17世紀人物誌

近代知確立の先駆者たち

Lexique des personnages de 17e siecle


グロティウス
Hugo Grotius [Huig de Groot]
 (1583年−1645年)

 「国際法の父」と呼ばれるネーデルラント(オランダ)生まれの法学者。
 弁護士として出発、1603年に起こったオランダ商船によるポルトガル船捕獲事件を受け、この事件を正当化する狙いから、1604〜6年に航行・交易の自由を主張した「捕獲法論」を執筆した。この著作はグロティウスの生前に刊行されることはなかったが、1609年、そのなかの第三部第12章を修正を加えたうえで抜き出し、「自由海論」として匿名で出版して国際的な大論争を引き起こした。1618年、カルヴィニズムの正統派論争とからむ政争にまきこまれて逮捕、終身禁固を宣告され、1621年に脱出してフランスに亡命。フランスのルイ13世の庇護のもと主著「戦争と平和の法」(1625年)を著した。その後、1631年にネーデルラントに帰国するが、祖国では受け入れられず、ハンブルクに退去。スウェーデン、フランスなどを転々とし、海難事故で死亡した。
 フランス亡命以降の著作は神学関係が中心であり、最近のグロティウス研究の主流は、グロティウスを法学者としてのみとらえるのではなく、神学を含めたトータルなグロティウスの思想のなかで、法律関係の著作の意味、ひいてはその法思想をとらえるという傾向にある。
 くわしくは特集ページ参照。

ヤンセニウス
Cornelius Jansenius (1585年−1638年)

 ジャンセニウスまたはヤンセン。スペイン領フランドル、イーペルの司教。遺著「アウグウティヌス」(1640年刊)のなかで説いた神の恩寵と人間の本性の関係についての学説が、ローマ法王庁によって断罪される。
 フランスのポール・ロワイヤル修道院関係者を中心とする、ヤンセニウスの主張を支持しローマ法王の勅書が規定する「信仰宣誓書」に署名しない人たちはジャンセニスト(ヤンセン派)と呼ばれ、その主張そのものはジャンセニスム(ヤンセン主義)と呼ばれる。ジャンセニストは、神の恩寵を重視し人間の自由意志の役割を低く見る。またジャンセニストは、同じカトリックでありながら彼らの立場とは反対に、自由意志や人間が自力で善を行いうる可能性を評価する立場をペラギウス派的であり、原罪の否定につながるとして攻撃した。ジャンセニストの立場は、信仰的にはカトリック内部の神秘派・厳格派として理解できるが、ローマ法王の勅書を無視し、フランス国王が要求する「信仰宣誓書」への署名を拒否するという点では、組織内の反体制派と理解でき、この点から、国王の絶対的な地位を強化しつつあるフランス王権によって<政治的に>弾圧されたといっていい。
【参照】
Jansenius and Jansenism from <Catholic Encyclopedia> on web

ホップス
Thomas Hobbes (1588年−1679年)

 イギリス清教徒革命の動乱期を生きた哲学者・法思想家。自然状態を「万人の万人に対する闘争」と定義したことで知られる。最初の著作「法学要綱」Elements of Law, Natural and Politics(1640年)では、主権の絶対性と不可分性を主張するが、執筆直後にフランスに亡命。匿名で「市民論」De Civeを著した。その後、フランスで英国皇太子(後のチャールズ2世)の数学教師となる。1651年には主著「リヴァイアサン」Leviathan or the Matter, Form and Power of a Commonwealth Ecclesiastical and Civilを著し、それをめぐる論争の中で密かに英国に帰国した。
 ホップスの政治的著作を貫く基本テーマは、人々が快適に生活できるためには、合意(契約)によって共通権力を形成し、それを行使する代表を創設しなくてはならないということである。しかし清教徒革命中に帰国したからもわかるように、必ずしも君主制(絶対王制)を理想とするのではない。

ガッサンディ
Pierre Gassendi (1592年−1655年)

 フランスの唯物論的哲学者。アリストテレス哲学への反駁からエピクロス哲学の復興へ進む。デカルトの「省察」に対する批評を執筆したのをきっかけに、このエピクロス主義をジョン・ロックの経験論を予告する懐疑的認識論に深化させた。

デカルト
Rene Descartes (1596年−1650年)

 近代哲学の創始者。フランスに生まれ、1628年にオランダに移住。スウェーデンで客死した。哲学および自己の存在の根拠を同時に定式化した命題「我思う、ゆえに我あり」はあまりにも有名。これによって哲学は神の視点(客観主義)から解放され、自己存在の明証性を基準にして真理(存在)を判断していくこととなった。彼が「近代哲学の父」と呼ばれるゆえんである。
 形而上学の分野でのデカルトの功績は大きいが、次いでデカルトは、自己が確立した形而上学的な命題を自然学の分野にも適用していくことを構想し、物理学(宇宙論)においては「渦動説」を唱え、二元論的な立場からの精神と身体の結合法則構築を試みた。しかしこれらの説は、17世紀後半から、ニュートン学説、ロックらの経験論学説、デカルトの立場を発展的に解消した新たな合理主義学説から、旧説として激しい批判にさらされることになる。
 主著に「方法序説」Discours de la methode(1637年)、「省察」Meditationes de prima philosophia(1641年)、「哲学の原理」Principia philosophiae(1644年)、「情念論」Les passions de l'ame(1649年)など。
【参考】
真理の形而上学ーーデカルトとその時代」(山田弘明著、世界思想社、2001年)

アルノー
Antoine Arnauld
 (1612年−94年)

 フランスの神学者、哲学者。ジャンセニスムの理論的指導者。「大アルノー」と呼ばれる。1641年にソルボンヌの神学博士となる。その直後デカルトの「省察」を読んで反論を執筆し(第四駁論)、デカルト自身にも高く評価された。また1643年にジャンセニスムの理論的指導者となり、イエズス会との論争を開始した。ソルボンヌ時代に執筆したイエズス会批判の代表的著述に「イエズス会士たちの倫理神学」がある。ジャンセニスム弾圧の動きのなかで1656年にソルボンヌを追われるとポール・ロワイヤル修道院にたてこもり、ここで抵抗運動を組織するとともに、修道士の教育のために「ポール・ロワイヤル文法」Grammaire de Port-Royal(1660年、ランスロとの共著)、「ポール・ロワイヤル論理学」Logique de Port-Royal(1662年、ニコルとの共著)などを著述した。1677年にイエズス会やプロテスタントとの論争を再開したが、1679年の庇護者の死を契機にスペイン領フランドル(ベルギー)に亡命した。ここを拠点にして亡くなるまでマールブランシュ、ライプニッツなどと論争を行った。
 アルノーは自己の思想を直接表明した著作はほとんど残さなかったが、その論争書は膨大な量となり、論争相手の思想の明確化に貢献した意義も大きい。

ラ・ロシュフーコー
Francois VI, duc de la Rochefoucauld (1613年−80年)

 フランスの貴族、文学者、モラリスト。1659年から『省察(箴言集)』を書き始め、69年に出版。亡くなるまでその改訂を続けた。なかでも第4版のエピグラム「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない」は特に有名。

パスカル
Blaise Pascal (1623年−62年)

 フランスの思想家。16歳で「円錐曲線試論」を発表する(1640年)など数学や科学の分野でも大きな足跡を残しているが、デカルト的な合理主義には満足せず、カトリック信仰を重視し、神秘的で厳格な信仰と幾何学的な思想の一体化を模索した。1646年、54年と大きな宗教的回心を体験。以後、当時のカトリック諸派のなかでも厳格なジャンセニスム(ヤンセン派)に同調し、その牙城となっていたポール・ロワイヤル修道院支援を開始した。ポールロワイヤル修道院の指導者アルノーがソルボンヌを追われると、その擁護のために、書簡体の論争書「プロヴァンシャル(田舎の友への手紙)」を刊行し大きな反響を呼び起こした。しかしローマ法王庁とフランス国家体制からのジャンセニスム弾圧はやまず、ジャンセニスムの立場からのキリスト教護教論を準備しながら亡くなった。そのメモは、遺稿集「パンセ」にまとめられている。
 主著は「プロヴァンシャル」Provinciales(1656−7年)、「パンセ」Pensees(1670年)

ボシュエ
Jacques Benigne Bossuet
 (1627年−1704年)

 17世紀末のフランス・カトリック教会の最高指導者。モーの司教。正統信仰擁護のため、プロテスタントに対してのみならず、カトリック内部でも激しい論争を行った。その数々の棺前演説は、古典的なフランス文学の最高峰の一つとされる。
【参考】
マールブランシュに対するボシュエの懸念 (小サイト内)

スピノザ
Baruch de Spinoza
 (1632年−77年)

 オランダのユダヤ系哲学者。汎神論と唯心論を結合させ「神即実体即自然」と主張した。これによってデカルト来の心身二元論を一元論に再統合し、心身の交通の難問の解決を図った。徹底した無神論者とおそれられた一方では「神に酔える哲学者」ともいわれ、17〜18世紀思想史のなかで独自の地位を占める。
 くわしくは特集ページ参照。

プーフェンドルフ
Samuel von Pufendorf
 (1632年−94年)

 ドイツ生まれの法学者、歴史学者。ファルツ候の庇護のもとドイツのハイデルベルク大学で政治学、 自然法を教えたのちスウェーデンのルンド大学に迎えられ、ここで主著の「自然法と人定法」 De jure naturae et gentium(1672年)およびそれを要約した 「自然法に基づく人および市民の義務」 De Officio Hominis et Civis juxta Legem Naturalem(1673年)を次々に発表した。 これらの著作は、理論的にはグロティウスの「社会性」とホッブスの「自己愛」の思想を発展させたものだが、 所有権の安全を重視し、人間の自然状態は平和であり戦争ではないと、ホッブスの考えを明確に否定している。「自然法に基づく人および市民の義務」は、出版直後から1770年代の約100年間にラテン語版、ドイツ語版に加えて、フランス語、英語、イタリア語、ロシア語などに翻訳され、70版を重ねた。
 1677年からは歴史学に転じ、スウェーデン、ブランデンブルクの王侯の事跡を著した。
【参照】
プーフェンドルフの自然法概念(小サイト内)
【参考文献】
「プーフェンドルフの政治思想」(レナード・クリーガー著、倉島隆訳、時潮社、1984年)
「失われた契約理論ーープーフェンドルフ・ルソー・ヘーゲル・ボワソナード」(筏津安恕著、昭和堂、1998年)

ロック
John Locke
 (1632年−1704年)

 イギリスの哲学者。デカルトにはじまる合理論の直観主義と物体観に反対し、経験論を主張した。
 ピューリタン革命中にオックスフォードに学び、王政復古後は、1666年から反国王派アシュリー卿(後の初代シャフツベリー伯)の庇護をうける。しかし、このために83年にオランダに亡命、名誉革命(88年)にともない、新女王に選ばれたメアリとともに英国に帰国した。帰国後、それまで執筆していた著作を次々に公刊して名声を得る。政治理論としては、社会契約説をとる。主著に『統治二論』(1689年)、『人間知性論』(1689年)。ヴォルテール、コンディヤックをはじめ、18世紀フランス思想界には、その信奉者が多い。
 くわしくは、特集ページ参照。

マールブランシュ
Nicolas de Malebranche
 (1638年−1715年)

 フランスの哲学者。オラトリオ会修道士。奇しくもルイ14世と生没年が一緒である。
 デカルトの遺稿「人間論」をきっかけに哲学にめざめ、アウグスティヌスの思想とデカルト哲学の総合をめざした。その成果はまず初期の大著「真理の探究」として1674年−75年に発表された。マールブランシュの哲学的主張は、「すべての事物を神において見る」というフレーズで知られ、人間は神のうちなる観念をとおして事物的世界を認識するとして、デカルト流の心身二元論の解決を試みた。また物体の運動を、神を最終的な原因とする「機会原因論」によって説明した。マールブランシュによれば、人間の感覚や想像は真の認識をもたらすものではなく、神のうちなる観念に至るきっかけであった。
 スピノザの思想が危険視され、ライプニッツの主要な著作が公刊されなかったなかで、18世紀には、デカルト流の合理主義哲学の主流はマールブランシュに受け継がれたものと見なされ、マールブランシュ派=新たなデカルト派として、経験論、感覚論や唯物論など、新たな思想潮流と対決していく。
 くわしくは、特集ページ参照。

ライプニッツ
Gottfried Wilhelm Leibniz
 (1646年−1716年)

 ドイツの哲学者。「モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱。その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がると同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。学の傾向としては、通常、大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえる。すなわち、ライプニッツによれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」Nouveaux Essais sur l'entendement humainを執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなったため公刊しなかった。
 ライプニッツはカトリックとプロテスタントの両教会を合同させる試みともかかわり、それについてフランス・カトリックを代表するボシュエとたびたび音信した。神学上の著作としては、ベールが「歴史批評辞典」の「ロラリウス」の項の註釈などをとおして行った批判にこたえるべく執筆し、神の存在を擁護する大著「弁神論」Essais de Theodicee(1710年)があり、18世紀に広く読まれた。ただし、ライプニッツが教会合同を構想し(それに失敗し)たことは、カトリック、プロテスタント両派から不信感をうける原因ともなった。
 「力学要綱」「弁神論」を除くと、その著作の大半は未完で、かつ死後相当の時間を経て刊行されたため(現在も全集は完結していない)、17〜18世紀にはライプニッツの学の全貌は完全には理解されず、楽天主義的であるとの誤解を生んだ。哲学的な思索の深さとは裏腹に、後代への直接的な影響の少ない孤峰というべきであろう。
 微積分の発見をめぐるニュートンとの論争でも有名。
【参照】
「ライプニッツの認識論と無意識について」 (小サイト内)
モリヌークス問題への回答 (小サイト内)
【テクスト】
ライプニッツ著作集 (工作舎)

ベール
Pierre Bayle
 (1647年−1706年)

 フランスのプロテスタント思想家。後にオランダに亡命。オランダで「歴史批評辞典」を公刊した。批判精神にとんだその思想は、「啓蒙の起爆剤」とされる。フランス17世紀末の凄惨な新教徒迫害時代の権力と反権力の二重の圧迫下で、あらゆるドグマティズムへの先鋭な批判の刃を磨きあげ、理性と信仰の相克を徹底的に生き抜いた思想家といえる。また同時に歴史批判の開拓者として独断と偏見の集積のなかで事実の価値を教え、宗教的寛容の旗手としては、「思想の自由」の歴史上に重要な足跡を残した。オランダで客死。
 生涯と著作についての詳細は特集ページ参照。

モリヌークス
William Molyneux
 (1656年−98年)

 アイルランドの貴族で科学者、哲学者。デカルトの「省察」を英訳し、自身でも「新屈折光学」Dioptrica nova(1692年)を著述。またアイルランドにジョン・ロックの哲学を広めるのに貢献。
 1693年に、先天性の盲人が視覚を得た時に物体がどのように見えるかとロックに質問し、ロックが「人間知性論」でこの問題を取り上げたことから、この視覚認識をめぐる問題は、「モリヌークス問題」として、17〜18世紀の認識論のなかで大きな議論の的となった。
 なお、Molyneuxという名前は、モリニュクス、モリヌー等と表記されることもあるので要注意。
【参照】
モリヌークス問題(感覚と認識について) (小サイト内)

フォントネル
Bernard Fontenelle (1657年−1757年)

 フランスの文筆家、哲学者。1691年にアカデミー・フランセーズ会員に選出された。10数編のオペラ、戯曲、小説を残す。思想家としては、『世界の複数性についての対話』(1686年)が重要で、このなかでデカルトの宇宙論を紹介したほか、他の惑星における生命の存在を検討した。晩年まで活発な執筆活動を行った。
【参考】
『世界の複数性についての対話』(赤木昭三訳、工作舎、1992年)


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