マールブランシュの機会原因論
Cause occasionnelle chez Malebranche
| このページでは、マールブランシュが主張した哲学概念のなかでももっとも有名なものの一つ「機会原因」cause
occasionnelle論について、それが明確に記されている「真理の探究」第六巻第二部第3章のテクストの一部と、竹内良知氏が「真理の探究」第一巻邦訳(創元社、1949年;同邦訳は第一巻のみ刊行)に付した解説、伊藤泰雄氏の著書「神と魂の闇ーーマルブランシュにおける認識と存在」(高文堂出版社、1997年;管見ではマールブランシュについて日本で唯一の専論)を中心に明らかにしてみたい。機会原因論は、現象としての物体(身体)や精神の運動を認めながら、その原因を物体のなかや精神そのものに与えることを拒み、たとえば物体の衝突や精神の意欲をきっかけ(機会)として神が発動し、最終的には神がさまざまな運動を引き起こしているとする説である。この説はコルドモア(1620年−84年)、ゲーリンクス(1624年−69年)などのデカルト派哲学者から生じたが、そもそもデカルトが物体の本性(特徴)を延長としたために、運動やその原因を説明することが極めて困難だったのである。機会原因論は、いわば、静的なデカルトの物体概念と運動を調和的に説明するために生み出された学説といっていい。そして「あらゆる点で機会原因論を深く広く把えることによって、この形而上学を完成せしめたのがマルブランシュであった」(竹内氏)のである。 なお「真理の探究」のテクストは、Vrin版(1974年刊)を用い、伊藤氏が引用している部分は緑色で示した。 「真理の探究」 第六巻「方法について」 第二部 第3章「古代哲学の最も危険な誤謬について」 (前略) 大小にかかわらず、すべての物体が自らを動かす力をまったくもたないのは明瞭である。山、家、石、砂粒、結局、人が思い浮かべうる物体のなかで最も大きなものも最も小さなものも、自らを動かす力をまったくもたない。われわれは二種類の観念しかもたない。精神の観念と物体の観念である。(であるから)われわれが思い浮かべるものについて語る必要はない。われわれはこの二つの観念についてしか推論する必要がないのである。かくて、すべての物体についてわれわれが抱く観念は、物体は自らを動かすことができないと知らしめるので、それらを動かすのは精神であると結論しなくてはならない。しかしすべての有限の精神について人が抱く観念を吟味してみると、その意志となんであれ物体の運動とのあいだに、必然的な結合をけして見いださない。逆に、そうした結合はけして存在しないし、ありえないことがわかるのである。同様に結論しなくてはならない。自身の(理性の)光にしたがって推論しようとするならば、真正で主要な原因として、なんであれ物体を動かすことができる創造された精神はまったく存在しないと。それはいかなる物体もそれ自身が自らを動かすことはできないと言ったのと同様である。 しかし神の観念、すなわち無限に完全でその帰結として全能な存在について考えるとき、その意志とすべての物体の運動のあいだに、ある物体は動かされ、他の物体はそうでないように欲すると思い浮かべるのが不可能なほどの結合が存在するのを知るのである。それゆえわれわれは、感じるままにではなく、思い浮かべるままにものごとを言おうとするならば、物体を動かすことができるのは彼の意志のみであると言わなくてはならない。それゆえ、物体の動力は自らを動かしている物体のなかにはけして存しない。なぜならこの動力は神の意志に他ならないから。かくて物体にはいかなる動作(action)も存しない。衝突し他の球を動かすとき、動いている球は、それがもっていたなにものも他に伝えない。なぜなら球そのものは他に伝える力をもっていないのであるから。しかしながら球は、それが伝える運動の自然的原因(cause naturelle)ではある。それゆえ自然的原因は実在する真正な原因(cause reelle et veritable)ではけしてなく、単なる機会原因(cause occasionnelle)なのである。そしてこれが、しかじかの衝突において自然の作者がしかじかのしかたではたらくよう決定するのである。 すべての事物が産み出されるのが、見える物体もしくは見えない物体の運動によるのは確固としている。なぜなら経験は、その部分がより多くの運動をもち宇宙により多くの変化をもたらす物体はつねにいっそう作用すると、われわれに教えるから。自然のすべての力は、それゆえ、つねに有効な神の意志に他ならない。神は自らが望んだがゆえに宇宙を創造された。「彼が言うと、それはなった」(旧約聖書詩篇33−9)のである。彼はすべての事物を動かし、かくてわれわれに到来するのを見るすべての結果を生みだす。なぜなら、彼は同じく物体の衝突において、運動が伝わるある種の法則をも望んだのであるから。これらの法則が有効であるので、法則が作用し、物体が作用することができるのである。それゆえ物質的で可感的な宇宙には、力、能力、真正な原因はけして存在しない。そしてそこに形態、権能、物体がけして産み出さない結果を産み出し、神に本質的な力と能力を神と分かつ実在的質(qualites reelles)を認めてはならない。 しかし物体がしかじかのものの真正な原因ではありえないだけでなく、最も高貴な精神も同様の不可能性のうちにある。もし神が啓発しないなら、精神はなにも知ることができない。もし神が変容させないなら、精神はなにも感じることができない。もし神が普遍的な善すなわち彼に向かって動かさないなら、精神はなにも望むことができない。精神は神が彼のために与える刻印(impression)を、彼以外の対象に向けて決定することができる。私はそれを認める。しかしそれを能力と呼びうるのか、私は知らない。もし罪を犯しうることが能力であるとしても、それは全能者がもたない能力であろうと、聖アウグスティヌスはとある箇所で言っている(「ユリアヌス駁論」sec. resp.1.T)。仮にもし人間自らが善を愛する能力を保持しているとすれば、人は、人間はなんらかの能力をもつと言いうるであろう。しかし人間は、神が人間が愛することを望むがゆえに、そして神の意志が有効であるがゆえに愛することができるに過ぎない。人間は、神が普遍的な善すなわち彼に向かって絶え間なく後押しするがゆえに愛することができるに過ぎない。なぜなら神は彼のためにしか人間を創造しなかったので、神は、人間を彼に向けさせることなしに、また彼に向けて後押しすることなしに人間を維持することはけしてない。普遍的な善に向かって自らを動かすのは人間ではない。神が人間を動かすのである。人間は、単に完全に自由な選択によって神の法則に基づくこうした刻印に従うのであり、また、肉体の法則に基づく誤った善に向かって、その刻印を決定するのである。しかし人間は善の観点によってしか刻印を決定できない。なぜなら、神がなさしめるようにしかできないので、善しか愛することができないのである。 しかしもし精神が自らのうちに真理を知り善を愛する能力をもつと仮定してもーーこの仮定はある意味では真実であるのだがーー、精神の思考と意志は外部になにも産み出さないとすれば、精神はなにもできないと人はつねに言いうるであろう。ところで、精神の意志は宇宙に存在する最も小さな物体をも動かすことができないことは非常に確かであると、私には思われる。なぜなら、われわれがもつ例えば自分の腕を動かそうという意志と、われわれの腕の運動のあいだに必然的な結合がまったくないというのは明瞭であるから。われわれが欲するときに腕が動くというのは真実であるし、このようにしてわれわれは自分の腕の運動の自然的原因である。しかし<自然的>諸原因はけして真正な原因ではない。私が説明したように、神の意志の力と有効性によってしかはたらかないのは、<機会>原因でしかありえないのである。 なぜなら、われわれはどのようにして自分の腕を動かすことができるのであろうか。腕を動かすためには動物精気をもち、筋肉が膨張したり収縮したりするようにと、しかじかの神経によってしかじかの筋肉に送り込まなくてはならない。なぜなら、その筋肉に結びつけられた腕が動くのはこのようにしてだからであるが、他の人の意見によれば、それがどのように行われるかは未だ定かではない。われわれは、精気、神経、筋肉をもっていることすら知らない人間が腕を動かすのを見るし、解剖学をよく知る人間よりも巧みかつ容易に腕を動かすのを見る。それゆえ、人間は自分の腕を動かすことを欲するが、それができる、すなわち腕を動かすことができるのは、神のみなのである。もしある人に塔を倒すことができないとしても、少なくとも塔を倒すためになすべきことをよく知る。しかし、動物精気という手段によって自分の指の一本を動かすためになすべきことを単に知ってさえいる人間は、まったくいない。しからば、人間はどのようにして自分の腕を動かすことができるのであろうか。これらのことは私には明瞭であると思われる。考えることを欲するすべての人にとっても同じであろう。とはいえ、感じることしか欲しないすべての人にはおそらく理解できないであろうが。 (以下省略) |
| (Vrin版マールブランシュ全集第2分冊、312〜5ページ) |
| i) 機会原因論誕生の背景 マールブランシュ説が生まれた背景とその特徴を、竹内良知氏は次のように指摘する。 「それは、自然学の領域において、被造物に何等かの役割を、しかも心身分離の立場を維持しながら、認めようとする哲学的努力であったということができる。デカルトの哲学においては、延長或は物体には何等の作用性も許されていなかったのであった。それに対して、精神には作用性が認められていた。そして神はまた無限の精神として創造者であることはいうまでもない。しかし、物体に作用性を拒むということは、世界をして神の傀儡とするばかりでなく、身体もまた物体であるかぎり、人間的行為に関しての神学的問題に重大な意味をもつものであった。ここから、精神をも含めて、被造物から一切の能動性を奪って、創造主としての神に帰することが考えられる。しかし、そうするかぎり、被造物が傀儡である点はさらに強められるほかないし、宗教的神学的立場からいっても、罪の問題の意味は失われなければならない。したがって、デカルト的機械論的自然認識をみとめながら、同時に神の世界創造と神の精神的性格を承認するとともに、被造物に何等かの役割をみとめるためには、被造物が神の活動の、神の摂理の機会としての意味をもたなければならないし、精神の作用性が否定されて、精神の物体にたいする位置が引き下げられることによって、物体の役割をいわば相対的に引き上げることが企てられなければならない。機会原因というのは、能動性を奪われた被造物に或る意味で積極的役割をみとめられるための概念であったのである。」(竹内良知氏、上掲邦訳解説、31ページ) また、伊藤泰雄氏は、デカルトにおける心身合一の問題の解決、その存在論的理解の追求を、機会原因論が主張されるに至った背景としてあげる。 「機会原因は、デカルトにおける心身合一の問題を解決しようとする過程で主題化された概念である。デカルト自身にとって心身合一は説明すべき事柄でなく、直感的事実であった。しかし物体の本質を延長に見、精神の本質を思惟として把握するデカルトの二元論は、心身の合一という事実の説明に不十分であると、小カルテジアンと称される人々に受けとられた。デカルトにおいて心身の分離は実在的区別(distinctio realis)であるとされる。「省察」第6章の表題に「精神と身体との実在的区別について」という表現が含まれている。従って「哲学原理」に示された実在的区別の定義によって、その区別は実体間に存する区別であり、その場合、一方の実体を他方の実体なしに明晰判明に知解しうるのである。ところで他方デカルトは、「省察」第6章本文の議論において、精神と物体の分離の根拠を両者の本性上の区別、即ち思惟と延長の区別に求めている。この議論は「哲学原理」にも見られる。ここに一つの疑問が生ずる。それはデカルトにおいて、精神と身体(物体)の分離は両者の実在的区別を根拠にしているのか、それとも思惟と延長という本性上の区別に基づいているのかという疑問である。デカルトは実体間の実在的区別を、物体間にも適用しているのだから、実体の本性上の区別は、実在的区別の十分条件であるが、必要条件ではない。つまり本性上の区別があるならば実体間の区別があるといえるが、実体間の区別があるからといって、それは必ずしも本性上の区別を含みはしない。物体同士は、本性を等しくしているにもかかわらず、実在的に区別される。 小カルテジアンはこの問題を指摘し、その解明につとめた。彼らは心身関係の存在論的理解を求めて因果関係についての考察を行い、心身関係から因果関係一般の可能性へと問題の核心を前進させた結果、上に述べたように、物体と精神という二実体間に認められる本性上の「通約不可能性」incommensurabilite(ゲルーの用語;M. Gueroult, Malebranche, vol-U, Paris, Aubier, 1959, p.210 )は、両実体間における因果関係が不可能であることの十分条件でないことを明らかにしたのである。そこから、結合されるべき複数項の間にいかなる「通約不可能性」も含まない因果関係はいかにして可能であるかという問いが顕在化し、その問題解決の途上において機会原因という概念が獲得されるのである。」(伊藤泰雄氏、上掲書、99〜100ページ) いささか抽象的になったが、竹内氏は、機会原因とは「一般には、例えば物体Aが物体Bに衝突してBが運動する場合、Bの運動の真の原因は神であるが、神の働きの発動の機会を与えるものはAであるという風に、神の作用にたいして、すなわち一般的法則の発動のための機会を与えるということを意味するものであった」(竹内氏、上掲邦訳解説、44ページ)とし、伊藤氏も、上に掲げたマールブランシュ自身のテクストを引用しながら、「「機会原因」とは「自然の作者が、特定の衝突において、特定の仕方で働きかけるように決定する」原因である」(伊藤氏、上掲書、106ページ)と端的に指摘している。 ii) マールブランシュにおける展開(伊藤泰雄氏の分析による) しかし伊藤氏によれば、上掲の引用箇所は、機会原因とは運動伝達が行われる機会であるというマールブランシュのそれまでの規定から逸脱し新たな展開を示しているのであり、「ここに示されている機会原因は、単に運動伝達という出来事の機会ではなく、それに加えて、伝達される力が則って働く仕方が、その衝突を機会として作用するという事態を表現している」(伊藤氏、上掲書、106ページ)という。すなわちここでのマールブランシュのテクストは、「物体衝突という出来事が、一回一回独立の運動を生じさせるという個別性と同時に、そうした個別性を貫いて一定の規則性が看取されるという事態を捕えているのであり、即ち、衝突物体の衝突後の各運動が、各物体の個別的速度と個別的質量を変数とする一般的な関数として表現できるという事態に係わっているということである。機会原因は、一般者である規則と個別者である現象との媒介概念として把握し直されている」(伊藤氏、上掲書、106ページ)と分析されている。私も伊藤氏の分析にしたがいたい。 伊藤氏によれば、ここにおいて、マールブランシュの機会原因は単なる運動伝達の説明を超え、神のあり方をも規定する法則であることが明らかとなる。「衝突後の運動の規則性を保証する自然の作者の意志とは、どのような意志なのだろうか。神の永遠性に従って、神の意志は不動性(immutabilite)を持っていると考えられる。しかし意志の不動性はその所産である現象の不動性を必ずしも意味しない。なぜなら変化しつづける所産を不動的に意志することが可能であると考えられるからである。この点はデカルトもすでに知っていたと考えられる。一つ一つの意志が個別的に互いに独立して発せられるのであれば、仮にその結果として生ずる現象が規則的であったとしても、その規則性は偶然的である。この場合、意志そのものは力であり、規則を内在させてはいない。従って現象の単なる規則性では不十分である。つまり現象の単なる規則性は、現象の不動性または恒常性を必ずしも意味しない。上記の機会原因の規定では、「特定の仕方で働きかける」とはいわれているものの、その特定性は、偶然的な規則性と区別することができない。規則性が単なる偶然の一致以上のものであるためには、それは法則(loi)でなければならない。従ってマルブランシュは上記の規定に続いて次のように述べるのである。「神はすべてのものを運動させ、我々はそのすべての結果が生ずるのを見る。なぜなら神は物体の衝突においても、運動の伝達が従ういくつかの法則を望んだからである。」マルブランシュは、個別意志の不動性だけでは現象の法則性に根拠を与えるに不十分であることを、はっきりと自覚している。では法則性に存在論的根拠を与えることのできる意志とはどのような意志であろうか。それは意志そのものに法則性が内在する意志であり、そのような意志の問題は、神における個別意志と一般意志の区別へと我々を導くのである。」(伊藤氏、上掲書、106〜7ページ) iii) 簡潔さへの指向 伊藤氏からの引用が長くなったが、物体や身体の運動が神の意志を最終的な原因とすることを確認したうえで、マールブランシュは神の意志そのものの性質を問う。この問いは「真理の探究」のなかだけでは解決されず、その後の著作のなかで深化される。そこでわれわれもいったん「真理の探究」を離れなくてはならない。今度は、「形而上学についての対話」(1688年)に掲げられた神の摂理の3原則を、竹内良知氏によって引用してみよう(竹内氏、上掲邦訳解説、45ページ)。 1.神はその本性にしたがってのみ働く。すなわち、その属性の性格を示す仕方で働く。したがって、神はその計画を立てるのに、それを遂行する方法(voie)と独立に立てるのではなく、その成果も方法もともに最もよく神の完全性を示すように選ぶ。 2.摂理のうちに単純性、斉一性、一般性があればあるほど、摂理はいっそう神性を帯びていること、かくして、神は諸原因の連鎖のうちに彼の知恵を閃き出させるために、世界を一般法則によって支配する。 3.被造物は互にそれに固有な作用性によって働きかけるのではない。神が自らの立てた一般法則を限定する機会的原因として、それら被造物の様態を役立てるように、被造物に自らの力を与えたにすぎない。 摂理は「単純・斉一・一般的」であるのが望ましい。こうした簡潔さへの指向そのものは、より一般的なかたちで「真理の探究」にも記されている。「自然のなかに軽蔑すべきものはなにもなく、神のすべての作品は、神がそれらをつくり保持している手段の簡潔さ(la simplicite des voies)に特に注目するならば、尊敬と称賛に値する」(「真理の探究」第一巻第6章、Vrin全集第1分冊、90ページ)。そしてこの原則は、マールブランシュを神の行う個別の奇蹟から遠ざけ、普遍性をもった自然法則に接近させる。自然法則そのものは神の意志の法則そのものではないが、神が単純・斉一・一般的に意志しようとすると、その意志は自然法則の形態であらわれる。 「物体の「本性」は、その物体の運動が則る一般的法則そのものと区別できない、というのがマルブランシュの主張であり、一般的法則の根拠は、神の意志のたどる単純な道に求められる」(伊藤氏、上掲書、115ページ) われわれはようやく、マールブランシュの機会原因論の最終到達点たどり着いたようだ。 物体も身体も、その本性は延長であり、運動能力も他を運動させる能力ももたない。そうした物体と物体、物体と身体等が衝突するとき、(自然法則にしたがって)一方から他方へ運動が伝えられるようにみえるが、衝突する物体等は新たな運動の機会原因に過ぎず、真の原因は神(の意志)である。しからばそれは一種の奇蹟として実現するのか。否。およそ完全なものであるかぎり、摂理は単純・斉一・一般的なものであり、一種の法則としてはたらく。この点からみるかぎり、物体の運動の原因を自然法則で説明するのは、現象説明としては正しいし、こうした自然法則=摂理の究明は信仰と矛盾しない。世界認識の誤りは、自然法則をそれ自体で正しいとみて、その法則を成立させている神の意志をみないことと、神の意志に法則性はなくそれは奇蹟(自然法則の停止)として端的にあらわれるという2つの方向に見いだされることになる。 iv) マールブランシュの機会原因論の哲学史的位置づけ 竹内氏によれば、マールブランシュのいう「法則」は、「神の支配の現実の形態として考えられたのであった」(竹内氏、上掲邦訳解説、48ページ)。そのかぎりで、「法則の概念はなお超越的であり、形而上学的であって、十分科学化されていないといわなければならない。その点に17世紀の思想家としての彼の体系の限界はあるのである。それは、デカルトにおいても見られる点である。しかし、彼は決して経験的事実を無視したのではなかった。すべてのものを単に神の支配下にあるものとすることは、事物の経験的な具体的な性状と一致することができない。単に超越的な一般法則の支配を端的に主張することができないところに、彼の機会原因論が成立したのであった。しかしながら、個別的、特殊的な事物の特殊法則に被造物の積極的な作用性或は自主性を帰することは、自然の秩序、或は世界の理性的秩序に神的性格をあくまでも重視しようとする彼の立場の許すところではあり得なかったのである。法則があくまでも神意にもとずくものでありながら、その具体化が神のみにもとずくものと考えることもできないところに、被造物の自立的能力を否定しながらも、その役割をみとめるという機会原因論を成立せしめ、神の直接支配を一般的法則に限り、神は具体的事象を予見しながらもその具体的特殊化は機会原因に委ねるという摂理の思想が成立したのであった。(中略)機会原因とそれに続く結果との関係は、必然的関係ではあり得ない。それは、ア・プリオリな分析的、演繹的な関係ではなく、ア・ポステリオリな綜合的な関係として見られるべきであって、経験によって知られ得べきものである。「機会原因」という概念は、マルブランシュが経験的実証的に把握されるべき具体的事物の関係を形而上学的な意味における原因として考え、特殊的法則をなおあくまで神の側から、単に分析的に把えようとしたことを示しているのであるが、それにもかかわらず、同時にまた事物の多様性と変化とにおける具体的性状に即して法則を把握するという実証的科学の要求を潜在的に孕んでいたことをも示しているのである。」(竹内氏、上掲邦訳解説、48〜50ページ) 伊藤氏の結論もこれに近い。「物体の「本性」は物体の運動法則そのものであり、その法則の必然性は、叡智的延長に含まれる必然性と異なり、神の「きわめて単純な道」にその根拠を持つという自然学の基礎づけは、自然学の対象である自然法則の必然性から絶対性を排除するという結果をもたらす。そもそも物体衝突以外の出来事を機会原因とする自然法則が可能である。「物体の衝突が物体運動に絶対必要だからというのではなく、衝突は運動伝達の機械であって、我々の見る感歎すべきすべての結果を産み出すために、ごくわずかな数の自然法則が必要だからである。」(Vrin版全集第3分冊、215ページ)マルブランシュにおいて、自然法則の持つ必然性は、神の単純な道にその根拠を持つことにより、物体に対して総合的に働くのであり、経験によってア・ポステリオリにのみ知られるという性格を付与されるのである。マルブランシュの機会原因説は、物体運動の領域において、唯一で真の原因としての神を主張しながら、むしろまさにそのことによって経験科学の対象としての自然法則という概念を支持したのである。」(伊藤氏、上掲書、117〜8ページ) マールブランシュの機会原因論の内在的説明に関するかぎり、竹内、伊藤、両氏の結論に付け加えるべき新たな論点を私はもたない。ただし、自然法則と神の意志、神の存在を調停しようとしたマールブランシュの学説自体、あまりにも法則性を重視した結果、奇蹟の否定につながるにきわめて危険な思想として発表直後からボシュエらとの論争を引き起こし、「真理の探究」の論点をより限定して明確に考究した「自然と恩寵についての論考」(1680年)は、長い論争を経て1690年にローマ法王庁から禁書処分を受ける。マールブランシュは時代に迎合しながら思考したのではなく、むしろその思想は時代にただちに公認されたのではないことにも留意する必要があろう。 しかしながらその晩年、マールブランシュの思想はデカルトにはじまる合理論の到達点としての地位を認められ、ジョン・ロックによって新たに提唱された経験論と対峙する役割を担わされることになる。続く時代、百科全書派が総力をあげて批判しようとしたのは、つまるところマールブランシュに影響された神中心の世界認識だったといってもいい。 にもかかわらず、マールブランシュの学説は別の意味でも18世紀に大きな影響を及ぼす。すなわち、マールブランシュ学説から神の意志を取り去ると、物体、身体の世界は、現象的な自然法則のみによって機械的に理解されることになる。たとえば18世紀科学の難問であった動物や人間の身体運動に関し、マールブランシュ説は、魂や精神のはたらきを否定し、動物や人間は自らに即して物理的に運動するという唯物論的な理論を擁護するようにも作用するのである。 有力な哲学説の影響が時代や立場を超えて拡がるものだとすると、マールブランシュの機会原因論もまさにそのような経過をたどっている。出発点はデカルト哲学であるにしても、マールブランシュの思想はデカルトに還元仕切れない独自の延長をもち、独自に研究される価値をもつものなのである。 |
| (2004・5・19) |