18世紀人物誌

近代知確立の先駆者たち

Lexique des personnages de 18e siecle


サン=ピエール師
Charles Irenee Castel、通称 abbe de Saint‐Pierre
 (1658年−1743年)

 フランスの作家。1695年にアカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。1712年、ポリニャック枢機卿に同行してユトレヒト国際和平会議を傍聴し、常設の法廷と会議を伴う至上権の同盟を説いた「永久平和の草案」Projet de paix perpetuelleを表した(1713年)。また1718年には、絶えることのない戦争とナントの勅令の廃止等というルイ14世の治世を批判した「ポリシノディー(多元会議制)論」Discours sur la polysynodieを発表し、これが原因でアカデミーを追放された。
 ポリシノディーとはフランス政治の歴史的用語で、普通ルイ14世没後の1715年−1718年のオルレアン公による摂政時代の前半を指す。ルイ14世が亡くなったとき、新王ルイ15世は5歳に過ぎず、オルレアン公は、ブルジョワジー出身の大臣や書記官が国政を左右するのを恐れ、摂政直属の顧問会議によって政務を行おうとした。この制度は1718年にもとにもどされ、また1723年4月に、オルレアン公が摂政から首相となって一応ルイ15世の親政が始まったことで、さらには同年12月のオルレアン公の死によって完全に解消した。サン=ピエール師はポリシノディーに反対したほとんど唯一の人でもあったのである。彼の作品の大部分は「政治・倫理著作集」Ouvrages de politique et de moraleというタイトルで1738年−1741年に再版されたが、ゲリエがとりあげた「政治年代記」Annales Politiquesは、サン=ピエール師の死後1757年にロンドンで刊行されている。

メリエ
Jean Meslier (1664年−1729年)

 フランス北東部の寒村エトレピニーの司祭。カトリック司祭としての職務の傍ら無神論・唯物論の信念にもとづく膨大な覚え書を執筆し遺書として残した。これらの覚え書は生前はまったく知られていなかったが、非合法の写本によって1730年代にヴォルテールの知るところとなり、1761-2年に同じくヴォルテールの手によってその抜粋『ジャン・メリエの見解抜粋』が秘密出版され、部分的ながらその思想が広く知られるにいたった。その後19世紀にはいって覚え書の全文がようやく刊行され、キリスト教批判にとどまらない、メリエの社会批判、共産主義的思想の全貌がようやく明らかとなった。
【テクスト】
『ジャン・メリエ遺言書 すべての神々と宗教は虚妄なることの証明』(石川光一・三井吉俊訳、法政大学出版局、2006年)

ジャン・シャルル・ド・フォラール
Jean Charles de Folard (1669年−1752年)

 フランスの軍人、作家、軍略家。フォラール騎士と呼ばれる。ルイ14世晩年の多くの戦争に参加。1713年のユトレヒト条約後は一時期フランスを離れ、マルタ騎士団、スウェーデン王カール12世の軍隊に参加。スウェーデン滞在中に古代ギリシアの歴史家ポリュビオスの研究をはじめ、フランス帰国後に『ポリュビオスの考察における戦争についての新発見(Nouvelles decouvertes sur la guerre dans une dissertation de Polybe)』(1724年)、『ポリュビオス「歴史」注解(Commentaires sur l'Histoire de Polybe)』(1735年)を表した。晩年はジャンセニスムの一派・痙攣派に属した。

アウグスト2世
August U
 (1670年−1733年)

 18世紀はじめのポーランド国王。ドイツのザクセン選帝候の家に生まれ、1694年、フリードリヒ・アウグスト1世として選帝候の地位を継ぐ。1696年ポーランド国王継承問題に介入、ハプスブルク家の援助などにより、97年6月にポーランド国王に選出された。1699年以降は、ロシアおよびデンマークと同盟を結びスウェーデンとのあいだに北方戦争をおこしたが、スウェーデン軍のためにヴィルノ、ワルシャワ、クラクフという重要拠点を占領された。このためポーランドはアウグスト派とスウェーデン派に分裂、1704年、スウェーデン派はスタニスワフ=レシチンスキを国王に選出した。その後、ロシア軍の勝利でアウグストはポーランドに戻り国王に復位するが、貴族の反発と外国の干渉で政治上の成果はほとんどあがらなかった。政治上の無能さと反比例するような常軌を逸した行為の多さや女性関係から「強健王」と呼ばれる。
  アウグスト2世の名前を歴史に残すのは、むしろヨーロッパ最初の磁器マイセン窯のパトロンとしてで、アウグスト自身の東洋趣味や錬金術への関心に加え、北方戦争によって不振となったザクセン経済の振興という国策上からも強権的に研究を行わせ、1708−9年、ヨーロッパ最初の硬質磁器焼成を成功させた。
【参照】
ポーランド小史(小サイト内)

ブルシエ
Laurent Francois Boursier (1679年−1749年)

ソルボンヌ大学の神学者。ジャンセニスムを断罪した『ウニゲニトゥス』勅書(1713年)への反対派で1735年に流刑となっている。またその著作『被造物に対する神の行動(L'action de Dieu sur ses creatures)』(1713年)は、イエズス会ならびにマールブランシュの反論(『物理的予動についての省察(Reflexions sur la premotion physique)』)を呼んだ。

ヴォルフ
Christian Wolff
 (1679年−1754年)

 ドイツ啓蒙思想を代表する哲学者。ライプニッツの知遇を得てハレ大学で教職につく。その後マールブルク大学に移ったが、1740年にハレ大学に迎えられ、 最後は同大学の総長に就任した。哲学者としては、第一原理からの論理的推論によって、あらゆる学を演繹的、 <百科全書的>に統合することを目指し、歴史的事実は、ライプニッツ流の同一律(矛盾律)と充足理由律から発する 観念の可能性が実現したものと考えた。法思想家としては自然法の系譜に属し、自然状態における人間の行為を研究するのが 倫理学、市民社会における人間の行為を研究するのが政治学とした。主著の「自然法」Jus naturaeと「人定法」 Jus gentiumを1冊にまとめた要約が、「自然法と人定法の諸原理」Principes du droit de la Nature et des Gent として1758年に刊行されている。
 ヴォルフの思想はドイツ内部で広い影響力をもっていただけでなく、ヨーロッパに広く受けいれられ、「百科全書」の哲学関係の項目のいくつかは、 ヴォルフから採られている。
【参考文献】
「私法理論のパラダイム転換と契約理論の再編ーーヴォルフ・カント・サヴィーニ」(筏津安恕著、昭和堂、2001年)

ラモー
Jean Philippe Rameau (1683年ー1764年)

 フランスの音楽理論家、作曲家。1722年に『和声論』を出版、まず理論家としての地位を確立したが、このためかえって作曲家として認識されるのが遅れた。後に歌劇『イポリートとアリシー』(1733年初演)、オペラ・バレエ『優雅なインドの国々』(1735年初演)によって作曲家として不動の地位を築いた。彼の歌劇には自身の機能和声と調性の理論の具体化という側面があるが、1752年のイタリア歌劇公演を機に起こった「ブフォン戦争」でフランス派の代表として旋律を重視するルソー、ディドロなどに批判された。ただしこの論争以前はディドロとも良好な関係をもっており、当初は『百科全書』への寄稿も予定されていた(ラモーが抜けた穴はルソーが埋めた)。事実、ダランベールは『ラモー氏の原理によった理論的・実践的音楽の要素』を出版している(1752年)。ディドロの小説『ラモーの甥』(1761年頃執筆)は、ラモーの甥のヘボ音楽家ジャン=フランソワ・ラモーを主人公とするもの。

レオミュール
Rene Antoine Ferchault de Reaumur
 (1683年−1757年)

 フランスの生物学者、物理学者。1708年にフランス科学アカデミーに入会。ルイ14世にフランスの産業と文化に関するレポートを提出した。続いて、鉄と鋼の新たな生産法、半透明な磁器の生産法を次々に考案、また1730年には水の氷点とアルコールの沸点を利用した温度計(レオミュール温度計=列氏温度計)を提唱した。
 生物学の分野では、1734年に本格的な昆虫学の研究書「昆虫の自然史の報告」Memoires pour servir a l'histoire des insectesを公刊した。これは42年までに6巻にまとめられる。また消化作用の研究でも知られ、1752年に胃液を分離した。

バッハ
Johann Sebastiann Bach (1685年ー1750年)

 ドイツの音楽家、作曲家。バロック音楽の完成者。ヴァイマール、ケーテン、ライプツィヒの宮廷や教会に仕え、そこで演奏されるための音楽を作曲し、しばしば自身で演奏した。バッハの時代はさまざまな楽器が改良された演奏上の転換期であり、それらの新しい楽器に合わせ、機能をフルに活用できる作品を多数作曲した。またバッハは敬虔なルター派であり、声楽入りの宗教音楽にも傑作が多い。代表作に「ブランデンブルク協奏曲」(1720年頃作曲)、「マタイ受難曲」(1726年〜27年頃作曲)、「平均律クラヴィア曲集」(1722年〜42年作曲)、「ミサ曲ロ短調」(1724年〜49年頃作曲)など。

ヘンデル
Georg Friedrich Handel (1685年ー1759年)

 ドイツに生まれの作曲家。1710年にハノーファー選帝侯に仕えたことが縁となり、1727年に選帝侯が国王を兼ねていたイギリスに帰化した。代表作に歌劇『ジュリアス・シーザー』(1724年初演)、オラトリオ『メサイア』(1743年初演)など。

バークリー
George Berkeley
 (1685年−1753年)

 アイルランド生まれのイギリスの哲学者。敬虔なプロテスタントの立場から、ロックの経験論を独自の方向に推し進め、意識内容、すなわち表象された観念は存在するが、物質(超主観的な実在)は存在しないと主張した。その主張は、「esse est percipi(存在するとは知覚されること)」という命題に集約され、一種の内在的な心理主義哲学とみることも可能である。主な著作に、「視覚新論」A New Theory of Vision(1709年)、「人知原理論(人間知識の原理)」The Principles of Human Knowledge(1710年)、「ハイラスとフィロナスとの対話」The Dialogues of Hylas and Philonous(1713年)がある。処女作「視覚新論」は、当時の光学機械の普及に影響されたものであると同時に、「人知原理論」で展開される、物質は存在しないという主張を理解させるための序論という性格をもになっている。
 1728年に布教活動のためアメリカに渡り、31年に帰国。34年以降はアイルランドのクロインの司教を務めた。
【参照】
モリヌークス問題への回答 (小サイト内)
【日本語テクスト】
「視覚新論」 (鳥居修晃監修、下条信輔・植村恒一郎・一ノ瀬正樹訳/勁草書房、1990年)
「人知原理論」 (大槻春彦訳/岩波書店<岩波文庫>、1958年)

モンテスキュー
Charles Louis de Secondat, Baron de La Brede et de Montesquieu (1689年−1755年)

 フランスの貴族、政治思想家。ボルドー近郊の古い武門の貴族の家に生まれ、7歳で母方の男爵領(ラ・ブレード)を継ぐ。その後オラトリオ会系のジュイイ学院、ボルドー大学法学部で学び、19歳でパリに遊学。父の死にともない、1713年にボルドーに戻り高等法院評定官の地位を購入した。16年にはボルドー・アカデミーの会員に選ばれ、また同年伯父の死によってモンテスキュー男爵の爵位とボルドー高等法院副院長の官職を継いだ。モンテスキューの政治的(思想的)立場はけして時代の先端をいく新しいものではないが、ルイ14世の晩年からオルレアン公の摂政時代にかけて10代から20代前半を過ごしたことは、フランスの国家制度の矛盾に目を開かせる原因となったと考えられる。
 ボルドーでの社会的地歩を固めたのち、17年頃から初期の代表作「ペルシア人の手紙」の執筆に取りかかる。この作品は、当時の文明国であるペルシアからフランスに着たペルシアの知識人が故郷の友人にフランスの風俗等について手紙で報告するという形式をとったもので、ペルシア人という第三者の目をとおして、フランス社会が鋭く批判されている。「ペルシア人の手紙」は21年匿名で出版されたが大評判となり、社交界への出入りがはじまる。28年にはアカデミー・フランセーズ会員に選ばれ、直後、ヨーロッパ見聞旅行に出発する。イタリア(ヴェネツィアでは亡命中のジョン・ローに会う)、ドイツ、オランダを回ったモンテスキューは、29年末にイギリスに渡り、イギリス政治の現実を学んで31年、ボルドーに戻った。
 帰国直後から大部の政治的著作の準備をはじめるが、それはまず「ローマ人盛衰原因論」として世に問われることとなった。その後は「法の精神」の著述に専心し、48年匿名でこれを出版した。「法の精神」におけるモンテスキューの基本的な立場は、君主制における貴族の役割を評価するものであるが、そのなかで権力の配分(三権分立)のあり方を詳細に述べ、その後の分権理論の基礎となった。「法の精神」は偽造版が出るほどの成功を収めたが、内容の一部が反宗教的であると批判され、51年禁書に指定される。しかしモンテスキューの声望は揺るがず、53年、ダランベールの依頼で「百科全書」用に「趣味論」を執筆した(未完)。翌54年には「ペルシア人の手紙」を改稿。55年流行性感冒のためパリで死去した。
 主著:「ペルシア人の手紙」Lettres persanes(1721年)、「ローマ人盛衰原因論」Considerations sur les causes de la grandeur des Romains et de leur decadence(1734年)、「法の精神」De l'Esprit des Loix(1748年)。
【参考文献】
『モンテスキューその生涯と思想』(J・スタロバンスキー<古賀英三郎、高橋誠訳>、法政大学出版局、1993年)
『モンテスキュー政治思想研究ーー政治的自由理念と自然史的政治理念の必然的諸関係』(佐竹寛、中央大学出版部、1995年)
『貴族の徳、商業の精神ーーモンテスキューと専制批判の系譜』(川出良枝、東京大学出版会、1996年)
『文明批評家モンテスキューーー「ペルシア人の手紙」を読む』(西嶋幸右、九州大学出版会、1996年)
『モンテスキューの政治理念ーー自由の歴史的位相』(押村高、早稲田大学出版部、1996年)

ケネー
Francois Quesnay (1694年−1774年)

 フランスの経済学者。その思想は重農主義として知られる。本業は外科医で、1749年以来、ポンパドゥール侯爵夫人の侍医。ダランベール、ディドロらと親しく、ディドロの依頼で「百科全書」第6巻、第7巻の経済関係の項目を数多く執筆。次いで、1758年には「経済表」Tableau economiqueを表し、農業を中心とする経済の再生産システムを明らかにした。64年のポンパドゥール侯爵夫人の死とともに最大の庇護者を失うが、この頃から経済に関心をもつ思想家がケネーの周囲に集まりだし、機関誌「農業・商業・財政新聞」を核に「重農主義」グループを形成した。ケネー自身もこの機関誌に「自然権論」「中国の専制政治」などの重要な論文を寄稿している。

ヴォルテール
Voltaire
 (1694年−1778年)

 啓蒙主義を代表するフランスの哲学者、作家。パリの公証人の子。1718年に悲劇「エディプス」を発表しだが、直後に摂政オルレアン公を諷刺したとしてバスティーユに投獄される。1726年〜28年まで個人的にイギリスに亡命、ニュートン、ロックなどの思想を直接知って哲学に目ざめ、帰国後「哲学書簡」Lettres philosophiques(1734年)を表した(別名「イギリス書簡」)。その後、文学、哲学、歴史学など多様な分野の第一線で活躍し、1750年には、プロイセンのフリードリヒ大王を訪問。帰国後「百科全書」にも寄稿(直後に「百科全書」は出版許可が取り消しされる)。これまでの彼の活動を寓話的に総括し、合わせてライプニッツの「弁神論」に代表される調和的で楽観的な世界観を批判したのがコント「カンディード」Candide(1759年)といえよう。1760年にスイス国境のフェルネーに居を定めてからは、折から生じたカラス事件などをきっかけに、自由主義的な政治的発言を活発に行っている。この時期の代表作として、「寛容論」Traite sur la tolerance(1763年)、「哲学辞典」Dictionnaire philosophique(1764年)などがあげられる。
 つねに目立ったところで行われた反カトリック、反権力の精力的な執筆活動や発言により、ヴォルテールは18世紀的自由主義の一つの象徴とみなされている。

モーペルチュイ
Pierre Louis Maupertuis (1698年ー1759年)

 フランスの数学者、自然科学者。1736年にラップランドに遠征し、緯度1度あたりの長さの実測によって、地球が完全な球ではないというニュートンの仮説を証明している。フランスの自然科学にニュートン力学を導入、定着させた功績者といえる。また光の経路についても重要な研究を行っている。生命論の問題にも関心をもち、すべての生物はあらかじめ精子のなかに小さな形で存在していてそれが順番に大きくなってくるという前成説に反対し、発生に際し、両性の液体の混合から新たな生命が生まれてくるという説をとなえ、ディドロと論争した。
 1746年にはベルリン王立アカデミーの会長に就任。

リンネ
Carl von Linne (1707年−78年)

 スウェーデンの博物学者。主著「自然の体系」Systema Naturae(1735年)によって生物の系統分類を整理、その際、顕花植物に関しては、雄しべと雌しべの特徴を重視することを提唱した。1738年からは医者を開業、41年ウプサラ大学の教授に就任。49年、属と種の二名法による生物の名称体系を確立した。

ビュフォン
Georges Louis Leclerc, comte de Buffon (1707年−88年)

 フランスの博物学者。1739年、王立植物園長に就任、1749年から亡くなるまで「博物誌」36巻を刊行した。「博物誌」の構成は、1〜15巻が四足獣、16〜24巻が鳥類、25〜31巻が補遺、32〜36巻が鉱物。「博物誌」の企画そのものは、ビュフォンの没後ラスペードによって引き継がれ、全44巻として完結した(ビュフォン没後に刊行されたのは、爬虫類、魚類、鯨類)。
 デカルト的な「動物は機械である」という見方に反対し、ニュートン力学の成果を生物学に適用しようとした。またビュフォンは、自然は連続体であるとしてリンネ流の分類体系に反対し、体構造の類似にもとづく配列を拒否した。しかし「博物誌」全体としては、漸進的な進化の可能性を示唆している。
【テクスト】
「自然の諸時期」(菅谷暁訳、法政大学出版局)
「博物誌」 (京都大学医学図書館サイト内)
【参考】
「大博物学者ビュフォンーー18世紀フランスの変貌する自然観と科学・文化誌」 (ジャック・ロジェ、ベカエール直美訳、工作舎、1992年)
【参照】
ビュフォンの「博物誌」とモリヌークス問題(小サイト内)

ラ・メトリ
Julien Offroy de La Mettrie
 (1709年−51年)

 フランスの思想家。サン・マロ生まれ。オランダに滞在して医学、生物学を学ぶ。1745年に刊行した「魂の自然誌」が焚書処分になりオランダに亡命、ここで唯物論的な色彩の強い「人間機械論」L'homme machine(1747年)を出版した。しかしこの書がオランダでも無神論的として批判され、同郷のモーペルチュイの縁でプロイセンに逃れた。プロイセンでも「反セネカ論」をはじめとする精力的な執筆・出版を行ったが、消化不良のため客死。
 その思想の基本は、「精神ないし魂とは脳と神経組織すなわち自己運動を行い感受性をもつ物質の動きの結果である」(富永茂樹氏、「フランス哲学・思想事典」)という文字どおり「機械的」な生命観にある。

マブリ
Gabriel Bonnot de Mably (1709年−1785年)

 フランスの歴史学者、政治学者、法思想家。コンディヤックの実兄。歴史学の洞察にもとづく鋭い国政批判は、フランス革命に強い影響を及ぼした。また、ルソー、モレリとともに、18世紀フランスを代表する空想的共産主義者と位置づけられることも多い。
 くわしくは特集ページ参照。

リニャック
Josephe Adrien Le Large de Lignac
  (1710年−62年)

 カトリック・オラトリオ会に属し、マールブランシュの思想を受け継いだ哲学者。ビュフォン、コンディヤックの論敵。
 くわしくは特集ページ参照。

ヒューム
David Hume (1711年−76年)

 スコットランド生まれのイギリスの哲学者、歴史家。大学卒業後、1734年にフランスに渡り、ラ・フレーシュで主著『人間本性(人性)論』を書き上げた。しかしこの著作は重苦しくい文体と難解な内容のためにまったく受け入れられず、次に書いた『道徳・政治論集』(1742年)の方が先に評価された。しかし無神論者の嫌疑がかかっていたために大学教官になることができず、1752年にエディンバラの法曹界図書館長に就任し、在任中に執筆した『イギリス史』で一挙に文名が高まった。1762年〜65年には駐仏大使随員に選ばれてパリに滞在し、多くの知己を得た。そのなかでも重要なのがルソーであり、ヒュームは当時逃亡生活を続けていた彼をイギリスに渡らせようとしたが、被害妄想に陥っていたルソーによって逆に翻弄された。帰国後はしばらく国務次官を務めた後に引退した。没後に、懐疑主義と信仰が分裂しながらかろうじて統一を保っている『自然宗教に関する対話』が刊行された(1779年)。哲学的には、ロック、バークリーの思想を発展させた徹底的な経験論の立場に立つとともに、経験の立脚点をも問題視した。
【参照】
ヒュームの奢侈観と社会観(勢力尚雅氏による)

ルソー
Jean Jacques Rousseau
 (1712年‐1778年)

 スイス、ジュネーヴ出身でフランスで活躍した作家、思想家。純理論にとどまらない多感さを反映した著作は広く読まれ、フランス革命にも多大な精神的影響を及ぼした。
 くわしくは、特集ページ参照。

ディドロ
Denis Diderot
 (1713年−84年)

 フランスの作家・哲学者。英語に堪能で、ル・ブルトン書店からチェインバースの百科事典のフランス語版を依頼されたことが「百科全書」の編纂・刊行につながる。たびたびの出版弾圧、執筆者の離散を跳ね返しながら1772年に図版集を含む「百科全書」の完結という大事業を成し遂げた。ロシアの女帝エカテリーナ2世との交流でも有名で、「百科全書」完結後の73年、ロシアを訪問している。思想的には、初期の理神論から無神論に進んでいるが、その著作の多くは没後に刊行された。
 代表的著作に「盲人に関する手紙(盲人書簡)」(1749年刊)、「修道女」(1760年執筆)、「ラモーの甥」(1761年執筆開始)、「ダランベールの夢」(1769年執筆)、「ブーガンヴィル航海記補遺」(1772年執筆)、「運命論者ジャックとその主人」(ロシア滞在中に執筆)、「哲学者セネカの生涯とその著作」(1778年刊)。
 グリムの「文芸通信」に断続的に掲載されたサロン展の批評によって近代的美術批評の祖ともされる。その批評論は「絵画論」(1766年刊)に結実。
 くわしくは、特集ページ参照。

モレリ
Morelly
 (生没年不詳)

 フランスの政治思想家。ヴィトリ=ル=フランソワの教師だったという以外の伝記的事実は不明。18世紀当時から、ディドロの影武者説もあった。 共産主義的な思想で知られ、寓意的・ユートピア的な色彩の強い「バジリアード」Basiliade(1753年)や、より体系的な「自然の法典」Code de la nature(1755年)を表した。 なお、「バジリアード」は、「ユートピア旅行記叢書」13「共有のユートピアと科学のユートピア」(岩波書店)に収載。また、「バジリアード」および「自然の法典」は、近日刊行予定の「啓蒙のユートピア」第2巻(法政大学出版局)にも収載予定。

グルック
Christoph Willibald Gluck (1714ー87年)

 ドイツの作曲家。当時対立していたイタリア・オペラとフランス・オペラの統合を達成。彼が目ざしていたのは、物語性を重視し、余計な装飾音や歌手のわがままを排除したオペラであり、その意図で『オルフェオとエウリディーチェ』(1762年)、『アルチェステ』(1767年)を作曲しウィーンで初演した。1773年にマリー・アントワネットとともにフランスに移り、翌年ラシーヌ原作の『アウリスのイフィゲニア(オーリッドのイフィジェニー)』を作曲、続いてフランス語台本による『オルフェオとエウリディーチェ』の改訂版を上演し、大論争ののちパリでも大好評で受け入れられた。のちにウィーンへ戻り、ウィーンで没。

エルヴェシウス
Claude-Adrien Helvetius (1715年−71年)

 フランスの哲学者。1758年に公刊した「精神論」で、コンディヤックの感覚論を踏襲しながらも、魂は肉体の一部であるとして、肉体の死による霊魂の消滅を主張した。しかしこの唯物論的内容が、魂の不滅を前提とする道徳の破壊につながるとして宗教勢力から激しい非難をあび、「精神論」は高等法院によって焚書に指定された(「精神論」に端を発した唯物論的傾向をもった書籍への弾圧は、翌1759年の「百科全書」出版許可の取り消しにつながる)。その後、「精神論」への批判に対する反論を「人間論」にまとめたが、論難をおそれて、生前は刊行しなかった。1772年に出た「人間論」のなかで、エルヴェシウスは名誉心を重視し、これによって個人的欲望と公共福祉の調和させる道徳論を主張している。また「人間論」のなかでは、こうした名誉心重視の観点からの統治改革論も展開している。魂の不滅を否定したエルヴェシウスの道徳論は功利主義的色彩が強く、ベンサムにも影響を及ぼしている。
 くわしくは、特集ページ参照。

コンディヤック
Etienne Bonnot de Condillac (1715年−80年)

 フランスの感覚論哲学者、論理学者。歴史学者マブリの実弟。イギリスの哲学者ジョン・ロックの影響を受け、認識は感覚からくるとする「感覚論」などの著作をとおして、ロックの思想を唯物論の手前まで推し進めた。またその記号理論は、ラヴォワジェによる化学式の考案を促した。ルソー、ディドロなどと親交する一方で、ビュフォンとは激しく対立している。
 くわしくは、特集ページ参照。

ドン・デシャン
Leger Marie Deschamps ou benedictin de dom Deschamps (1716年−74年)

 ブルターニュのレンヌに生まれたベネディクト会修道士。1757年以降はロワール河畔に近いモントルイユ=ペレの修道会で過ごし同地で没した。修道会の近くに大貴族ダルジャンソン家の館があったことから、ヴォワイエ=ダルジャンソン侯爵と親しく交わり、侯爵はデシャンの庇護者兼弟子のような存在となった。侯爵の館の狭いサークルのなかで、デシャンは唯物論と共産主義を結び付けた特異な形而上学を語った。生前匿名で『時代精神についての手紙』(1769年)、『当代の理性、特に<自然の体系>の著者のそれに反対する理性の声、問答による』(1770年)を出版したが、これらはいずれも啓蒙思想主流派(ヴォルテール、ドルバック)を非難・攻撃した内容のものである。『時代精神についての手紙』を読んだディドロは、直後に、著者は猛獣でありこのような本は発禁とすべきだと非難している(ただしその直後にディドロはデシャンと知り合い、批判を撤回した)。野沢協氏によれば、「啓蒙思想家の宗教攻撃は社会秩序の土台を危うくするというのが『時代精神についての手紙』におけるドン・デシャンの「表の論理」で、それ自体は反啓蒙家に通有の主張ではあったが、しかし同時に、宗教は不平等と私的所有に基礎を置く歪んだ社会体制の産物であり、宗教を打ち壊すにはそれの原因でありそれを支えとして必要とする社会体制そのものを打ち壊さねばならぬとする「裏の論理」がドン・デシャンにはあって、事情に通じた者が注意して読めば気付くように、『時代精神についての手紙』でも所々にそれが隠微な形で顔をのぞかせていた」という(ドン・デシャン哲学著作集解説)。 しかし、この二作に記されたのはデシャンの思想の一部に過ぎず、真の思想は未刊の手稿として残され、19世紀になってはじめて発見された。
【テクスト】
ドン・デシャン哲学著作集全1巻(野沢協訳、法政大学出版局、2007年)

ヴィエルホルスキ
Michal Wielhorski
 (1716年頃−1804年)

 ミハウ・ヴィエルホルスキ、ポーランドの政治的著作家。1762年以来リトアニアの指導者の一人。国王スタニスワフ・アウグストとチャルトルィスキ家の反対者。1766年の議会で、外国勢力の干渉のきっかけとなるポーランド独自の政治制度「自由拒否権」に反対する結論に達した。 その後、プロイセン、ロシアの勢力が強くなると、ポーランド貴族による抵抗運動バール連盟の代表者として1770年にパリへ赴き、フランスの政治思想家たちに、大貴族優位で自由に反対する内閣の機構改革案構築を依頼した。フランスでは、重農主義者なかでもメルシエ・ド・ラ・リヴィエール他と緊密に交際している。 彼に強く要請され、ルソーは「ポーランド統治論」(1771年、ポーランド語版出版は1789年)を、マブリは「ポーランドの統治と法について」(1781年)を書いている。また1775年には、「根元的・現実的法による古い国政の復活」O przywroceniu dawnego rzadu wedlug pierwiastkowych Rzeczypospolitej ustawを出版している。
 以上の伝記的事実は、Wielka Encyklopedia Powszechna,1969年による。
【参照】
ポーランド小史 (小サイト内)

ダランベール
Jean Le Rond d'Alembert
 (1717年−83年)

 フランスの数学者、物理学者、哲学者。1743年に「動力学論」を刊行し、全ヨーロッパで注目される。次いで「流体の釣り合いと運動論」「風の一般的原因に関する研究」などの物理学的研究を次々に発表、科学関係者だけでなく、ディドロ、ルソー、コンディヤックらの哲学者と知り合い、関心分野を広げる。その知名度と関心の広さを見込まれ、ディドロとともに「百科全書」の責任編集者となり、その刊行(1751年)にあたっては序文を執筆。その後「百科全書」に「力学」「原因」「加速的」など150の項目を執筆、それらをとおし、「力学は単なる実験科学ではなく、混合応用数学の第一部門である」と指摘した。ダランベール力学の大きな功績は、ニュートン力学を肯定しながらも、そのなかにみられた神の影響を払拭した点にある。また「動力学」の項では「ダランベールの原理」を明らかにした。
 1757年ヴォルテールを訪問し親交を結ぶ。またこの年「百科全書」に執筆した「ジュネーヴ」の項がルソーらの反論を呼ぶ。この事件に追い打ちをかけるように、王権からの「百科全書」刊行に対する圧力が強まるなかで、59年には責任編集者を退いた。その後1761年に「数学小論集」の刊行を開始し、1780年に完結させる。ただし60年代以降のダランベールは、関心が哲学や文学に向かったことや健康状態が悪化したことなどのため、執筆活動は衰えている。
【参照】
「百科全書」 (小サイト内) 

メルシエ・ド・ラ・リヴィエール
Pierre Paul Le Mercier de la Riviere de Saint‐Medard
 (1720年−1792年または93年)
 
 フランスの経済学者。1747年〜58年まで、パリ高等法院の判事を勤めた後、1759年〜64年、知事として西インドのマルティニック島に赴任した。帰国後、ケネー等の重農主義者と交わり、その機関誌「農業・商業・財政新聞」に寄稿した。また後にルソーとマブリにポーランド改革案を依頼するヴィエルホルスキ伯爵とも交際があった。1767年、法典編纂のためロシアのエカテリーナ2世に招かれた。しかし、彼がロシアに到着した時に法典はできあがっており、そのまま帰国する際、次のように言ったという。「統治に関するすべての学は、神が人間組織のなかにはっきりと刻印した法を認めることで成立する。」 同じ年、主著「政治社会の自然的・本質的秩序」l'Ordre naturel et essentiel des societes politiques(1767年)を発表し、このなかで、主権者による合法的な専制支配という考えに基づく社会経済・政治形体を述べた。この説は、最初ヴォルテールと、次いでマブリとのあいだに論争を引き起こした。 なお、マブリのメルシエ・ド・ラ・リヴィエール批判の書「政治社会の自然的・本質的秩序に関し経済哲学者らに提示する疑念」は、上記の「農業・商業・財政新聞」の編集者デュポン・ド・ヌムールにあてた書簡という形式になっている。
 フランス革命中にあらわした「幸福な国民または自らの法の絶対的な支配のもとでこの上なく自由な国民、フェリシー人の政体についての報告」l'Heureuse Nation ou Gouvernement des Feliciens(1792年)の抄訳がユートピア旅行記叢書」15(岩波書店)に収載されている。

マルゼルブ
Chretien-Guillaume Lamoignon-Malesherbes (1721年-1794年)

 フランスの政治家。法服貴族の名門に生まれ、ルイ15世時代の租税法院院長(1750年ー71年、1774年ー75年)、出版統制局長(1750年ー63年)を経て、ルイ16世の国務大臣(宮内大臣:1775年ー76年、無任所大臣:1787年ー88年)となる。政治的にはリベラル派で、公官在職中は、一貫して絶対王政に対して批判的な態度を取り続けた。
 一方革命中の国王裁判ではすすんでルイ16世の弁護人となり、ルイ16世の刑死後、自身も逮捕され、刑死した。
 マルゼルブの出版統制局長時代に「百科全書」の出版開始およびその出版許可取り消し問題が起こり、その事業継続に官側の担当者として尽力した。ルソーとの交友も有名で、ルソーの主要著作はすべてマルゼルブの出版統制局長時代に公刊されている。またその「告白」は、マルゼルブに宛てた書簡がもとになって執筆されている。
 「百科全書派たちが神の摂理を信じないのはまちがっている。なぜなら、神が出版統制局をマルゼルブに委ねたのは、明白にかれらのためを願ってのことだからである」(デュクロ)ともいわれる。
【参考文献】
「マルゼルブーーフランス18世紀の一貴族の肖像」 (木崎喜代治、岩波書店、1986年)
【参照】
マルゼルブの出版理念(小サイト内)
エルヴェシウス「精神論」の発禁事件(小サイト内)
18世紀フランスの出版統制(小サイト内)

ブラックストン
sir William Blackstone
 (1723年−1780年)

 イギリスの最も高名な法律家の一人。ベンサムの論敵でもあった。 1746年弁護士となり、1749年にはWalingford旧市の市裁判所判事となった。この期間に弁護士の実践をしたがあまり成功せず、1753年にオックスフォードで研究生活を始めた。1758年、大学に市民権の講座が開かれるとその教授となった。1765年に、それまでの経験や講義録をまとめた「イングランド法註解」Commentaries on the Laws of Englandの第1巻を出版し、続く4年で残り3巻を刊行した。このなかで、彼は、自分がモンテスキューに影響を与えたと述べた。ブラックストンの「註解」は体系的なものとはいえないが、自然法の存在を強調し、自然法の原理と一致しない実定法は法の名に値しないと主張した。ただし、自然法の原理は少なく、ほとんどの実定法は、自然法が沈黙している対象を扱っているとしている。

ドルバック
Paul-Henri Thiry d'Holbach
 (1723年−89年)

 フランスの唯物論哲学者。ドイツ・プファルツ公国のエーデスハイム生まれ。母方の伯父に連れられてパリに出、1744年、この伯父のすすめでオランダのライデン大学に学ぶ。オーストリア継承戦争(1740年−48年)後パリに戻り、伯父の遺産と貴族の称号を継承して男爵となる。パリへ戻った直後にディドロと親交を結び、1752に刊行された「百科全書」第2巻から執筆者に加わって、地質学、鉱物学、化学分野を中心に400項目近く執筆した。これと同時に、ドイツ語の科学関係書の翻訳も開始している。
 1759年に「百科全書」の出版許可が取り消されると、改めて許可がおりるまでの編集作業を経済的に支えると同時に、この非合法の編集活動のための場所を提供した(秘密の編集作業を行っていたので、出版弾圧がゆるんだ1765年、「百科全書」本文の未完の10巻はまとめて刊行された)。
 この秘密の編集所がそのままドルバックの執筆活動の場となり、「百科全書」の編集作業が進むなかで、「キリスト教暴露 Le Christianisme devoile」を書き上げ、匿名で出版した(1761年)。この時期に、ドルバックの関心は科学思想の普及から思想弾圧への批判へと重心が移動しているのである。
 こうして、1760年代には、大量の反宗教文書がドルバックの手を経て地下文書として刊行されたが、それらを哲学的に基礎づけ、宗教に代わる信念体系提示の必要性から、1770年に「自然の体系 Systeme de la Nature」をあらわした。国外で印刷された「自然の体系」がフランスに持ち込まれると、ただちに禁書に指定されるが、次のヴォルテールの証言にもあるように、広く読まれ版を重ねた。「ベルゼビュトに吹きこまれた悪魔のような男が「自然の体系」という題名の書を発表し、その各頁で神は存在しないと証明できたつもりになっています。この書は世のすべての人を脅かしていますが、みんなが読みたがってもいるのです。それは冗漫、繰り返し、不正な語法に満ちていますが、にもかかわらずみんながむさぼり読んでいます。人びとの心をさそうことがたくさんあるのです。雄弁なんです。若干の箇所では誤謬がひどいのですが、スピノザよりずっとすぐれています。」(1770年8月8日付け、デファン夫人宛の書簡。引用は高橋安光氏の翻訳<「自然の体系」解説、法政大学出版局>による)いずれにしても、「自然の体系」は18世紀におけるフランス唯物思想のもっとも組織的記述でありその典型と評価されている。
 「自然の体系」刊行後、ドルバックの関心は自然、経験、理性に基づく社会体制のあり方に移り、道徳と政治をテーマとする「自然政治 Politique naturelle」(1773年)、「社会の体系 Systeme social」(1773年)、「普遍道徳 La Morale universelle」(1776年)、「道徳支配 Ethocratie」(1776年)などをあらわした。最後の著作「道徳支配」では、ルイ16世による上からの改革に期待をよせている。
 晩年は執筆活動を停止し、三部会招集直前の1789年1月に亡くなった。
 18世紀において、ドルバックは著述家としてよりもむしろ哲学的なサロンの主催者として有名で、その著作はほとんどすべて匿名の秘密文書として刊行されている。
【テクスト】
「キリスト教暴露」 (野沢協訳、現代思潮社、1968年)
「自然の体系」 (高橋安光・鶴野陵訳、法政大学出版局、1999年・2001年)
【参考文献】
「深層のフランス啓蒙思想ーーケネー、ディドロ、ドルバック、ラ・メトリ、コンドルセ」 (森岡邦泰著、晃洋書房、2002年)
【参照】

トゥールーズ哲学アカデミー・サイト内の電子テクスト・ページ
「百科全書」 (小サイト内)

スミス
Adam Smith (1723年−90年)

 イギリスの経済学者、哲学者。スコットランドの小都市カーコーディに生まれる。1751年にグラスゴウ大学の論理学教授に迎えられ、翌年道徳哲学の講座に移籍した。ここで行ったさまざまな講義を1759年『道徳感情論』The Theory of Moral Sentimentsとしてまとめて刊行し、名声を確立した。七年戦争終了後の1764年〜66年にはフランスに滞在、ヴォルテールケネーエルヴェシウスらと交際する。帰国後、主著『諸国民の富』An inquiry into the nature and causes of the wealth of nationsの執筆に専念し、1776年に刊行。1787年から亡くなるまでは、グラスゴウ大学の学長を務める。

カント
Immanuel Kant (1724年−1804年)

 ドイツの哲学者。1750年代にヴォルフ(ライプニッツ)的な形而上学の枠組みから哲学的思索をはじめ、経験論およびルソーに近づいた時期を経て、独自の批判哲学を確立し、1781年の「純粋理性批判」Kritik der reinen Vernunftによって、自然学的な客観認識の観念論的な理論付けを実現した。カントが「純粋理性批判」で達成した思考は、通常、合理主義と経験論の分裂を統合したものとして哲学史のなかで特筆されている。
 主著は、他に「実践理性批判」Kritik der praktischen Vernunft(1788)年、「判断力批判」Kritik der Urteilskraft(1790年)など。

テュルゴー
Anne Robert Jacques Turgot, Baron de l'Alne
 (1727年−81年)

 フランスの政治家。 はじめに宗教、次いで政治を志した。1750年ごろから哲学者たちと交わり、「百科全書」にも寄稿した。リムーザンの地方監督を勤めた後、1774年、ルイ16世に登用され、財務総監となった。ゲリエが言及している都市体系の草案は、財務総監就任に際して、王にあてた建白書のなかで述べられている。テュルゴーの重農主義的な引き締め策は、王妃・特権階級・高等法院・教会に攻撃され、1776年辞職した。主著「富に関する省察」は1766年刊。
【テクスト】
「富に関する省察」(永田清訳、岩波書店<岩波文庫>、1934年)
【参考文献】
「フランス政治経済学の生成ーー経済・政治・財政の諸範疇をめぐって」 (木崎喜代治/未来社、1976年)
【参照】
テュルゴーの思想、プロフィール、参考文献 (「経済思想の歴史」サイト内)

バーク
Edmund Burke (1729年−97年)

 アイルランド生まれのイギリスの思想家、政治家。ホイッグ党の幹部で、アメリカ独立戦争に際しては介入を非とし、一方フランス革命に関してはそれを全面的に否定して軍事介入を主張した。主著に『崇高と美の観念の起源』(1757年)、『イギリス史略』(1757年-60年)、『フランス革命の省察』(1790年)。
【参考】
スタロバンスキー『自由の創出』〜「18世紀後半のヨーロッパ芸術の特徴」 (小サイト内)

ハイドン
Franz Joseph Haydn (1732年ー1809年)

 オーストリアの作曲家。古典派音楽の大成者で、膨大な交響曲、弦楽四重奏曲等を作曲。晩年はロンドンでも活躍。代表作に交響曲第100番「軍隊」(1794年初演)、オラトリオ「天地創造」(1798年初演)など。

デュポン・ド・ヌムール
Pierre Samuel du Pont de Nemours
 (1739年−1817年)

 フランスの政治経済学者。著述家。現在のデュポン財閥の祖。 時計職人、医学、文筆業などを転々としながら、1763年にケネーの知遇を得、その重農主義思想から大きな影響を受けて、重農学派の機関誌編集、ケネーの著作の編纂、「穀物の輸出入について」(1764年)、「新科学の発生と進歩について」(1768年)などの自己の著作活動を行った。 1774年にテュルゴーの下で通商総監に任命され、仏米自由貿易協定、英仏通商協定の締結に参画した。革命に際しては、第三身分の代表に選ばれ、憲法制定議会の議員として活動したが、穏健派のため革命主流派とそりがあわずに引退、1799年にアメリカにわたった。その後もフランスとアメリカを往復し、アメリカで没した。

ドナティアン・サド(サド侯爵)
Donatien Alphonse Francois, marquis de Sade (1740年−1814年)

 フランスの特異な作家。ブルボン=コンデ家の親戚の家に生まれるが、放蕩のため1768年に投獄。さらに毒殺容疑による死刑宣告などを受け、監獄に収容される。フランス革命によってバスティーユから釈放され、ピック地区の書記などを務めたが、反革命容疑で再逮捕、再釈放。ナポレオン時代には筆禍事件により再逮捕され、以後、亡くなるまでシャラントン精神病院に収容された。主著に『ジュスティーヌ、または美徳の不幸』Justine ou les malheures de la vertu(1791年)、『ジュリエット物語、または悪徳の栄え』Histoire de Juliette ou les prosperites du Vice (1797年)など。
【参照】
サドとエルヴェシウス(『悪徳の栄え』より) (小サイト内)
二つのサド観 (小サイト内)
澁澤龍彦が見た18世紀思想界 (小サイト内)
スタロバンスキー『自由の創出』〜「18世紀後半のヨーロッパ芸術の特徴」 (小サイト内)
「サドマニア」 (外部リンク)

ラヴォワジェ
Antoine Laurent Lavoisier (1743年−1794年)

 フランスの化学者。「化学原論」Traite elementaire de chimie(1789年)において、質量保存法則を確立して定量化学の基礎を固め、画期的な元素概念を提出して物質観の歴史を変革した。フランス革命で刑死。

サン=マルタン
Louis Claude de Saint-Martin (1743年−1803年)

 18世紀における反啓蒙主義的な神秘思想「イリュミニスム」を代表する思想家。軍隊入隊中に、霊的存在者との交流を足がかりに形而上的転落を蒙った人間と宇宙全体の再生を目ざすことを綱領に掲げる学秘密結社「エリュ・コエン」に入団し強い影響を受ける。この結社そのものとはやがて疎遠となるが、ドルバックの弟子ブーランジェの著作に対する反発を機に匿名で処女作『誤謬と真理』を執筆した(1775年)。この作品は啓蒙派のみならず宗教勢力からも批判されたが、その一方で謎めいた神秘性により、熱狂的な支持者も獲得した。その後イギリス、イタリアを旅しながら思索を深め、1788年にヤコプ・ベーメの著作を知るとそれを翻訳し、この翻訳がきっかけとなってドイツでもベーメが再評価されるようになった。革命中はフランスに留まり、小説、ベーメの翻訳、著作活動を続けた。晩年の著作に『ものの精神について』(1800年)、『霊的人間の使命』(1802年)がある。しかしこれらの著作は一般にはほとんど理解されず。19世紀後半になり、オカルティズムの流れのなかで再評価されるようになった。
【テクスト】
キリスト教神秘主義著作集第17巻(教文館、1992年)
【参考文献】
『啓蒙の世紀の神秘思想 サン=マルタンとその時代』(今野喜和人、東京大学出版会、2006年)

ラマルク
Jean Baptiste Pierre antoine de Monet, chevalier de Lamarque (1744年−1829年)

 フランスの生物学者。獲得性質の遺伝による進化論を説いたとされる。主著「フランス植物誌」(1744年)、「無脊椎動物の体系」(1809年)。

モーツァルト
Wolfgang Amadeus Mozart (1756年ー91年)

 オーストリアの古典派作曲家。古典派の枠組みのなかで多彩な楽曲を作曲した。若い頃から神童ともてはやされ、活躍の場を求めてヨーロッパを演奏遍歴。1778年にはパリを演奏旅行し、その途中母を亡くしている。フランス革命直前にその活動はピークに達したが、急速に人気が衰え、失意のうちに謎の死をとげた。代表作に歌劇『フィガロの結婚』(1786年初演)、歌劇『ドン・ジョヴァンニ』(1787年初演)、交響曲第39番、同第40番、同第41番(いずれも1788年初演)、ピアノ協奏曲第27番(1791年初演)など。

ベートーヴェン
Ludwig van Beethoven (1770年ー1827年)

 ドイツの作曲家。音楽のパトロンが宮廷(貴族社会)から市民社会へと変わる転換期を生き、社会変動に合致した新たな音楽のあり方を追求した。それを様式的にみると、初期の段階でヨーロッパにおける古典派音楽を完成させ、ナポレオン帝政期と重なる中期以降、自己の個性を強く打ち出したロマン派音楽への新しい道を切りひらいたとすることができる。最初の作品(三曲のピアノ三重奏曲)は1795年出版。代表作に交響曲第3番「エロイカ」1804年初演)、歌劇『フィデリオ』(1805年初演)、ピアノ・ソナタ第23番「熱情」(1804-06年頃作曲)、交響曲第9番(1824年初演)など。
【参照】
ベートーヴェンのピアノ・ソナタCDを聴くーーその@ (小サイト内)



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