「自然の体系」要約と私見 その1
Des extraits et vue privee sur <Systeme de la Nature> de Baron d'Holbach
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| 「自然の体系」 第一部 刊行者の辞 「自然の体系」は、フランス・アカデミー終身書記であったミラボー氏(1760年没)の著作で、「或る学者のコレクションの中から他のいくつかの原稿にまじって発見されたものである」ことが記される。 (引用者註:この「刊行者の辞」は、「自然の体系」がドルバックの著作であることを隠すために記された架空のものである。) 著者序 「人間が不幸なのは自然を誤解していたからにすぎない。」 この格調高い断言ではじまる序文のなかで、ミラボー氏に仮託しながら、ドルバックはこの著作を記した大きな目的を、次のように明らかにする。 「重要なのは、私たちを迷わせるにすぎない幻覚を消滅させることである。今や熱狂が私たちにもちらした病気にたいする治療薬を自然の中から汲みとるべき時である。つまり経験に導かれた理性が、かくも永いあいだ人類を犠牲にしてきた偏見をその根源において攻撃しなければならないのだ。」したがって「本書の目的は、人間を自然に引きもどし、理性に親しませ、美徳を熱愛させ、彼が望む幸福に確実に彼を導くにふさわしい唯一の道を隠蔽する幻影を消し去ることである。」 序論 ここでも、ドルバックは読者に強く呼びかける。 「君が永いあいだ忘れていた自然にもどり、幻想から身を引け、つまり勇気を取りもどせ。真理を恐れるな、真実と虚偽、有用と無用、幻想と現実の区別を唯一教えてくれる理性への中傷をもはや許すな。理性の教えを信じ、未来に関する根拠のない恐怖を払いのけ、現実の幸福を考え、運命の決定におとなしく従え。もっとも正当な快楽を節度をもって味わい、同僚の幸福のために働くことによって君自身の幸福のために働け。楽しめ、それが自然が君に命じるところであり、他人が楽しむのを認めよ、それが公平が君に定めるところであり、他人が楽しめるように、それが神聖な人間愛が君に与える忠告であり、これこそが地上のあらゆる宗教にもまして、君を平和に生かし、不安なく死なせるものである。」 第1章 自然 「自然の体系」本論は、次のようにはじまる。 「想像力によって生み出された体系のために経験を棄てる時、人は必ず自分を欺くことになるであろう。人間は自然の作品であり、自然の中に存在し、自然の法則に服し、そこから脱することはできず、思考によってもそこから出ることはできない。人間の精神は目に見える世界の限界の向うに飛び出そうとしても、無駄であり、つねにそこへもどらざるをえない。自然によって形成され、それによって取りまかれた存在にとっては、自分がその部分をなし、その影響を受けているところの大いなる全体以外には、なにものも存在しない。自然を超越するもの、あるいは自然とは別個のものと想定される存在は必ずや幻想であろうし、それらの存在については、そられが占める場所やそれらの動き方についてと同様に、真実の観念を作り出すことはけっしてできないであろう。あらゆる存在を閉じこめる囲いの外にはなにもないし、またありえないのである。」 続いてドルバックは物質的人間と精神的人間の区別を批判し、「人間はまったく物質的存在である」と断定する。 ドルバックによれば、「人間が不幸になったのは彼らが自分を欺いたから」であり、「人間が社会にあって自由から奴隷状態に陥ったのは、自分の本性、固有の傾向、欲求、権利を知らないためである。」 こうした現状に対し、ドルバックは「偏見の雲の上に出よう。人間の諸々の意見や様々な体系をじっくりとながめるために、私たちを取りまく厚い大気から脱け出よう。無軌道な空想力に不信をいだき、経験を案内者とし、自然に諮ろう。自然が包含する諸々の対象についての真実の観念を自然そのものから汲みとろう」と、読者に呼びかける。 そして本章の最後で、次のように、「自然」の包括的な定義を行う。 「もっとも広い意味における自然は、宇宙の中に見られる、異なる物質、それらの異なる配合、異なる運動、の集合から生まれる大いなる全体である。より狭い意味における自然、各存在において考察された自然は、本質、すなわち、その存在を他の存在から区別するところの諸性質、配合、運動あるいは働き方から生まれる全体である。したがって人間は特殊な性質を与えられた物質の配合に由来する一つの全体である。それらの物質の排列が組織と呼ばれ、それらの物質の本質は感覚し、思考し、行動することであり、一言でいえば、自分を他の存在と比べて違った仕方で運動することである。」 第2章 運動とその起源 「運動とは、それによって一つの物体が場所を変え、変えようとする、つまり空間の異なる部分につぎつぎと対応し、あるいは他の物体と相対的に距離を変えようとするその努力をいう。」これが、ドルバックによる運動の定義である。 「自然」の定義の次に「運動」が登場したのは、「精神的人間」の存在を明確に否定した以上、人間の行動をすべて物理的な運動として説明しなくてはならないからである。すなわち、「運動だけが私たちの器官と私たちの内部もしくは外部にある諸存在との間の関係を成立させる。それらの存在は運動によってのみ私たちに印象を与え、私たちはそれらの実在を知り、それらの特性を考え、それらをたがいに区別し、異なる綱(クラス)に分類する」という。 第3章 物質、その異なる配分と様々な運動、あるいは自然の歩み 「自然」「運動」の次に、「唯物論者」ドルバックが「物質」を定義しようとするのは必然的といえよう。ただし、この定義はあまり明解ではないように思われる。 「私たちは物体の諸々の要素を知らないが、その若干の特性や性質は知っているし、異なる物質を、それらが私たちの感覚にもたらす効果や変化によって、すなわち、それらが私たちのうちに生み出す異なった運動によって、識別する。その結果、私たちはそこに延長、可動性、可分性、硬さ、重さ、慣性力を見出す。これらの一般的で根源的な特性から、密度、形態、色彩、重量などの他の特性が出てくる。こうして私たちとの関係では、物質は一般に何らかの仕方で私たちの感覚を動かすすべてのものであり、私たちが異なる物質に帰する諸々の性質は、それらの物質が私たち自身のうちに生み出す異なった印象や変化に基づくのである。」 第4章 自然のあらゆる存在に共通の運動法則、引力と析力、惰力、必然性 「自然の中には自然の原因と結果しかありえない。そこで惹起されるあらゆる運動は恒常的、必然的な法則に従う。」ドルバックはここでも明解である。 「いかに複雑な運動も単純な運動が結合した結果にほかならない。したがって、諸々の存在とそれらの運動の一般的法則を知るならば、何が結合されているかを発見するためには、分解し分析するだけでよかろう。また経験がそれらの結合から期待しうる諸々の結果を教えてくれるであろう。」「結果からひどくかけ離れた原因は疑いもなく仲介的原因によって働いているのであり、私たちはそれらの助けによって時には最初の原因にまでさかのぼることができる。もしそれらの原因の連鎖の中に私たちの探求を妨げる障害があるならば、私たちはそれらを克服しようと努めなければならない。」 しかしこの先では、ドルバックの「唯物論」の弱さが露呈してしまう。 「その克服に成功できないとしても、私たちは、その連鎖が中断されているとか、そこに働く原因は超自然的である、と結論する権利をもたない。そうした時は、自然は私たちの知らない原因を有する、と告白するに甘んじよう。そして私たちの目を逃れる原因に代えて幻想や作り話や意味のない言葉を設けることはけっしてやるまい。」 「幻想や作り話や意味のない言葉」を排斥するのに性急なあまり、ドルバックは「自然は私たちの知らない原因を有する」と認めるのである。 第5章 秩序と無秩序、知性、偶然 これは、純然たる物質の世界から人間に話題を転換するための移行の章である。そのため、以下のように原因と結果の因果律が執拗に確認される。 「自然の秩序や無秩序というものはけっして実在していない。私たちは自分らの存在に合致する一切のうちに秩序を見出し、それに反対する一切のうちに無秩序を見出す。」 「自然の中には怪物も驚異も不可思議も奇蹟もありえないことになる。私たちが怪物と呼ぶものは、私たちの目に見なれない配合であるが、やはり必然的な結果なのである。私たちが驚異、不可思議、超自然的結果と名づけるものも自然の現象であり、私たちが無知でそれらの根源や働き方を知らないものであり、秩序の観念と同様に私たち自身のうちにしか存在しないのに、私たちはそれらを自然の外に位置づけるが、自然の彼方にはなにものも存在しえないのである。」 「私たちは原因との関係が分からない結果をすべて偶然に帰する。このように私たちは自然的原因にたいする無知を隠すために偶然という言葉を使用する。そうした自然的原因は、私たちがそれについて観念をもたない手段によって、私たちが見る結果を生み出すか、あるいは、私たちのと類似した活動をともなう秩序や体系が、私たちには見えない仕方で働くのである。」 |
| 2003年7月5日 |
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