17世紀人物誌

近代知確立の先駆者たち

Lexique des personnages de 17e siecle


ル・ブラン
Vincent Le Blanc (1554年−1640年頃)

 フランスの探検家。20歳代から60歳代にかけてアジア、アフリカ、アメリカ(カナダを含む)を広く探険し、没後の1648年にその手記が『マルセイユ人ヴァンサン・ル・ブラン氏の著名な旅行(Les Voyages fameux du sieur Vincent Le Blanc marseillois)』として出版された。

マレルブ
Francois de Malherbe (1555年頃−1628年)

 ルネサンス末期から古典主義への移行期に活動、フランス語と詩法の純化につとめ、フランスにおける古典主義の創始者と見なされる詩人、批評家。1577年にアンリ2世の庶子アンリ・ダングレームに仕えたが、1586年、その暗殺によって失職。その後『デュペリエ氏への慰め(Consolation a Duperier)』などを書く。この詩と前後して書いたオードがマリー・ド・メディシスの目にとまり、1605年に宮廷入りした。

モンテヴェルディ
Claudio Monteverdi (1567年−1643年)

 ルネサンス末期のマニエリスム的な音楽から「バロック」への転機に活動し、ポリフォニー音楽を集大成すると同時に、旋律中心の新たな音楽技法の道を切りひらいたイタリアの作曲家。1587年に多声部の最初のマドリガーレ集を出版。1590年、マントヴァ宮廷に出仕。1607年、フィレンツェで生まれたオペラをマントヴァに導入するため『オルフェオ』を作曲、上演。その成功によってオペラという新しいジャンルを定着させた。1613年にヴェネツィアの聖マルコ教会大聖堂の楽長に就任しヴェネツィアで没。最晩年に『ウリッセの帰還』(1641年)、『ポッペアの戴冠』(1642年)という二つのオペラを作曲、音楽とドラマの結びつきを強固なものにした。

グロティウス
Hugo Grotius [Huig de Groot]
 (1583年−1645年)

 「国際法の父」と呼ばれるネーデルラント(オランダ)生まれの法学者。
 弁護士として出発、1603年に起こったオランダ商船によるポルトガル船捕獲事件を受け、この事件を正当化する狙いから、1604〜6年に航行・交易の自由を主張した『捕獲法論』を執筆した。この著作はグロティウスの生前に刊行されることはなかったが、1609年、そのなかの第三部第12章を修正を加えたうえで抜き出し、『自由海論』として匿名で出版して国際的な大論争を引き起こした。1618年、ネーデルラントで強い影響力をもっていたカルヴィニズムの正統派論争とからむ政争にまきこまれて逮捕、終身禁固を宣告され、1621年に脱出してフランスに亡命。フランスのルイ13世の庇護のもと主著『戦争と平和の法』(1625年)を著した。その後、1631年にネーデルラントに帰国するが、祖国では受け入れられず、ハンブルクに退去。スウェーデン、フランスなどを転々とし、海難事故で死亡した。
 フランス亡命以降の著作は神学関係が中心であり、最近のグロティウス研究の主流は、グロティウスを法学者としてのみとらえるのではなく、神学を含めたトータルな思想のなかで、法律関係の著作の意味、ひいてはその法思想をとらえるという傾向にある。
 くわしくは特集ページ参照。

ヤンセニウス
Cornelius Jansenius (1585年−1638年)

 ジャンセニウスまたはヤンセン。スペイン領フランドル、イーペルの司教。遺著『アウグウティヌス』(1640年刊)のなかで説いた神の恩寵と人間の本性の関係についての学説が、ローマ法王庁によって断罪される。
 フランスのポール・ロワイヤル修道院関係者を中心とする、ヤンセニウスの主張を支持しローマ法王の勅書が規定する「信仰宣誓書」に署名しない人たちはジャンセニスト(ヤンセン派)と呼ばれ、その主張そのものはジャンセニスム(ヤンセン主義)と呼ばれる。ジャンセニストは、神の恩寵を重視し人間の自由意志の役割を低く見る。またジャンセニストは、同じカトリックでありながら彼らの立場とは反対に、自由意志や人間が自力で善を行いうる可能性を評価する立場をペラギウス派的であり、原罪の否定につながるとして攻撃した。ジャンセニストの立場は、信仰的にはカトリック内部の神秘派・厳格派として理解できるが、ローマ法王の勅書を無視し、フランス国王が要求する「信仰宣誓書」への署名を拒否するという点では、組織内の反体制派と理解でき、この点から、国王の絶対的な地位を強化しつつあるフランス王権によって<政治的に>弾圧されたといっていい。
【参照】
Jansenius and Jansenism from <Catholic Encyclopedia> on web

シュッツ
Heinrich Schutz (1585年−1672年)

 ドイツの作曲家。1609年にヴェネツィアに留学し、当時の最新の音楽にふれる。1613年に帰国し、1617年にドレスデン宮廷礼拝堂付き作曲家に就任。しかしその翌年に30年戦争がはじまり、音楽活動を制限された。オラトリオをはじめとする宗教曲の分野に傑作が多く、バッハの先駆者の一人。代表作に『音楽による葬送』(1636年)など。

ホップス
Thomas Hobbes (1588年−1679年)

 イギリス清教徒革命の動乱期を生きた哲学者・法思想家。自然状態を「万人の万人に対する闘争」と定義したことで知られる。最初の著作『法学要綱(Elements of Law, Natural and Politics)』(1640年)では、主権の絶対性と不可分性を主張するが、執筆直後にフランスに亡命。匿名で『市民論(De Cive)』を著した。その後、フランスで英国皇太子(後のチャールズ2世)の数学教師となる。1651年には主著『リヴァイアサン(Leviathan or the Matter, Form and Power of a Commonwealth Ecclesiastical and Civil)』を著し、それをめぐる論争の中で密かに英国に帰国した。
 ホップスの政治的著作を貫く基本テーマは、人々が快適に生活できるためには、合意(契約)によって共通権力を形成し、それを行使する代表を創設しなくてはならないということである。しかし清教徒革命中に帰国したからもわかるように、必ずしも君主制(絶対王制)を理想とするのではない。

ガッサンディ
Pierre Gassendi (1592年−1655年)

 フランスの唯物論的哲学者。アリストテレス哲学への反駁からエピクロス哲学の復興へ進む。デカルトの『省察』に対する批評を執筆したのをきっかけに、このエピクロス主義をジョン・ロックの経験論を予告する懐疑的認識論に深化させた。

デカルト
Rene Descartes (1596年−1650年)

 近代哲学の創始者。フランスに生まれ、1628年にオランダに移住。スウェーデンで客死した。哲学および自己の存在の根拠を同時に定式化した命題「我思う、ゆえに我あり」はあまりにも有名。これによって哲学は神の視点(客観主義)から解放され、自己存在の明証性を基準にして真理(存在)を判断していくこととなった。彼が「近代哲学の父」と呼ばれるゆえんである。
 形而上学の分野でのデカルトの功績は大きいが、次いでデカルトは、自己が確立した形而上学的な命題を自然学の分野にも適用していくことを構想し、物理学(宇宙論)においては「渦動説」を唱え、二元論的な立場からの精神と身体の結合法則構築を試みた。しかしこれらの説は、17世紀後半から、ニュートン学説、ロックらの経験論学説、デカルトの立場を発展的に解消した新たな合理主義学説から、旧説として激しい批判にさらされることになる。
 主著に『方法序説(Discours de la methode)』(1637年)、『省察(Meditationes de prima philosophia)』(1641年)、『哲学の原理(Principia philosophiae)』(1644年)、『情念論(Les passions de l'ame)』(1649年)など。
【参考】
真理の形而上学ーーデカルトとその時代」(山田弘明著、世界思想社、2001年)

ロゲリウス
Abraham Rogerius (生年不詳−1649年)

 オランダ人のアジアへの伝道家。南インド、バタヴィアに滞在。ヨーロッパへのインド文化紹介者の一人。没後の1651年にオランダで 『偶像崇拝の劇場』(フランス語の正式タイトルは『偶像崇拝の劇場または隠れた異教の認識に至るための開かれた門(Theatre de l'Idolatrie, ou la Porte ouverte pour parvenir a la connoissance du Paganisme cache)』が出版され、1670年に仏訳された。

コルネイユ
Pierre Corneille (1606年−84年)

 フランスの古典主義を代表する劇作家。ほぼ半世紀にわたって35編の劇作品を書いた。その多くは英雄的な主人公の苦難を描く。スペインを舞台にした『ル・シッド』(1637年)により名声を確立。しかし『ル・シッド』は批評家によって筋の複雑さ、舞台の移動などが非難され、3年間の沈黙ののち立て続けに発表した『オラース』(1640年)、『シンナ』(1641)、『ポリュークト』(1642)によって名声を不動のものにした。

スカロン
Paul Scarron (1610年−60年)

 フランスの作家。詩、劇、小説などさまざまな分野で活躍。1645年に喜劇『ジョドレ、または主人になった下男(Jodelet, ou le maitre valet)』で評判となる。未完の『滑稽旅役者物語(Roman comique)』はユーモアと写実的な風俗描写ですぐれている。また高貴な内容を世俗的な文体で語るビュルレスクの分野でも活躍し『戯作ウェルギリウス(Le Virgile travesti)』を執筆(1648年−52年)。ルイ14世と秘密結婚したマントノン夫人の最初の夫。

アルノー
Antoine Arnauld
 (1612年−94年)

 フランスの神学者、哲学者。ジャンセニスムの理論的指導者。「大アルノー」と呼ばれる。1641年にソルボンヌの神学博士となる。その直後デカルトの『省察』を読んで反論を執筆し(第四駁論)、デカルト自身にも高く評価された。また1643年にジャンセニスムの理論的指導者となり、イエズス会との論争を開始した。ソルボンヌ時代に執筆したイエズス会批判の代表的著述に『イエズス会士たちの倫理神学』がある。ジャンセニスム弾圧の動きのなかで1656年にソルボンヌを追われるとポール・ロワイヤル修道院にたてこもり、ここで抵抗運動を組織するとともに、修道士の教育のために『ポール・ロワイヤル文法(Grammaire de Port-Royal)』(1660年、ランスロとの共著)、『ポール・ロワイヤル論理学(Logique de Port-Royal)』(1662年、ニコルとの共著)などを著述した。1677年にイエズス会やプロテスタントとの論争を再開したが、1679年の庇護者の死を契機にスペイン領フランドル(ベルギー)に亡命した。ここを拠点にして亡くなるまでマールブランシュ、ライプニッツなどと論争を行った。
 アルノーは自己の思想を直接表明した著作はほとんど残さなかったが、その論争書は膨大な量となり、論争相手の思想の明確化に貢献した意義も大きい。

レー(レス)枢機卿
Jean Francois Paul de Gondi, Cardinal de Retz (1613年−79年)

 カトリーヌ・ド・メディシスとともにフランスに移住したフィレンツェ人を祖とするフランス貴族。フロンドの乱の主導者の一人で1652年に投獄され、のちに脱出して国外へ逃亡し、62年に帰国。フロンドの乱を核とする『回想録』が有名。他にジェノヴァ共和国を舞台とする歴史小説『フィエスク伯爵の陰謀(La Conjuration de Comte de Fiesque)』(1639年)がある。ブルターニュの所領(ジル・ド・レーの故地)からレーもしくはレス枢機卿と呼ばれた。

ラ・ロシュフーコー
Francois VI, duc de la Rochefoucauld (1613年−80年)

 フランスの貴族、文学者、モラリスト。1659年から『省察(箴言集)』を書き始め、69年に出版。亡くなるまでその改訂を続けた。なかでも第4版のエピグラム「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」は特に有名。

シラノ・ド・ベルジュラック
Hector Savinien de Cyrano de Bergerac (1619年−55年)

 自由思想(リベルタン)的傾向のフランスの文学者。フロンドの乱初期に宰相マザランを諷刺したが、その後態度を一変した。乱後ダルパジョン公ルイに寄食し、喜劇など書いたが、事故がもとで死亡。没後に空想と諷刺を交えた『月世界旅行記(Histoire comique des etats et empires de la lune)』(57年)、『太陽世界旅行記(Histoire comique des etats et empires du soleil)』(62年)が刊行された。ただしこれらは刊行者によって過激な表現を抑えられた改訂版である。一般的には、彼を主人公とするロスタン(1868年−1918年)の戯曲で有名。

カヴァッツィ・ダ・モンテクッコロ
Giovanni Antonio Cavazzi da Montecuccolo (1621年−78年)

 カプチーノ会の修道士。1654年キリスト教布教のためポルトガル領ルアンダにおもむき、従軍牧師としてアフリカ奥地を探険した。1660年にはマタンバ女王ンジンガに拝謁し、63年の女王の死にも立ち会った。67年に帰国し、布教探険活動の報告として『コンゴ、マタンバ、アンゴラ三王国の歴史的記述(Istorica descrizione de'tre regni Congo, Matamba ed Angola)』を執筆。同書はカヴァッツィの死後1687年にようやく公刊され、1725年に仏訳された。彼は1673年にアンゴラを再訪し、77年に帰国したが、その報告は20世紀まで公刊されなかった。

コンデ公
Louis Ude Bourbon, Prince de Conde (1621年−86年)

 ルイ2世、ブルボン王家の支流ブルボン=コンデ家のフランス貴族、軍人。三十年戦争で華々しく活躍したが、続くフロンドの乱ではルイ14世側と敵対した。このため一時スペインに亡命した後、1659年にフランスに復帰。1670年からオランダへの侵略戦争に出陣し、1675年アルザスで善戦した後引退。モリエール、ラシーヌ、ボワローらと親交した。コンデ家の貴族のなかでも最も有名で、大コンデとも呼ばれる。

ラ・フォンテーヌ
Jean de La Fontaine (1621年−95年)

 ブルジョワ出身の文学者。1664年からオルレアン公未亡人に仕えながらコントや寓話を発表、68年から94年にかけて『寓話詩』を刊行した。

モリエール
Moliere (1622年−73年)

 フランス古典期を代表する喜劇作家。本名ジャン・バチスト・ポクラン。はじめ盛名座という劇団を率いて地方を巡業したのち、1658にパリに進出して『才女気取り』で成功、その後次々に傑作を発表した。主要な作品に『タルチュフ』『ドン・ジュアン』『人間嫌い』『守銭奴』『町人貴族』『病は気から』。最後の作品『病は気から』に出演中舞台で倒れた。

パスカル
Blaise Pascal (1623年−62年)

 フランスの思想家。16歳で「円錐曲線試論」を発表する(1640年)など数学や科学の分野でも大きな足跡を残しているが、デカルト的な合理主義には満足せず、カトリック信仰を重視し、神秘的で厳格な信仰と幾何学的な思想の一体化を模索した。1646年、54年と大きな宗教的回心を体験。以後、当時のカトリック諸派のなかでも厳格なジャンセニスム(ヤンセン派)に同調し、その牙城となっていたポール・ロワイヤル修道院支援を開始した。ポールロワイヤル修道院の指導者アルノーがソルボンヌを追われると、その擁護のために、書簡体の論争書『プロヴァンシャル(田舎の友への手紙)』を刊行し大きな反響を呼び起こした。しかしローマ法王庁とフランス国家体制からのジャンセニスム弾圧はやまず、ジャンセニスムの立場からのキリスト教護教論を準備しながら亡くなった。そのメモは、遺稿集『パンセ』にまとめられている。
 主著は『プロヴァンシャル(Provinciales)』(1656−7年)、『パンセ(Pensees)』(1670年)

モランヴィル
Barthelemy D'Herbelot de Molainville (1625年−95年)

 フランスの東洋学者。1661年に東方言語の翻訳などを担当する国王の秘書官に選ばれた。オスマン・トルコの碩学カティプ・チェレビ(1609年−57年)の『カシュフ・アッズヌーン(Kashf al-zunun、「疑問の除去」)』などに基づき、アラビア、トルコなど「東方」に関する知識の集大成『東方文庫または世界事典(Bibliotheque orientale ou dictionnaire universel)』を編纂した。ただし
『東方文庫』はモランヴィルの生前には完成されず、ガランによって完成され、1697年に出版された。この事典は18世紀にも版を重ね、増補版も出版された。

ニコル
Pierre Nicole (1625年−95年)

 フランスの神学者、論理学者、モラリスト。思想的には穏健なジャンセニスト。アルノーと協力して『ポール・ロワイヤル論理学』を共同執筆、またパスカルの『プロヴァンシャル』の執筆にも協力した。ジャンセニスムをめぐる論争が沈静化してから執筆した『道徳試論』(1670年−78年)とその続編で広い成功を収めた。

ドマ
Jean Domat (1625年−96年)

 フランスの法律思想家。「人間は神により成り、神の為に成る」と主張し、ローマ法を倫理的理論と自然神学によって基礎付けることを試みた。代表的著作は『自然の秩序における市民法(Les Lois civiles dans leur ordre naturel)』(1689年)で、英訳されてイギリスでも読まれた他、ナポレオン法典にも影響している。法学を学んでいた若い頃からのパスカルの友人でジャンセニスト。パスカルの死に際してその私的な書類を委ねられた。

クリスティーナ
Kristina (1626年−89年)

 ヴァーサ家のスウェーデン女王。在位1632年〜54年。フィンランド大公を兼ねる。グスタフ2世アドルフの娘に生まれ、父の死を受けて即位。在位中にグロティウスやデカルトらと交わった。従兄カール10世に譲位したのちカトリックに改宗し、1668年以降はローマに定住した。

ボシュエ
Jacques Benigne Bossuet
 (1627年−1704年)

 17世紀末のフランス・カトリック教会の最高指導者。モーの司教。正統信仰擁護のため、プロテスタントに対してのみならず、カトリック内部でも激しい論争を行った。その数々の棺前演説は、古典的なフランス文学の最高峰の一つとされる。他に、王太子の教育のために書かれた『世界史論』(1681年)などがある。
【参考】
マールブランシュに対するボシュエの懸念 (小サイト内)

ペロー
Charles Perrault (1628年ー1703年)

 民間伝承の収拾と記録を意図したフランスの作家。『赤ずきん』『サンドリヨン(シンデリラ)』などで知られる。1687年にアカデミー・フランセーズで発表したルイ14世の時代を讃える詩がもとで、ボワローとのあいだに文学の価値をめぐる新旧論争が生じた。

スピノザ
Baruch de Spinoza
 (1632年−77年)

 オランダのユダヤ系哲学者。汎神論と唯心論を結合させ「神即実体即自然」と主張した。これによってデカルト来の心身二元論を一元論に再統合し、心身の交通の難問の解決を図った。徹底した無神論者とおそれられた一方では「神に酔える哲学者」ともいわれ、17〜18世紀思想史のなかで独自の地位を占める。
 くわしくは特集ページ参照。

リュリ
Jean Baptiste Lully (1632年−87年)

 フィレンツェで生まれ、フランスのルイ14世の宮廷で活躍した音楽家。オペラ・バレエというジャンルを確立したほか、モリエールの『町人貴族』などにも作曲。

プーフェンドルフ
Samuel von Pufendorf
 (1632年−94年)

 ドイツ生まれの法学者、歴史学者。ファルツ候の庇護のもとドイツのハイデルベルク大学で政治学、 自然法を教えたのちスウェーデンのルンド大学に迎えられ、ここで主著の『自然法と人定法(De jure naturae et gentium)』(1672年)およびそれを要約した 『自然法に基づく人および市民の義務(De Officio Hominis et Civis juxta Legem Naturalem)』(1673年)を次々に発表した。 これらの著作は、理論的にはグロティウスの「社会性」とホッブスの「自己愛」の思想を発展させたものだが、 所有権の安全を重視し、人間の自然状態は平和であり戦争ではないと、ホッブスの考えを明確に否定している。『自然法に基づく人および市民の義務』は、出版直後から1770年代の約100年間にラテン語版、ドイツ語版に加えて、フランス語、英語、イタリア語、ロシア語などに翻訳され、70版を重ねた。
 1677年からは歴史学の研究に転じ、スウェーデン、ブランデンブルクの王侯の事跡を著した。
【参照】
プーフェンドルフの自然法概念(小サイト内)
【参考文献】
「プーフェンドルフの政治思想」(レナード・クリーガー著、倉島隆訳、時潮社、1984年)
「失われた契約理論ーープーフェンドルフ・ルソー・ヘーゲル・ボワソナード」(筏津安恕著、昭和堂、1998年)

ロック
John Locke
 (1632年−1704年)

 イギリスの哲学者。デカルトにはじまる合理論の直観主義と物体観に反対し、経験論を主張した。
 ピューリタン革命中にオックスフォードに学び、王政復古後は、1666年から反国王派アシュリー卿(後の初代シャフツベリー伯)の庇護をうける。しかし、このために83年にオランダに亡命、名誉革命(88年)にともない、新女王に選ばれたメアリとともに英国に帰国した。帰国後、それまで執筆していた著作を次々に公刊して名声を得る。政治理論としては、社会契約説をとる。主著に『統治二論』(1689年)、『人間知性論』(1689年)。ヴォルテール、コンディヤックをはじめ、18世紀フランス思想界には、その信奉者が多い。
 くわしくは、特集ページ参照。

キノー
Philippe Quinault (1635年−88年)

 フランスの劇作家、詩人。リュリの歌劇のために数多くの台本を書いたことでも知られる。

ボワロー
Nicolas Boileau (1636年ー1711年)

 フランスの詩人、批評家、古典派の代表と目される。1687年にペローを批判し、新旧論争の口火を切った。

ティーユモン
Louis Sebastien le Nain de Tillemont (1637年−98年)

 ポール・ロワイヤルに学んだジャンセニストの歴史家。20歳のときに創立後6世紀のキリスト教教会の歴史である 『原初の六世紀の教会の歴史のための覚え書き(Memoires pour servir a l'histoire ecclesiastique des six premiers siecles)』と同時期のローマ皇帝の事績を集めた『教会創立後六世紀に君臨した皇帝と君主の歴史(Histoire des empereurs et autres princes qui ont regne pendant les six premiers siecles de l'Eglise)』を企画し、ポール・ロワイヤル閉鎖後は領地に引き籠もって二つの著作の執筆を続けた。『皇帝と君主の歴史』は1690年に、『覚え書き』は1693年に刊行開始されたが、いずれもティーユモンの生前には完結しなかった。なおティーユモンはギボンの『ローマ帝国衰亡史』にもたびたび引用されている。

マールブランシュ
Nicolas de Malebranche
 (1638年−1715年)

 フランスの哲学者。オラトリオ会修道士。奇しくもルイ14世と生没年が一緒である。
 デカルトの遺稿「人間論」をきっかけに哲学にめざめ、アウグスティヌスの思想とデカルト哲学の総合をめざした。その成果はまず初期の大著「真理の探究」として1674年−75年に発表された。マールブランシュの哲学的主張は、「すべての事物を神において見る」というフレーズで知られ、人間は神のうちなる観念をとおして事物的世界を認識するとして、デカルト流の心身二元論の解決を試みた。また物体の運動を、神を最終的な原因とする「機会原因論」によって説明した。マールブランシュによれば、人間の感覚や想像は真の認識をもたらすものではなく、神のうちなる観念に至るきっかけであった。
 スピノザの思想が危険視され、ライプニッツの主要な著作が公刊されなかったなかで、18世紀には、デカルト流の合理主義哲学の主流はマールブランシュに受け継がれたものと見なされ、マールブランシュ派=新たなデカルト派として、経験論、感覚論や唯物論など、新たな思想潮流と対決していく。
 くわしくは、特集ページ参照。

サン・レアル
Cesar Vichard de Saint-Real (1639年−93年)

 歴史小説を中心とする多分野の作家。代表作『ドン・カルロ』は後にシラーによって戯曲化。

ラシーヌ
Jean Racine (1639年−99年)

 フランス古典期の劇作家。代表作に『アンドロマック』『フェードル』『ベレニス』など。幼少時に両親を亡くしポール・ロワイヤル修道院で教育を受けたため、その作品にはジャンセニスムの影響が強い。

シャルパンティエ
Marc'Antoine Charpentier (1643年 −1704年)

 フランス古典期の作曲家。リュリに対抗してイタリア音楽を擁護したが、このため宮廷社会では受け入れられず、実力と比して不遇だった。代表作に『アシスとガラテアの恋』(1678年)、『アクテオン』(1684年)、『メデ』(1693年)など。

ライプニッツ
Gottfried Wilhelm Leibniz
 (1646年−1716年)

 ドイツの哲学者。「モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱。その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がると同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。学の傾向としては、通常、大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえる。すなわち、ライプニッツによれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」Nouveaux Essais sur l'entendement humainを執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなったため公刊しなかった。
 ライプニッツはカトリックとプロテスタントの両教会を合同させる試みともかかわり、それについてフランス・カトリックを代表するボシュエとたびたび音信した。神学上の著作としては、ベールが「歴史批評辞典」の「ロラリウス」の項の註釈などをとおして行った批判にこたえるべく執筆し、神の存在を擁護する大著「弁神論」Essais de Theodicee(1710年)があり、18世紀に広く読まれた。ただし、ライプニッツが教会合同を構想し(それに失敗し)たことは、カトリック、プロテスタント両派から不信感をうける原因ともなった。
 「力学要綱」「弁神論」を除くと、その著作の大半は未完で、かつ死後相当の時間を経て刊行されたため(現在も全集は完結していない)、17〜18世紀にはライプニッツの学の全貌は完全には理解されず、楽天主義的であるとの誤解を生んだ。哲学的な思索の深さとは裏腹に、後代への直接的な影響の少ない孤峰というべきであろう。
 微積分の発見をめぐるニュートンとの論争でも有名。
【参照】
「ライプニッツの認識論と無意識について」 (小サイト内)
モリヌークス問題への回答 (小サイト内)
【テクスト】
ライプニッツ著作集 (工作舎)

ガラン
Antoine Galland (1646年頃−1715年)

 フランスの東洋学者、ヨーロッパへの『千夜一夜物語』の最初の紹介者、仏語翻訳者。アラビア語の才を認められて1670年にイスタンブール大使館に勤務。1673年にはシリアとレヴァントを探査して古代遺跡のスケッチなどを残した。もたコルベールの命により、その後も数度レヴァントを探査した。帰国後モランヴィルが企画していた『東方文庫』の編纂に助力、モランヴィルの没後それを完成させて出版した。『東方文庫』刊行後はノルマンジーのカンに居住し、1704年、ここで『千夜一夜物語』の刊行を開始した。この翻訳出版は広く話題になり、1709年にはコレージュ・ド・フランスのアラビア語の教授となり亡くなるまでその地位に留まった。一方『千夜一夜物語』の刊行は没後の1717年にようやく完結した。

ベール
Pierre Bayle
 (1647年−1706年)

 フランスのプロテスタント思想家。後にオランダに亡命。オランダで「歴史批評辞典」を公刊した。批判精神にとんだその思想は、「啓蒙の起爆剤」とされる。フランス17世紀末の凄惨な新教徒迫害時代の権力と反権力の二重の圧迫下で、あらゆるドグマティズムへの先鋭な批判の刃を磨きあげ、理性と信仰の相克を徹底的に生き抜いた思想家といえる。また同時に歴史批判の開拓者として独断と偏見の集積のなかで事実の価値を教え、宗教的寛容の旗手としては、「思想の自由」の歴史上に重要な足跡を残した。オランダで客死。
 生涯と著作についての詳細は特集ページ参照。

ダンピア
William Dampier (1651年−1715年)

 イギリスの探検家、著述家。17世紀から18世紀にかけて三度の世界一周を達成。ニューオランダ(オーストラリア)、ニューギニアを探険した最初のイギリス人。1697年に最初の航海の記録 『最新世界周航記(New Voyage Round the World) 』を発表している。

フェヌロン
Francois de Fenelon (1651年−1715年)

 フランス・カトリック教会の重鎮。1689年、ルイ14世の孫ブルゴーニュ公の教育係に任じられる。しかしその後静寂主義(キエティスム)に傾倒し、ボシュエとの論争ののち、1699年にローマ法王から断罪される。また、この時期にフェヌロン意に反して出版された『テレマックの冒険』がルイ14世の逆鱗に触れて失脚、第一線を退く。『テレマックの冒険』はホメロスの『オデュッセイア』の続編で、ユリース(オデュッセウス)の息子テレマック(テレマコス)が父を求めて諸国を遍歴する物語。ほんらいは王太子の教育のための私的な物語として書かれたもので、そのなかであるべき政治が問われ、専制主義が批判されている。

ロングリュ
Louis Du Four de Longuerue (1652年−1733年)

 自由思想的な傾向をもつ歴史家で、その主著『新旧フランスの歴史的地理的記述(Description historique et geographique de la France ancienne et moderne )』(1719年)の一部は、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』にも利用されている。通称ロングリュ師。

ル・ゴビアン
Charles Le Gobien (1653年−1708年)

 イエズス会の著作家。中国伝道団の代理人として珍しい資料を探し求め、『中国における宗教の進歩についての手紙(Lettres sur les progrez de la religion a la Chine)』(1697年)、『キリスト教を優遇する中国皇帝の勅令の話、中国人が孔子ならびに故人によせる名誉についての説明付き(Histoire de l'edit de l'empereur de la Chine en faveur de la religion chrrtienne avec un eclaircissement sur les honneurs que les Chinois rendent a Confucius et aux morts)』(1698年)を続けて公刊。さらに『キリスト教に新たに帰依したマリアナ諸島の話(Histoire des Isles Mariannes nouvellement converties a la religion chretienne)』(1700年)を発表した。これらの出版は、その後『教化的で珍しい手紙』シリーズとして継続された。

コレッリ
Arcangelo Corelli (1653年−1713年)

 イタリアの作曲家。バロック期の器楽曲の大成者。ボローニャ、ローマで活躍、ローマではクリスティーナ女王にも仕えた。1708年に引退。引退後作品を整理し多くの作品を破棄したため、残された作品は少ないが、それらは厳選された傑作ぞろいである。作品5のヴァイオリン・ソナタ集、「クリスマス協奏曲」を含む作品6の合奏協奏曲集が特に有名。

ル・コント
Louis Le Comte (1655年−1713年)

 中国伝道団の一員として1688年に中国を訪問したイエズス会士。帰国後の1696年に『中国の現状についての新たな覚え書き(Nouveau memoire sur l'etat present de la Chine)』を公刊。

モリヌークス
William Molyneux
 (1656年−98年)

 アイルランドの貴族で科学者、哲学者。デカルトの「省察」を英訳し、自身でも「新屈折光学」Dioptrica nova(1692年)を著述。またアイルランドにジョン・ロックの哲学を広めるのに貢献。
 1693年に、先天性の盲人が視覚を得た時に物体がどのように見えるかとロックに質問し、ロックが「人間知性論」でこの問題を取り上げたことから、この視覚認識をめぐる問題は、「モリヌークス問題」として、17〜18世紀の認識論のなかで大きな議論の的となった。
 なお、Molyneuxという名前は、モリニュクス、モリヌー等と表記されることもあるので要注意。
【参照】
モリヌークス問題(感覚と認識について) (小サイト内)

フォントネル
Bernard Fontenelle (1657年−1757年)

 フランスの文筆家、哲学者。1691年にアカデミー・フランセーズ会員に選出された。10数編のオペラ、戯曲、小説を残す。思想家としては、『世界の複数性についての対話』(1686年)が重要で、このなかでデカルトの宇宙論を紹介したほか、他の惑星における生命の存在を検討した。晩年まで活発な執筆活動を行った。
【参考】
『世界の複数性についての対話』(赤木昭三訳、工作舎、1992年)

パーセル
Henry Purcell (1659年−95年)

 イギリスの作曲家。代表作に『ディドとエネアス』(1689年)など。

ブールヴァレ
Paul Poisson de Bourvalais (1660年頃−1719年)

 ルイ14世最晩年の徴税総括請負人を務めた大富豪。ブルターニュ地方レンヌ近郊の農民の子として生まれ、徴税請負で巨万の富を貯えた。パリのヴァンドーム広場にブールヴァレ館と呼ばれる豪壮な邸宅を構えたほか、パリ近郊のシャン・シュル・マルヌに城館を建設した。ルイ14世の死(1715年)とともに後ろ盾を失って没落し、翌年バスティーユに収監され、1718年に邸宅は収公された。この邸宅は「ブールヴァレ館」の通称のまま、現在フランス司法省の庁舎となっている。ルサージュの喜劇『テュルカレ』(1709年)のモデルとも言われる。


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