「自然の体系」要約と私見 その2
Des extraits et vue privee sur <Systeme de la Nature> de Baron d'Holbach
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| 「自然の体系」 第一部 第6章 人間、物理的人間と精神的人間の区別、その起源 この章から、ドルバックは人間に話題を転じる。 「人間は、それらの集合体が自然であるところの一群の存在の中に、位置を占める。人間の本質、すなわち人間として際立たせる在り方が、異なる働き方や運動を彼に可能にする。それらの運動の一部は単純で目に見えるが、他は複雑で隠れている。人間の生命は必然的な連結した運動の長い一系列であり、それらの運動の根源には、血液、繊維、肉、骨、一言でいえば、人間の全体もしくは身体を構成する流動物質や固形物質のように、彼自身の内部に含まれる原因があり、あるいは人間を取りまく空気、彼を養う食物、その感官をたえず刺戟し、したがって不断の変化を彼のうちに起こすあらゆる対象のように、彼の上に働きかけ、彼を様々に変える外部の原因がある。」 ドルバックが批判するのは、人間に結びつけられる「精神性、非物質性、不死」といった観念であり、「人間が自己を検討する時に陥った誤謬の根源は、彼が自分で動き、つねに自分のエネルギーで働き、彼の行動やその原動力である彼の意志においては、自然の普遍的法則や諸々の存在から独立している、と思いこんだことにある」とする。ドルバックによれば、人間とは、「感じ、考えるように、人間のみにふさわしい、すなわち彼の構造や彼のうちに集められた物質の特殊な配合にふさわしい或る仕方で変えられるように、組織され、形成された物質的存在である」にすぎないのだ。 おもしろいことに、外部の原因によって人間は様々に変わるといういわば「環境決定論」から、19世紀の進化論を準備する次のような考え方が導き出されてくる。 「人類は現在の位置にある地球に固有の所産であり、地球の位置が変わることになれば、人類も変化するであろうし、あるいは絶滅せざるをえないであろう。なぜならば、全体と自己を調整するか、連結するものだけが生存しうるからである、と。全体と自己を調整しようとする人間の傾向が彼に秩序の観念を与えるばかりでなく、一切は善であるとも言わせるのである、にもかかわらず一切はありうるようにしかありえず、一切は必然的に現在のままであり、正確には善も悪もないのである。人間に宇宙の混乱を非難させるには、世界の位置を変えるだけでよい。」 「私たちの地球の位置に諸々の変化があったと仮定するならば、おそらく原始人は、四足獣が昆虫と異なる以上に、現在の人間と異なっていたであろう。このように、私たちの球体は他のあらゆる球体に実在する一切のものと同様に、人間はたえざる変化の中にあるものとみなされうる。こうして、人間の生存の終末は、その最初と同様に私にとって未知であり、無縁である。こういうわけで、諸々の種族はたえず変化すると信じることにはなんら矛盾はなく、それらがどうなっていくかを知ることは、それらがどうであったかを知ることと同様に、不可能である。どうして自然は新しい存在を生み出さないのかと尋ねる人びとには、私の方から尋ねたい、いかなる根拠からそんな事柄を想定するのか、と。何が彼らに自然の不妊性を信じさせるのか。刻々と行われる配合の中で、自然が観察者の知らぬまに新しい存在の産出に専念していないかどうかを彼らは知っているか。その宏大な実験室の中で自然が、現存する種族となんら共通性もないまったく新しい世代を出現させるにふさわしい諸要素を現に集めていないかどうか、を誰が彼らに告げたのか」 さて以上のような議論のなかからドルバックは結論をくだす。 「人間は自然の中で自己を特権的存在と思いこむ理由をもたない。」 第7章 魂と精神性の体系 この章は、魂や精神が存在し、それが人間を動かすという考え方への反論である。 「もし精神と呼ばれるものが運動を受け、伝えうるとすれば、またそれが働き、肉体の諸器官を動かすとすれば、それらの結果を生むためには、その存在は自己の関係、動向、対応を、それが動かす肉体の異なる器官と関連して継続的に変えなければならない。しかし空間や自分が動かす諸々の器官との関係を変えるためには、精神は拡がりや硬さ、つまり違った部分をもたなければならない。一つの実体が以上の性質を有するならば、それは物質と呼ばれる、近代人の言う意味における単一存在と見なされることはできない。」 要するに、ドルバックによれば精神や魂とは、「空想であり、思弁的存在である」ということである。 第8章 知的能力、あらゆる知的能力は感覚機能に由来する 「知的と呼ばれる諸能力が、私たちの肉体の組織から出てくる諸々の様式あるいは在り方や働き方にほかならないことを納得するためには、それらを分析してみさえすればよい」とドルバックは言う。「人間のうちに見られる第一の機能」である感覚の機能は、「一見したところ説明しがたいように見えるが、子細に検討するならば、その機能は、引力、磁力、弾性、電気などが他の若干の有機体の本質や本性に由来するように、有機体の本質や特性からの帰結であることが分かるであろう」というのである。つまり、「感じるとは生きた肉体の或る器官に固有な、或る特殊な動かされ方であり、その仕方は物質的対象が現われてそれらの器官に働きかけると起こるものであり、そこに起こる運動や振動が脳に伝達されるのだ」という。結局、「あらゆる感覚は、私たちの感官に与えられる動揺にすぎない。あらゆる知覚はその動揺が脳にまで拡がったものである。あらゆる観念は感覚や知覚が負うところの対象の映像である。以上によって、感官が動かされなければ、感覚も知覚も観念もありえないことが分かる」と断言する。 したがって、この章の結論は次のようなものである。 「魂はみずから働き、またそれに働きかける物質的原因によって変容を与えられることを知れば、私たちには充分である。以上によって私たちは結論することができる、そのあらゆる働きと機能は魂が物質であることを証明する、と。」 第9章 知的能力の多様性、それらは道徳的性質と同様に物理的原因に依存する。社会性、道徳、政治の自然的原理 「自然はそのあらゆる作品を多様化せざるをえない」という考察が、人間の多様性の指摘と、そうした多様な人間が社会を形成することの考察に導く。この章ではドルバックの政治思想が語られるので、少しくわしくみていくことにしたい。 「人類の個々人の多様性が彼らに不平等を設け、その不平等が社会を支える。もしあらゆる人間の体力や精神の能力が同一であるならば、彼らはたがいになんら必要としないであろう。彼らの能力の多様性、それによって彼らの間につくられる不平等が、人間をたがいに必要とさせるのである。そうでなければ、彼らは孤立して生活することになろう。以上で明らかなように、私たちがしばしば誤って文句をつける不平等と、私たちの誰もが自分を保ち幸福を手に入れるためにたった一人で有効に働くことの不可能とが、私たちを結合させ、同胞に依存させ、彼らの援助にふさわしくさせ、彼らをして自分たちの目論見に好意をもたせ、私たちの機関における秩序を乱しそうなものを共通の努力によって避けるべく彼らを引きつけざるをえない、という望ましい状態に私たちを置くのである。人間の多様性と不平等の結果として、弱者は強者の保護を受けざるをえない。強者が彼自身にとって有用と考えれば、弱者の知識や才能や仕事に頼らざるをえないのも、そのためである。こうした自然的不平等によって、国家はそれに奉仕する市民たちを区別し、国家の要求に応じて、その知識、善行、援助、美徳が現実的もしくは想像的利益、快楽、あらゆる領域における快感をもたらす人びとを称え、これに報いる。天才が人びとを支配し、その権力を全民衆に認めさせるのは、そのためである。このように精神的あるいは知的ならびに肉体的能力の多様性と不平等が、人間を人間に必要とさせ、人間を社会的にし、道徳の必要を人間にはっきりと証明してくれる。」 この辺の叙述は、自然状態において人間は平等であり、社会が人間に不平等をもたらしたとするルソーの立場とは逆である。 ドルバックは、「政治は有用であるためにはその原理を自然に基づかせる、すなわち社会の本質と目的に合致しなければならない」としたうえで、「人間たちは社会で生きるためにたがいに接近し、正式にせよ暗黙にせよ、一つの契約を交わし、それによってたがいに奉仕し、危害を加えないことを約束した。ところが、同胞にはなんらかまわず、自分の情念や一時的な気まぐれの満足にいつも幸福を求めようとするのが各人の本性であるから、彼を義務につれもどし、それに合致するように強制し、情念のために忘れがちな約束を想起させるには、一つの力が必要であったのだ。その力が法律であり、それは社会構成員の行為を規制し、社会の目的に協力するよう彼らの行動を方向づけるために、結集された社会の意志の総和である」と社会契約や法律を説明する。 ここから、個々人の「多様性」に基づく善悪や情念の分析に進み、「なにも恐れない人間はやがてみな悪人となり、誰も必要としないと思う人は、手心を加えず自分の意のままに従いうると思いこむ。したがって恐怖こそは、社会が元首たちの情念に対置しうる唯一の障害であり、恐怖がなければ、彼らはみずから腐敗し、社会から渡された手段を使ってやがて不正の加担者となるであろう。そうした弊害を避けるためには、社会は元首たちに委ねる権限を制限し、彼らが社会を害することを防ぎうる余地を残しておくべきであり、諸々の力を慎重に分割すべきである」と、情念論から元首の権限の制限の必要性を指摘する。 しかし情念そのものは悪ではない。「自然は人間を良くも悪くもつくっていない。自然は多少とも活動的、可動的なエネルギーをもつ機関を作り、それに肉体や体質を与え、その必然的結果として多少とも烈しい情念や意欲が生まれてくる。それらの情念はつねに幸福を目的とする。したがってそれらの情念は正当であり、自然であり、人類存在への影響によってのみ善とか悪と呼ばれるのである。」 「人間の本性が素材を提供し、教育や、国家的、家庭的な習俗や先例などがそれに形態を付与し、自然が示した体質から、分別ある人間あるいは常軌を逸した人間、狂信者あるいは英雄、公共の福祉への熱烈な奉仕者あるいは手に負えぬ犯罪者、開けた人あるいは愚かな人、美徳の利に魅せられる賢者あるいは悪徳に溺れる無頼漢をつくる。道徳的人間の多様性のすべては、感官の媒介によって異なる脳に様々に排列され、配合された様々な観念に依存する。体質は物理的実体の所産であり、習慣は物理的変容の結果であり、人間の精神の中に排列された意見が善いか悪いか、真実か過誤かは、感官を通じて受けとった物理的衝動にほかならないのである」というのが、この章の結論である。 |
| 2003年7月6日 |
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