マルゼルブの出版理念
Idees fondamentales sur publication chez Malesherbes

 木崎喜代治氏は、その著作「マルゼルブーーフランス18世紀の一貴族の肖像」(岩波書店、1986年)のなかで、ルイ15世時代の出版統制局長として「百科全書」など啓蒙派の出版事業を支援したマルゼルブ自身の出版理念を述べた「出版論」および「出版自由論」の内容をくわしく紹介している(この2つの著作は、合本のかたちでマルゼルブ没後の1809年にはじめて刊行)。出版統制に携わった人間の眼には18世紀フランスの出版・表現の自由の問題がどのようにうつっていたのか、またそれは外部的にはどのような意味をもつものであったのか、以下、木崎氏の分析をとおしてみていきたい。

【出版論】
 この著作は、1758年〜59年にかけて執筆されたものと考えられている。この時期は、エルヴェシウスの「精神論」そして「百科全書」が相次いで出版許可取消し・禁書の処分にあった時期であり、出版統制局長としてこれら事件の当事者の一人であったマルゼルブの考えを直接知ることができることの時代の証言としての意義は大きい。マルゼルブはどのような根拠から、これらの著作の出版を容認していたのか、出版に対して国家はどのように対応すべきと考えていたか、詳しくみていくことにする。
 「出版論」は、次の5論文からなる。
 @新法規を作成するか、旧法規を改正する必要について。
 A作成すべき法規の基本原則について。
 B認可もしくは黙認すべき書物について。
 C禁止本の印刷・販売・流入を阻止するために作成すべき法規について。
 D「黙許」と呼ばれているものについての説明。
 これらの論文のなかで、マルゼルブはまず現状を批判的に分析する。
 ついで、「矯正手段を求めるべきところは、厳格さのうちにではなく寛大さのうちにである。書物の取引は今日きわめて拡大し、公衆は強くそれを求めているので、支配的になっている趣味について、それを一定地点のうちに閉じ込めておくことはできない」とする。マルゼルブはあらゆる書物の出版を無条件で容認していたわけではない。しかし、認可の厳しさはさらに有害な不法行為を生みだすだけである。「書物は悪をなす。しかし、人間精神は進歩し、その進歩は公共善に役立つ。脇道にそれることはある。しかし、結局、真理が勝つ」と自由な出版を明確に肯定する。
 出版という事業は大局的に判断されなくてはならない。「公衆にとって大切なことは真理が知らされることである。書くことが許されるとき、真実は知られるであろう。そして、それなくば、そうはならないであろう。もし、誤謬を出版することが禁じられるなら、真理の進歩を止めることになるであろう。なぜなら、新しい真理は、つねにしばらくの間、誤謬とみなされるからであり、そのようなものとして、司法官によって放逐されるであろうからである。」国王の権威を論議するような著作は禁止されるべきである。しかし、王位の基礎が固まっているとき、基本法以外の法や行政について語ることに危険はない。それらを許しておけば、多くの人が政治について知るようになり、国王も公衆のうちに味方を持つようになるだろう。公衆は大臣や将軍の誤りを国王に知らせるであろう。それに、大臣にとって公衆の批判はそれほど恐るべきものではない。コルベールは批判を禁止したが無益であった。もし自由に批判させていたら、かれの支持者さえ現れていたことであろう。現在では、諸団体は、善悪の見わけがつかず、なにごとにでも反対している。しかし、知識が広まるにつれて、有益な新しい政策には反対が少なくなるだろう。ところで、この知識は書物によって広まるのである。現在の行政官は読まないだろう。しかし、今日、政治について書くことは未来の世代のために働くことなのである。政治家への個人攻撃には、検閲によってではなく、裁判によって対抗すればよい。財政問題についての論議を禁止するのも不合理である。賛否両論が自由に出版されてよい。一冊のパンフレットが倒しうるような財政計画は悪い計画であろう。猥褻文書を禁止すべきことにすべての意見は合致している。しかし放縦文書については限界を定めるのはむつかしい。そうしたものについては、黙許を適用するだけである。宗教を直接に攻撃する文書はいかなる国でも許されてはいない。しかし、宗派間の宗教論争の書物は完全な黙認の形で出版されることが望ましい。出版を完全に統制しうるような政府は存在しない。大衆も読むようになった現在、そうすることはますます困難である。したがって、ただ可能な手段のみを選ばなければならない。
 現在の法規は厳しすぎて実施できない。だれも死刑規定をまじめにうけとってはいない。実定法に反するもの、たとえば地下出版や密輸入は明確な規定のもとに処罰しうるが、自然法に反するもの、たとえば有害な書物の出版については無限の多様性がありうるゆえに、一律に処罰することは不可能である。その他、現行法には多くの不備があり、区別されるべきものが区別されていない。
 黙許は非難されているが、今日の状況では不可欠である。公然と認可することはできないけれども、禁止することもできないような書物が存在する。検閲人も、自分の名前が現われるのを嫌う。解決法は、黙許を合法的手続きにかえることである。
 以上のような内容をもつ「出版論」の意義を、木崎氏は次のようにまとめる。「ここで一言述べておくべきなのは、すでに明らかであるように、出版統制論あるいは出版自由論は、けっして狭い出版論の枠内にとどまっていることはできないということである。反王権文書や反宗教文書にたいしていかに対処するかという問題への回答は、政治そのもの、宗教そのものにたいしていかなる態度をとるかという問題への回答を前提としている。」(木崎氏、前掲書、183ページ)
 政治にかんしていえば、マルゼルブの論議は、ほとんど完全な政治的著作の自由化の要請である。それがもつことになる意味を、木崎氏は次のように指摘する。「王権が自己改革を続行できないとすれば、王権への世論の勧告的態度は敵対的に変化する以外にはないだろう。マルゼルブははたして、ルイ15世の政府が、人民の声に耳を傾けると信じていたのであろうか。そう信じることなしに、政治的文書の自由化を要請することは、絶対王政の崩壊を求めることにほかならないのではあるまいか」(木崎氏、前掲書、181ページ)
 マルゼルブの「出版論」が提起する問題が、単なる情報処理史やメディア論の枠組みのなかにとどまらないのは明らかである。

【出版自由論】
 この著作は1788年末に執筆されている。この年の8月にはすでに、全国身分会議(三部会)を翌年に招集することが決定されていた。「国王が身分会議を召集するということは、国民の意志を問うということであり、国民は自由に語る権利を国王によって承認されたということである。この自由の内実はいかなるものであるべきか。「出版自由論」を書くマルゼルブの目的はここにあったはずである。」(木崎氏、前掲書、188ページ)
 「同時に考慮すべきことは、フランスの政治的状況が急激に変動しており、マルゼルブ自身もまた、このとき、二度目の大臣職を去ったばかりの時期であったということである。しかも、フランス王政を救おうとする大臣マルゼルブの提案がほとんどまったく無視されてきた末にかれが辞職したということを忘れてはならない。絶対君主が大臣のことばにさえ耳を傾けないというのなら、一体だれのことばに耳を傾けうるというのであろうか。この点では、マルゼルブはおそらく、絶望に近い気分を味わったにちがいない。にもかかわらず、道理の声は国王の耳に届かなければならない。マルゼルブの「出版自由論」は、なによりもまず、この状況下に書かれたものとして理解されなければならない。これはすでに、革命史の文献に属する。」(木崎氏、前掲書、188ページ)
 本書全体の構成は次のとおり。
 @出版の自由の利点と欠点。
 A法規に反する寛大さの帰結。
 B法規に反する寛大さの原因。
 C検閲か裁判か。
 Dイギリスの法はフランスに適するか。
 Eイギリス法とフランス法の結合。
 「出版自由論」の主旨は単純明快であると木崎氏は指摘する。その理由はなぜか。「マルゼルブは、この「出版自由論」ではもはや原理的考察に精力を注ぐ必要はなく、当面の具体的問題をとりあげればよかったのである、第二に注意すべきことは、1788年末という時期が要求しているものは、とりわけ未来に向けた具体的にして単純な計画案であったということである。抽象論や回顧録に人は注意の眼を注ぎはしなかったであろう。必要なのは、今日の行動の指針であった。そして、マルゼルブの「出版自由論」はまさに、その要求に応えるものであった。」(木崎氏、前掲書、199ページ)
 マルゼルブは公的討論こそが真理への道であるとし、次のように、その討論の基礎としての言論・出版の自由を擁護する。
 啓蒙されるべきなのは代議員だけではない。「かれらは国民の代表にすぎない。国民全体からこそかれらは指示を受けるべきなのである。国民全体からかれらは使命を受けとるのであり、したがって、教化される必要があるのは国民全体である。」国民議会は、出版の自由がないなら、過去の身分会議のように、不完全な国民代表でしかないだろう。国民が啓発されているなら、多くの不幸が避けられるであろう。弁護士が言論の自由を持つごとく、真理を探す人も自由を持たなければならない。
 若干の著者は危険なことをいうだろう。「しかし、もっと悲しむべきことは、それに反論する人々にたいして法が沈黙を課すことによって、戦場がかれらのものとなり、公衆が、新しい見解を議論の余地なき真実とみなすように慣れることである。」
 検閲を義務としないで残すのがよい。検閲はつねに恣意的であるといわれざるをえない。しかし、「著者が敵を作るような著作によってしか、文学も栄えず、理性も進歩しないのである。」
 「有害な書物の売買を完全に阻止しようなどと気負ってはならない。また、この幻想的な期待によって、出版の手段を通して国民に語るという正当な自由を市民に与えることを妨げてはならない。この自由は現在の状勢においてはきわめて必要なものであり、国民が欲し、国王が国民に与えようとしている国制の本質的な部分であるだろう。」
 本書をとおしてマルゼルブが提案するのは、検閲を受けるか否かは著者の自由とし、検閲を受けた著者は訴追を免れるべしという計画である。マルゼルブによれば、この方法は完全ではない。国民が十分に啓蒙されて、検閲が不要となるまでの措置である。

【結論ーー思想と表現の自由へ】
 「出版論」「出版自由論」をとおして木崎氏のマルゼルブ評価は次のようなものである。すぐれた分析というほかにない。
 「マルゼルブの理論は現実妥協的だ、とひとはいうだろうか。しかし、それは適用の側面においてであって、原理の点においてではない。18世紀のなかばにおいてすでに、出版の自由の原則を確立したとき、そしてーーこの原則が不可避的に伴っていることだがーー、絶対王政を否認し、全国身分会議を、つづいて国民議会を要求したとき、マルゼルブは、フランスのリベラルな思潮の先頭に立っていたのである。しかも、かれは、この絶対王政の最高官僚の一人であった。この矛盾こそ、かれの生涯を性格づけるさまざまな矛盾のうちの最大のものであり、その生涯に悲劇的色彩を与えたものであった。」(木崎氏、前掲書、208〜9ページ)
 あえて補足すれば、マルゼルブが特権階級による高等法院(パルルマン)の代わりに全国身分会議の招集を要求したとき、すでに、この身分会議において自由な発言が確保されるのでなければ、会議は無意味であると考えていたことである。マルゼルブは、革命だけではなく、革命の結果をも予測していたことになる。そして革命の結果を予測したとき、マルゼルブは自己の運命をすでに見とおしていたといってよい。



マルゼルブの項へ

18世紀フランスの出版統制