マールブランシュの視覚認識論
| 物理法則の普遍性、恒常性をみとめたうえですべてを神に帰するマールブランシュ認識論の特徴を知るため、以下、その主著「真理の探究」De
la Recherche de la verite(1674年)の第一部「感覚について」から視覚論の結論部分を抜き出してみる(訳はVrin版のマールブランシュ全集による<同全集第一巻119〜120ページ>)。マールブランシュによれば、人間の感覚作用や想像は真の認識をもたらすものではなく、神のうちなる観念に至るきっかけにすぎない。われわれに感覚作用が生じているとき、実は神がその作用を生じさせているのである。訳出した部分は、後にジョン・ロックらによって批判的に言及され、経験論の立場からの認識論を構築するのに大きく影響している。 「真理の探究」 第一巻 感覚について 第9章 前の主題の続き。1.運動についてのわれわれの視覚の誤りについての一般的証明。2.対象の運動の大きさを判断するためには対象への距離を知ることが必要である。3.距離を認知するための手段の検討。 (前略) この章を終える前に、われわれにもっとも慣れ親しんだ割合で物体の運動と静止についてよく知ることが、われわれの生命の維持には大いに重要であること、また、それが非常に遠い場所で生じる場合には、これらの事物の真理を正確に知ることは非常に無益であると指摘しておかなくてはならない。なぜならそれは、私がすべての感覚(sens)について一般的に既述したこと、すなわち、感覚はわれわれの身体の維持との比例によってしか事物を知らしめないのであり、また、事物それ自体のあり方によっては知らしめないことが、この衝突においてまさしく真実であると見いだされることを明らかに示しているからである。われわれは対象の運動と静止を、それらがわれわれに近づく割合によってよく知るので、対象が非常に遠く、われわれの身体とまったく無関係であるかほとんど無関係であるようにみえる場合には、感覚によって判断することができない。対象が中庸な大きさである場合にわれわれから500ないしは600歩離れて、対象がより小さい場合にはそれより近く、またさらにより大きい場合にはとあるものからより遠いとき(が判断に適当な割合)である。 私が説明した手段で対象の距離や大きさその他の判断を形成するのはわれわれの魂ではけしてなく、神、その帰結として魂と物体の結合の法則がその判断を形成するのであると、さらに注意しなければならないと思う。このようなわけで、この種の判断を私は<自然な>と言ったのであり、それは、そうした判断がわれわれのうちに、われわれなしに、われわれにもかかわらずある(ils se font en nous, sans nous, et meme malgre nous)ことを示すためなのである。しかし神は、われわれが自分で判断を形成できるように、われわれのうちに、われわれのためにそれをつくったのであるから、もしわれわれが神的に光学と幾何学、すなわちわれわれの眼や脳において現に起こっていることすべて、われわれの魂がそれ自身ではたらくことができ、感覚作用(sensation)を自らに与えることができることを知っているのであれば、私は魂に判断や推理をなし、その結果それ自身のなかに感覚作用を引き起こすことを帰する。しかしこの感覚作用は、無限の叡智と力の結果でしかありえない。われわれが眼を開くやいなや、それゆえ、神のみが運動する形態の大きさおよびわれわれを取り巻く対象の色を瞬時にしてわれわれに知らせることができる。しかし神はこうした対象がわれわれの身体になす刻印(impressions)の帰結としてしかそれをなさないので、こうした刻印から既知の真理を、すなわちわれわれの感覚作用の真理の原因を引き出さなくてはならない。私が努めたように、魂は知識と力能をもつと仮定しーーすべての人は魂はそれをもっていないとよく知っているし、私は魂がそれをもっていなかったことを十分に示したのではあるが、ーーまたわれわれの感覚作用が依存している判断を<自然な>と呼びながら。 なおまた、野原の真ん中で眼を開いたとき、われわれのうちでわれわれなしに起こることについて人がなんらかの反省をおこなえば、神がわれわれのうちで絶え間なくはたらかなくてはならないことを明瞭に認めるであろう。私は神というが、自然とは言わない。なぜなら使用において非常に強力な「自然」というこの曖昧な術語は、アリストテレスのエンテレケイアについて考えていることを判明に表明するために最もふさわしくはないからである。私は言う。神はつねに同じ法則の帰結としてはたらく、つねに幾何学と光学の規則よってはたらく、つねにわれわれの身体の状況と運動と比較された眼のなかで生じていることの知識に依存してはたらく、つねにわれわれの生命の維持に傾く無限の推理、瞬間の推理、われわれの眼の個々の運動に応じて変化する推理の結果としてはたらくことを人は認めるであろうと。私が推理というとき、私は人間界のこととして語っている。なぜなら、(真実には)それは永遠の行為によってすべて形成されているのであるから。多少熟考されたこの唯一の効果について一言つけ加えれば、人は神慮のうちに全能者の手と叡智のはかりしれない深さを感じるであろう。 |