとみられるスラブ族の一支族で、10世紀ごろ、西隣の神聖ローマ帝国や南隣のボヘミア公国に影響されながら国家形成したものとみられる。 実在したことが確認できる最初のポーランド君主は、オードラ川の支流、ヴァルタ川流域のヴィエルコポルスカ(大ポーランド)を勢力範囲とするポラニ族のピャスト家のミェシュコ1世(在位960年頃−992年)で、その子ボレスワフ1世(在位992年−1025年)の時代には、近隣する他の西スラブ諸族の土地を併合したほか、東方のキエフまで侵略をすすめ、1025年ポーランド国王の称号を名乗った。 ポーランドにキリスト教の政治的影響がおよぶのもこの時期で、ミェシュコ1世は966年、キリスト教に帰依していたボヘミア公の妹を妻にむかえると同時に、自らも受洗している。ポーランド民族にキリスト教が本格的に広がるのは、12−13世紀ごろであるが、教会を中心とするカトリックの教義は、その後ポーランド国民の一体感の背景となり、18世紀の政治情勢にも大きな影をおとす。また同様の状態は、ある意味で社会主義体制崩壊後の現在まで続いているといえよう。

 

2)モンゴル人の侵入

 初期の国王による征服は長く続かず、また封建的分割相続の影響で、13世紀なかごろのポーランドは、約20の公国による実質的な分割支配のもと、モンゴル人の侵入をむかえた。 アジアからやってきたバツの率いるモンゴル軍は、1237年から1240年にかけてロシアを制圧し、当時黒海北岸からドナウ川下流地域を遊牧していたクマン人を西にはしらせた。つづいて、1241年には、このクマン人を受けいれたことを口実にポーランドに侵入、シロンスク(シュレジア)のレグニツァでポーランドとドイツの諸公軍を撃破、南方のモラヴィア、ハンガリーにまで軍をすすめ、東欧一帯を蹂躙した。モンゴル軍は1259年と1287年にも東ポーランドに侵入したが、分立状態にあった当時のポーランドは大きな抵抗を組織することができず、国土が荒廃した。
  しかし、この侵入を経て、13世紀末には国土再統一の動きが起こり、1320年、北ポーランドからでたヴワディスワフ1世(在位1306年−1333年)がポーランド統一を実現した。

 

3)カジミェシュ大王

 ヴワディスワフ1世を継いだカジミェシュ3世(在位1333年−1370年)の時代に、ポーランドは、つづく繁栄の基礎固めを行うこととなる。 カジミェシュ3世は、外交中心の平和政策で近隣諸国との国境や宗主権を確定、同時に国内統合をすすめた。 王はポーランドで従士制がすすむことや封建的階層ができることを警戒、すべてのシュラフタ(ポーランドの貴族階級:本来、士族、騎士としての役割をはたしていた)の法的平等を認めた。 またカジミェシュ3世は、重要な決定を行うにさいし、必ず王国官吏(大法官、元帥、財務長官)、諸地方の最高官(副王、城主)、および司教を集めて協議を行った。この集まりは、その後しばらくして「元老院」としての機能をはたすようになる。このほかしばしば、昔から各地方で開かれていたシュラフタの一般的集会である「地方議会(セイミク)」の意見も徴した。

 

4)ハンガリー王による統治

  カジミェシュ3世は男子の後継者をもたず、その死後、甥にあたるハンガリーのラヨシュ王がポーランドの王位についた(ルドヴィク1世;在位1370年−1382年)。しかしルドヴィク1世はポーランドを直接統治せず、ポーランド国内ではマグナート(シュラフタから分化した大貴族;広大な領地をもち、また領内に私軍までもつ小君主的存在であった)の力が伸張した。またマグナートは、ラヨシュ王が女系によるポーランド王位継承をのぞんだのに乗じ、1374年、コシツェの特許状を獲得した。この特許状は、ポーランド貴族を軍役と名目的なわずかの地租を除く一切の負担から解放し、これ以降の貴族特権拡大の端緒となった。

 

5)リトアニアとの同君連合(ヤギェウォ朝による統治のはじまり)

  ルドヴィク1世の死後2年を経た1384年、マグナートは、王の娘ヤドヴィガ(在位1384年−1399年)を女王にむかえた。またその2年後には、彼女を東隣の大国リトアニアの大公ヤガイラ(ヤギェウォ)と結婚させ、同君連合によって、両国の国境係争解決と、共通の敵となっていた北方のドイツ騎士団への対応強化を図った。
  リトアニアは、バルト系のリトアニア人が興した国だが、その国家形成はきわめて遅く、13世紀に最初の統一を実現、14世紀に首都のヴィルニュス(ヴィルノ)を建設した。その後リヴォニアとプロイセンのドイツ騎士団と戦いながら領土の拡大を続け、1363年には、キエフを含む後のウクライナの中央部を併せ、西ウクライナでもヴォリニアをおさえて西部国境でポーランドと対峙していた。 当時のリトアニアはキリスト教化が遅れており、ヤガイラ大公も異教を信奉していたが、ヤドヴィガとの結婚にあたってキリスト教(カトリック)の信仰を受けいれ、ヴワディスワフ2世(在位1386年−1434年)として、両国を統治することとなった。
 ヴワディスワフ2世は、即位 にさいして、ポーランド貴族にコシツェの特許状を確認したほか、その在位中、これを内容的にも適用範囲においても拡大した。 すなわち、1422年に貴族の土地所有権を保証し、1430年と1433年の法令で国王や官吏の恣意による投獄などの不安から解放した。ヴワディスワフ2世の死後、1454年にシュラフタは、ドイツ騎士団に対する遠征拒否を武器に、新たにニェシャヴァの特許状も獲得、これによって新たな課税、立法、動員に地方議会の了承を認めさせた。
  こうして15世紀にシュラフタの地位は非常に高まったが、1505年には、法令「ニヒル・ノヴィ」によって地方議会のメンバーから構成された国会下院の構成と権限が確認され、すべての重要な改革には元老院と下院からなる国会(セイム)の承認が必要なことが公式に認められた。都市はもともと地方議会から排除されていたが、国会でもわずかの議席しか認められなかった。また下院の役割が強まったことによって、王権とマグナートの権力は相対的に削減された。 これ以後16世紀から17世紀にかけて、ポーランド貴族は「黄金の自由」と「シュラフタ民主制」を内外に誇ることとなる。
  一方ヤギェウォ家の君公は、ポーランド国王とリトアニア大公を兼ねていただけでなく、一時的にではあるが、15世紀末から16世紀にかけてボヘミア(1471年−1526年)とハンガリー(1490年−1526年)の王位も獲得し、中・東欧の名家としてその名を高めた。しかしポーランドのみならず、いずれの国においても確固とした基盤をもたなかったことから統治の力は非常に弱かった。逆にいえば、こうした国王としての基盤の弱さが、東欧各国のマグナートに安心してヤギェウォ家の統治を選ばせたともいえよう。

 

6)ルブリンの合同

  16世紀にはいると、バルト海に拠点を求めるロシアの西方進出がようやく本格化するが、これに対する脅威などから、1569年、ポーランドとリトアニアは両国の国境に近いルブリンに合同国会を召集、以後両国は共通の君主と国会をもつ連合国家となることを宣した(それまではヤギェウォ家の君公のなかでもポーランド国王とは別の人物がリトアニア大公となることがあり、完全な同君連合ではなかった)。 これにより、リトアニア大公国は実質的にポーランド王国に吸収される。またこの合同以降、新たな連合国家は、内外に「共和国(ジェチ・ポスポリタ)」を名乗ることとなる。 合同後の国会は、シュラフタを代表する約140人の元老と170人の下院議員から構成され、そのうち48人をリトアニアの代表が占めた。元老院と下院は同時に討議を行った。16世紀に議院規則が確立され、新しい法令は議員の満場一致によって成立することとされたが、この原則は、のちの議会活動に大きな弊害をもたらすこととなる。

 

7)国王選挙のはじまり

  1572年にヤギェウォ家のジグムント2世(在位1548年−1572年)が没し、同家直系の子孫が絶えると、ポーランド共和国は、選挙王制の段階をむかえる。ポーランド王位は、ピャスト家断絶後選挙制を原則としていたが、ヤギェウォ家時代には、この国王選挙は名目的にしか行われていなかったのである。
  1573年の国会で、シュラフタは、選挙へのシュラフタ全員の参加を決定、フランスのアンリ・ド・ヴァロアを新国王に選出した(ヘンリク王:在位1573年−1574年、フランス王としてはアンリ3世)。 即位に先立ち、ヘンリクは、共和国に負うべき義務として、自費による兵隊の準備、国家財政の補充などをうたった「パクタ・コンヴェンタ」を確認したほか、新たな公的義務(ヘンリクの諸条項)を受けいれた。新たな義務の内容は、国王選挙の自由、2年に一度6週間の国会開催、宣戦・講和・国民軍召集への国会の承認など。国王がこれに反した場合には臣下の抵抗権も保証している。
  ヘンリク王以降、ポーランド王位は、トランシルヴァニア、スウェーデン、ザクセンなど国外の諸王朝とポーランド大貴族出身者のあいだを転々とする。このため王の側からは、各王朝の個別的利害を離れた恒常的な政策がほとんどとられなくなってしまう。また実際、選挙制移行後の国王は、確固たる政策を断行するだけの国内基盤と権限をもはやもたなかったのである。

 

8)マグナート勢力の拡大

  こうしたなかでスウェーデンのヴァーサ家出身のジグムント3世(在位1583年−1632年)は、ポーランドに専制的な世襲君主制の導入を図った。しかし、これにたいして1606年、ミコワイ・ゼブジドフスキを中心とする反対派が、ヘンリクの諸条項にうたわれた規定を盾に「合法的反乱」を起こすと、国王はこれを罰することができなかった。
  このように国王を中心とする行政権が弱体化をすすめるなかで、17世紀にはいると、マグナートは、貧窮化した中小シュラフタを配下に引き入れながら、実権を拡大していく。

 経済面では、ドイツ騎士団との戦争によってバルト海沿岸の港湾都市グダンスク(ダンツィヒ)を確保して以来、ポーランドは、イギリス、ネーデルランドなどすでにマニュファクチャー工業を発達させていた西欧諸国への穀物輸出をさかんに行っていた。16世紀の価格革命で西欧諸国の食料品価格が高騰すると、穀物輸出は従来以上に魅力のある事業となり、その見返りである奢侈品の輸入とともに大いに振興した。 ポーランドでは、こうした輸出入の事業やそれに見合った国内産業の育成も、国家ベースではなく、奢侈品の最終消費者である貴族主導のもとで行われ、農奴を使った大領地経営の浸透とともに国内でのマニュファクチャーの発達を妨げた。
  こうした産業構造から、西欧諸国と異なり都市の発展も大幅に遅れ、少なくとも後にみる18世紀末の分割期まで、商工業に従事する西欧的な意味でのブルジョワ(都市住民)は育たなかった。ブルジョワジーと結びついた国王勢力が、貴族の権力をおさえながら中央集権化していくという、これまた西欧(フランス)的な図式も、ポーランドでは成立しようがなかったのである。
  このような状況のもと1652年の議会で、国防に関する審議の最中、マグナートに買収された一シュラフタが審議停止の動議を唱えて国会を解散させてしまう。以後のポーランドの政治を麻痺させることになる「自由拒否権(リベルム・ヴェト)」の最初の行使である。 この拒否権そのものは、王の恣意的な立法からシュラフタの権利と自由を守るため16世紀に確立された、「新しい法令は議院の満場一致をもって成立する」という議院規則を援用したものに過ぎない。ただこれまでは、国会の機能を守るため、反対者は沈黙によって事実上の満場一致を許容してきた。しかしこれ以降、少数派は積極的に反対意志(拒否権)を表明して国会の審議停止・解散を図るようになる。そうなると、国内外からの議会への干渉はたった1人の議員の買収をもって足りるということになり、議会は正常な機能を果たすことができなくなってしまう。
  国会に代わる 国家の意志決定システムとしてこれ以降新たに脚光を浴びるようになるのが、13世紀から存続していた「連盟(コンフェデラツィア)」という制度で、シュラフタ、ときには都市や聖職者が一定の政治的目的をもって団結して行動し、多数決で重要事項を決定した。連盟そのものは、国王に対する忠誠拒否権と同様、シュラフタの封建的抵抗権の一つであるが、通常は、国王空位期など国政機関が正常な機能を果たすことができないときにこれに代わるものとして機能し、国家秩序回復を主要な目的としていた。しかしその本来的な性格からいって、連盟の無制限な召集は、国王、国会といった国政機関の麻痺を加速させる結果にしかならなかった。

9)大洪水

 30年戦争(1618年−1648年)のあいだ、ポーランドはかろうじて中立を維持した。しかし、1648年に南部ウクライナで起こったコサックの反乱が制圧できず、逆にこの反乱を機に、「大洪水」と呼ばれる外国軍隊の国内侵入を迎えることとなる。すなわち、1654年には、コサックと結んだロシア軍がスモレンスク、ヴィルノなど東部地方に侵入、これをみたスウェーデンが、翌1655年、北方から共和国全土を蹂躙、これによってワルシャワが3度略奪されるなど、ポーランドは一時滅亡寸前まで追い込まれた。 スウェーデンとの講和は1660年に成立したが、この間失ったものはあまりにも多かった。1618年にポーランドが宗主権を放棄、世襲を認められたプロイセンの公位を、1657年ブランデンブルク選帝侯のホーエンツォルレルン家が獲得したのも、後への禍根となった。 ウクライナ領有をめぐるロシアとの戦いは、スウェーデンとの講和後も続くが、1672年からはトルコとも交戦状態にはいる。 共和国は、1674年、トルコ軍と善戦した総司令官ヤン=ソビエスキを国王に選出、ヤン3世(在位1674年−1696年)は、1676年にトルコと講和、1683年には、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の求めに応じて、ウィーン包囲を行っていたトルコ軍を粉砕、全ヨーロッパに勇名を高めた。

 

10)ポーランド継承戦争

  しかしポーランドの華々しい対外活動はヤン3世の死とともに終わりを告げる。 当時のヨーロッパでは、すでに民族的な国家統合と中央集権体制を整えていたフランス、イギリスなどの先進国に続いて、プロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデンなどの各国(王朝)が国内の支配体制を整え、バルト海、東欧、トルコ支配下のバルカン半島や黒海沿岸へと支配権の拡張を狙っていた。王政といっても、実質的にマグナートが割拠し、国内的なまとまりをもたなかったポーランドは、その拡張政策の格好の餌食だったといっていい。
  ヤン3世の死後 の国王選挙でフランスがコンティ公を推し、ロシアとオーストリアがザクセンのフリードリヒ=アウグストを推した時、ポーランド人自身はもはや決定権をもたなかった。シュラフタの多くが、マグナートや国外勢力の買収の対象となっており、結局ザクセン選帝候アウグスト2世(在位1697年−1733年)が王位についた。 アウグスト2世は、ロシアのピョートル大帝と結んでスウェーデンに対し北方戦争(1700年−1721年)を起こし、ポーランド全土はまたもや外国の軍隊に蹂躙される。 スウェーデンと結んだマグナートの一部は、戦争中の1704年マグナートのあいだからスタニスワフ=レシチンスキを対立王に選出(在位1704年−1709年)したが、ピョートル大帝は1709年に南部のポルターヴァの戦いでスウェーデン国王カール12世を撃破、ワルシャワに入城してアウグスト2世を復位させた。ロシア軍はその後もポーランドに居すわり、1717年には、その圧力下、ポーランドの軍隊を24,000人とすることなどを認めさせた(唖の国会)。

 アウグスト2世の死後 ポーランド王位の継承はまたもや列強の干渉を引き起こす。娘のマリア・レシチンスカをフランス王ルイ15世に嫁がせていたスタニスワフ=レシチンスキが再度国王に選出されると、これを認めないロシアはワルシャワに進軍、オーストリアと結んで、アウグスト2世の子アウグスト3世を王位につけた(在位1733年−1763年)。 ロシア軍とザクセン軍はレシチンスキのグダンスク退去を強制、さらにグダンスクも占領したので、レシチンスキはプロイセンに脱出した。これにたいしフランスは、ポーランド国王選挙の自由を守るという口実のもと、スペイン、サルディニアを巻き込んで参戦したが(ポーランド継承戦争)、バルト海域ではほとんど積極的行動をとらなかった。 結局フランスとレシチンスキは、アウグスト3世を支持したハプスブルク家からロレーヌ公領を得ることで満足し(ロレーヌ公レシチンスキは終生ポーランド王を名乗る権利を認められ、ポーランドは一時名目的に2人の王をもつこととなった)、アウグスト3世のポーランド王位継承が列強によって承認された。1736年の「和議国会」はポーランドに正常化をもたらし、ロシア軍とザクセン軍はようやくポーランドを去った。

  オーストリア継承戦争(1740年−1748年)と七年戦争(1756年−1763年)にさいして、ポーランドは一応中立を維持したが、ロシアなど外国の軍隊は自由にポーランド領内を通過、ポーランドはもはや外交交渉の相手として問題とされないという状態まで国際環境が悪化した。

 

11)バール連盟

  こうした状況にもかかわらず(むしろこうした状況ゆえにというべきか)、アウグスト3世はその在位期間中ほとんどザクセンにとどまり、ポーランドの国政は、マグナートの2大名門ポトツキ家とチャルトルィスキ家にまかされた。 1763年、アウグスト3世の死によってポーランドに再び空位時代が訪れる。しかし、アウグスト3世の子で次期国王の有力候補とみられていたザクセン選帝候フリードリヒ・クリスチャンは、父の死後数ヶ月で急死し、あとにはその息子フリードリヒ・アウグストが13歳で残された。このためザクセン支持派の勢力は弱まり、結局ロシアのエカテリーナ2世の支持を背景にしたチャルトルィスキ家系のマグナート、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(一時エカテリーナ2世の愛人だった)がスタニスワフ2世(在位1764年−1795年)として王位についた。
  即位当時32歳の スタニスワフ2世は、宰相アンジェイ・ザモイスキに諮りながら国会に広範な国制改革計画を提出、ザモイスキは1766年の国会で立法改革の主要提案者に指名された。また王は軍事改革と財政改革にも着手し、元老院と下院の代表からなる軍事委員会、財務委員会を創設した。 王権の強化をめざすスタニスワフ2世の国制改革は、必然的にマグナートの既得権の制限をともなうものだったので、チャルトルィスキ一門以外のマグナートには歓迎されず大きな抵抗が予想された。そこで王は多数派工作のためにシュラフタから構成された下院と結びつく必要があった。 具体的には、まずたった1人の議員の反対で国会が解散できるという自由拒否権を廃止して国会に多数決原理を導入、国会の機能を回復させなくてはならなかったが、皮肉にも自由拒否権の残存によって、この改革案を国会に承認させるのは非常に困難だった。
  こうしたなかで1766年 の国会に自由拒否権を制限する改革案が出されると、ポーランドの政治的な無能から自国の利を引き出していたロシアとプロイセンは、宣戦布告をちらつかせながら、少数反対派の政治的権利の保証を求め、また国王反対派のマグナートや議員の買収を図った。 ポーランド国会はこうした内外の抗争に抵抗できず、なにも決めないまま解散した。
  しかしロシアは 国会解散だけで満足できず、翌1767年、改革に反対する保守派の貴族を後押ししてラドム連盟を結成、その力で10月に臨時国会を召集させた。 ロシアの圧力下で開かれた国会では、国王選挙、自由拒否権、シュラフタの特権(国王に対する忠誠拒否権、官職独占権、土地所有独占権)などが基本法として再度確認されたほか、ポーランド国内の宗教的少数派(ギリシア正教派とプロテスタント)の権利の平等も認められた。宗教問題は、これまでもロシアとプロイセンの内政干渉の大きな口実になっていたのである。
  国会が宗教上の 平等まで決議したため、はじめてロシアによって裏切られたと知ったラドム連盟の保守派は、ザクセンのヴェティン家に期待し、1768年2月、「信仰(カトリック)と自由のために」を旗印に、トルコ国境に近いポドレのバールで新たな連盟を結成、スタニスワフ2世とロシアの双方に対する武力闘争を開始した。 同年6月のロシア軍のバール占領とウクライナに起こった農民蜂起によって南東地域の連盟は崩壊する。しかしクラクフ地方やリトアニア、白ロシアでも引き続き反乱が発生、ロシア軍は簡単に国土を平定することができなかった。 10月になると、フランスにおされたトルコがロシアに宣戦を布告(第1次露土戦争:1768年−1774年)、ロシアが軍隊の一部をトルコ戦線に移動させたにもかかわらず、統一した司令部や強い政治的権威を欠く連盟は、軍事的勝利を得ることができなかった。 スタニスワフ2世に反対する立場からバール連盟を支持していたフランスとザクセンは、1769年、スロヴァキアのプレソフに連盟の総司令部を形成させると同時に、資金援助を行い、またシャルル・ドゥムリエ大佐を中心とする軍事顧問団を送った。 1770年になると、連盟は北西部のヴィエルコポルスカに強大な足場を築き、南西部でもフランス軍の援助で新たに組織された歩兵部隊と要塞を背景に本格的な反攻にでた。しかしドゥムリエは、5月にランツコロナ付近で敗北、10月には国王退位宣言の動きが表面化し、国王派との和解が難しくなった。リトアニアの軍司令官オギンスキが起こした反乱も、1771年9月のストウォヴィチェの戦いでロシア軍によって鎮圧される。同年11月、国王スタニスワフ2世を誘拐する試みが行われたが、これは大逆罪として非難されたばかりでなく、国外の君主国で連盟への信用を失わせる結果にしかならなかった。 ポーランド分割の可能性が高まった1772年春、連盟はすでに消滅しつつあり、最も長くもちこたえたチェンストホーヴァの要塞も、同年8月18日に陥落した。

12)ヴィエルホルスキ伯爵

  当時のフランスを代表する政治的論客・マブリ、そしてルソーがポーランド改革案を練ったのは、こうした政治状況下だった。
 1770年、バール 連盟は、全権公使としてフランスにミハウ・ヴィエルホルスキ伯爵(1716年頃−1804年)を送る。 ヴィエルホルスキ伯爵は、1762年以来リトアニアの指導者の1人で、スタニスワフ2世とチャルトルィスキ家に反対していた。しかし1766年の議会では、ロシアとプロイセンの勢力拡張に資するのみの自由拒否権に反対する結論に達し、パリでも当初、マグナート本位でシュラフタ全体の自由には反するような内閣の機構改革を探ろうとしていたようだ。
 18世紀のポーランド の政治・経済状態は、フランスでもとりわけ重農主義者の関心をよんでおり、ヴィエルホルスキ伯爵も、メルシエ・ド・ラ・リヴィエール(1720年−1792・3年)などの重農主義者グループと近かった。 他のヨーロッパ貴族以上に裕福なマグナートの大所領地では、マグナート自身の手による金融と運送、仲買を背景とする輸出入製品の集中、資本の蓄積と再投資など一種の重商主義政策が採用されていたが、全体としてみたときのポーランド共和国は林業や穀物輸出に頼る半植民地的な農業国であり、国家関税や工業政策の欠如から、重農主義的ともいえる独自の自由主義政策を採用していた。このため、バール連盟崩壊後に行われた第1次分割期のポーランドの国民教育委員会でも、マブリの論敵の1人、デュポン・ド・ヌムール(1739年−1817年)がマッサルスキ司教のもとで顧問としてはたらき、重農主義が公式学説として採用されている。

 本質的に 保守派であったとみられるヴィエルホルスキ伯爵がどのような経緯や意図でマブリやルソーと知り合いポーランド改革案作成を依頼したかの詳細は不明だが(ルソー全集<白水社>の「ポーランド統治論」翻訳者・永見文雄氏は、当時のフランス外務大臣ショワズールとその意を受けたリュリエールの動きを背景に想定している;同全集第5巻500−502ページ)、伯爵の依頼を受けて、マブリは1770年のはじめに「ポーランドの統治と法について」を執筆(第1部)、8月31日にこれを書き終えた(於・シャントーム城)。マブリへの執筆依頼と並行して、伯爵は6月末にパリに戻っていたルソーにも改革案作成を依頼していたものとみられ、マブリの改革案ができあがると、ルソーはこれや伯爵の資料をたたき台にしながら「ポーランド統治論(ポーランドの統治とその企図された改革とに関する諸考察)」を執筆、翌1771年4月に最初の草稿を完成させ、6月に決定稿を上梓した。そしてマブリはこのルソーの「ポーランド統治論」を手に、再批判として「ポーランドの統治と法について」の第2部を執筆、7月9日に完成させる(於・リアンクール城)。

 伯爵側の執筆 依頼が意図不明であるのと同時に、マブリやルソーの側の執筆意図も不明であるし、ましてやバール連盟のおかれていた当時の政治・軍事状況からいって、連盟の手による改革が可能と考えていたか、知るよしもない。 マブリにすれば、著作のなかでこれがメモワール(覚え書き)以上の性格をもつものではないということをたびたび強調しているし、1781年まで「ポーランドの統治と法について」を公刊しなかったということも、これに対する一つの態度表明といえるかもしれない。 いずれにしても、W・ゲリエの論考「モラリストおよび政治学者としてのマブリ師」(1886年)にみるように、これらの改革案は実行されず、机上のものとして残された。 そしてバール連盟はロシア軍によって制圧される。

 その後の経緯を みると、1775年、ヴィエルホルスキ伯爵はポーランドで「根元的・現実的法による古い国制の復活」を表わし、1789年にはようやくルソーの「ポーランド統治論の」のポーランド語版が出版される。

 

13)分割

 バール連盟とロシアの交戦状態が続いていた1770年のなかごろ、プロイセンのフリードリヒ2世はポーランド北部を占領、オーストリアもまもなくこれにならった。 ロシアのエカテリーナ2世は、内政干渉当初、ポーランド全域を保護国とすることを考えていたが、トルコとの戦争もつづいていたためこの計画を断念、両国と謀ってポーランド分割の方針を受けいれた。 1772年、3国はかねてから要求していた領土を占領、翌1773年、自由拒否権のきかない連盟の形でポーランド議会を召集させ、この分割を承認させた(第1次分割)。 分割後の残存地域は事実上ロシアの保護国とされ、教育改革などの内政改革をすすめながらフランス革命期まで存続する。しかし、1789年のフランス革命に刺激されて1791年5月3日新憲法が採択されると、これによってポーランドが再生することを恐れたロシア、プロイセン、オーストリアの3国は、フランス革命波及のおそれを名目に再度ポーランドを分割、1795年11月25日、共和国は政治的に消滅した(第2次・第3次分割)。
  その後、ナポレオン 戦争に際して、旧ポーランドの一部はワルシャワ公国として再生するが(1807年−1815年)、ナポレオン敗戦後のウィーン体制のもとで、ロシアの属国となることが決定され(ポーランドは名目上王国として再建され、ロシア皇帝がポーランド国王を兼ねることとなる)、ようやく独立を回復するのは、第1次世界大戦後の1918年にすぎない。

[ポーランド史に関する参考文献]
「ポーランド社会表」マルト・ブラン(山本俊朗訳)、校倉書房、1968年
「ポーランド史」アンブロワーズ・ジョベール(山本俊朗訳)、白水社(クセジュ文庫)、1971年
「東欧史(新版)」(世界各国史13)矢田俊隆編、山川出版社、1977年
「ビザンツと東欧世界」(世界の歴史19)鳥山成人、講談社、1978年
「ポーランド史」ステファン・キェニェーヴィチ編(加藤一夫/水島孝生共訳)、恒文社、1986年
「ポーランド入門」(三省堂選書)阪東宏編、三省堂、1987年
「ポーランド現代史」(世界現代史27)伊東孝之、山川出版社、1988年
Histoire de la Pologne, Daniel Beauvois, Hatier, Paris, 1995年

Stanislas 1er, Un roi fantasque, Lydia Scher-Zembitska, CNRS Editions, Paris, 1999年
Le Roi Stanislas, Anne Muratori-Philip, Fayard, Paris, 2000年      

      

マブリ・トップページ

参照:デンマークの絶対王政