「自然の体系」要約と私見 その3
Des extraits et vue privee sur <Systeme de la Nature> de Baron d'Holbach : 3

「自然の体系」 第一部 

第10章 私たちの魂はそれ自体から観念を引き出さない、本有観念は存在しない
 一転して、この章は、「魂を肉体と区別された実体あるいは自己とまったく異なる本質に属するとこだわりつづける人びと」との想定問答集となる。
 ドルバックによれば、「彼らの論拠は、内部器官はそれ自体の基盤から観念を引き出す力を持っていると主張することにある。彼らは人間に生まれながらの観念を持たせたがり、その奇妙な考えに従って、それを本有観念と呼んだ。したがって彼らは、一切のものが結びつけられた自然の中で、魂は特別の権限によって、それ自身で動き、自分で観念を作り出し、機関を動かして思考対象の映像を供給する外部の原因にはなんら決定されずに、なんらかの対象を考える機能を享受する、と考えたのである」という。
 その誤謬を明らかにするためにはどうすればよいか。本有観念とみなされているものの実体は何か。ドルバックは徹底した感覚論の立場から答える。「本有観念あるいは生まれた時に私たちの魂に印されている変容の誤りを悟るためには、それらの根源にさかのぼりさえすればよい。そうすれば、私たちと親しい、いわば一体化した観念は私たちの感官の一部を通じてやってきたものであり、時にはすごく苦労して私たちの脳に刻みつけられるが、けっして固定したものではなく、たえず私たちの中で変化してきたことが明らかになるであろう。私たちの魂に結びつけられた、それらの観念なるものは、教育や手本とりわけ習慣の結果であり、習慣は運動の繰り返しによって私たちの脳を諸々の体系に親しませ、明晰な観念あるいは乱雑な観念を或る仕方で連合させることが、明らかになるであろう。一言でいえば、私たちはその起源を忘れた観念を本有観念と思いこむのである。」
 ドルバックは結論する。
 「人間のあらゆる観念、知識、在り方、考え方は後天的である。私たちの精神はそれが知るものの上でのみ働き、鍛えることができ、それが感じた事物だけを良かれ悪しかれ知るのである。観念の原型あるいは観念に連関しうる物質的対象を私たちの外部に前提しない観念、抽象的観念と呼ばれるものは、私たちの内部器官がそれ自体の変容をながめる時の仕方にほかならず、その内部器官はそれらの変容のいくつかを他と無関係に選択するのである。善意、美、秩序、知性、美徳などの観念を示すために私たちが用いる言葉は、私たちがそれらを、感官がそうした性質をもつと示してくれた対象に、あるいは私たちに知られた在り方や働き方に、関連づけ、結びつけなければ、なんの意味も示さないのである。」

第11章 人間の自由の体系
 この章では、唯物主義から一歩進んで、そこから必然的に帰結するとドルバックが考える「運命の体系(決定論)」が明らかにされ、人間の自由意志が否定される。 
 ドルバックによれば、魂を非物質的であるとする人々は、「魂は自らの運命の支配者であり、自らの働きを規制し、自らのエネルギーによってその意志を決定することができると信じ、一言でいえば、人間は自由である、と主張した」という。しかしドルバックの考えでは、「魂は他の機能よりも一層隠れた若干の機能と相関的に考えられる肉体にすぎない。」また、「私たちの考え方は必然的に私たちの在り方によって決定される、したがってそれは私たちの自然的構造と、私たちの器官が私たちの意志から独立して受ける諸々の変容とに、依存する。」
 つまり、「一言でいえば、人間たちの行動はけっして自由ではない。それらはつねに、彼らの体質、既知の観念、幸福についてもつ真実か誤った観念、はては手本や教育や日々の経験によって教化された彼らの意見からの必然的結果である。」
 しからば、人間に自由意志があるようにみえるのはなぜか。
 「しばしば知らぬまに私たちに働きかける原因が多種多様であるために、他人の行動は言わずもがな、自分自身の行動の真の根源に遡ることは不可能であり、少なくともきわめて困難であることを認めなければならない。それらの行動は、結果となんら類似性も関係もないと思われる、ごく縁遠い、きわめてはかない原因に依存することが多いために、それらの原因を発見するには特別の英知が必要なのである。」したがって、「私たちを動かす原因に遡らず、私たち自身に起こる複雑な運動を分析、分解できないために、私たちは自分を自由と思いこむのである。」
 ドルバックによれば、こうした誤りへの対処方法は明らかである。「以上すべてが証するのは、人間の迷妄に適切な治療を施したいと望むならば、その根源に遡る必要があるということである。人間の意志を動かす真の原因が見分けられないかぎり、またつねに用いられてきた無効あるいは危険な動機に代えて、より現実的な、より有用な、より確実な動機を置かないかぎり、彼らを矯正しようと考えても無駄である。」
 これらの議論から、自由意志の問題について、ドルバックは次のように断定する。
 「私たちは原因も連鎖も働き方も分からない出来事を偶発事とみなすのである。しかし一切が結合された自然の中には原因のない結果は実在しない。精神的世界におけると同様に物理的世界においても、生起する一切のものは可視的か不可視的原因の必然的結果であり、それらの原因はそれ自体の本質に従って働かざるをえない。人間における自由とは、彼自身のうちにふくまれる必然性にほかならないのである。」

第12章 運命の体系は危険であると主張する意見の吟味 
 前章での議論の内容をうけ、この章では、世俗的な倫理とドルバックの理論(運命の体系=決定論)の整合性が問題となる。
 ドルバックは世人からの質問を想定する。「もし人間の行動がすべて必然的であるならば、人は悪事を犯す者を罰する権利がなく、彼らに腹を立てることさえできず、彼らになんら責任を負わせることもできず、また法律が彼らに罰を科すならば、その法律は不当ということになろう。」
 ドルバックは答える。「或る行動を誰かの責任とすることは、その行動を彼に帰し、彼をその作為者と認めることである、と。したがって、その行動が必然性という原動の結果と考えても、その責任を問うことはできる。」また、「法律は、社会を維持し、社会の人間が害しあうことを阻止するためにだけ作られる。したがって法律は、社会を乱し、同胞にとって有害な行動をする人びとを罰することができる。」
 ドルバックはさらなる反論を予想する。「すべてを必然性に帰するそうした主義は、正と不正、善と悪、善徳と悪徳について私たちがもつ観念を混乱させ破壊さえするにちがいない、と。」ドルバックはそれを否定する。「人間は一切において必然的に行動するが、その行動が同胞や彼が生活する社会の真実の有用性をめざすかぎり、その行動は正当であり、善良であり、尊敬に値する。そうした行動と社会人の幸福を実際に害する行動とを区別しないわけにはいかない。」現代からみれば、ドルバックが準備した答えはいささか楽天的なようにも思える。
 ドルバックの説明をさらに追ってみよう。「人間のあらゆる行動は必然的であり、つねに有用な行動、私たちの真実の持続的な幸福に寄与する行動は、それらを経験する人びとが情念や誤った意見によって事物の本性とおよそ合致しない仕方で判断しないかぎり、美徳と呼ばれ、それらすべての人びとに気に入るのである。各人は、それぞれ固有の在り方と、幸福について作り上げた真実か誤った観念に従って必然的に行動し、判断する。必然的行動には、私たちが是認せざるをえないもの、心ならずも非難せざるをえないものがあるが、それを別人の目で見ることを想像する時、私たちは赤面せざるをえない。善人も悪人も等しく必然的な動機から行動するのだ。彼らは、構造が異なり、幸福についての観念が違うだけである。」
 しかし、この先の考察はユニークである。
 「もし原因を結果から判断するならば、宇宙に微少な原因というものはない。自然の中では一切が結びつけられ、作用し反作用し、動き変わり、結合し解体し、形成され破壊され、重要で必然的な役割を果たさない原子は一つもない。知覚しえない分子も、しかるべき環境に置かれるならば、驚くべき効果を起こさないものはない。もしあらゆる原因を私たちが見る結果に結びつける永遠の鎖を、少しも見失わずにたどることができるならば、またその行動から私たちが権勢家と呼ぶ人びとの思考や意欲や情念を動かす感知しえない糸の端をつきとめることができるならば、真の原子こそ精神界を動かすために自然が用いる秘密の梃子であることを、発見できるであろう。」ここでは、徹底した決定論を支えるために「知覚しえない分子(原因)」が導入されている。思想の純度という観点から判断すると、この「知覚しえない分子(原因)」の導入は不徹底なものであり、「神」を基点にする論理の誤謬を指摘しながら、ドルバック自身が「自然」の不合理性を容認しているようにとれなくもない。しかし、不可知な原因を容認するこの論理の運びを、私は、ライプニッツの「表象perception」概念を受け継ぎ、それを一元論(唯物論)の立場から換骨奪胎してフロイトの「無意識」の理論に橋わたししていく過程的なものと読んでみたい誘惑にかられる。そしてこのように読むとき、不可知な原因についてのドルバックの記述は、あいまいさと不徹底さを残したまま、非常に重要なものであると思えてくるのである。
 さて、倫理問題への対処についてのドルバックの結論は次のようなものである。
 「必然に従おう。必然は私たちの意に反してつねに私たちを引きずって行くであろう。自然にまかせよう。自然が私たちに提供する善を受けとろう。自然が私たちに経験させる必然的悪には、自然が提供する救済手段を対置させよう。」

第13章 魂の不滅、来世の教義、死の恐怖について
 この章では、まず魂が肉体と区別されないということ、すなわち魂の精神性や不滅の否定が主張され、魂の不滅という考えは迷信や宗教に由来するとして、宗教批判に転じていく。
 ドルバックは、「宗教はしばしばまったくの役立たずや極悪人にも天国に居場所を与えている」とし、これに次のような辛辣な註を付す。「ユダヤ人中ではモーセ、サムエル、ダビデ、イスラム教徒中ではマホメット、キリスト教徒中ではコンスタンティヌス、聖キュリロス、聖アタナシウス、聖ドミニクスほか、教会が敬うその他多くの敬虔なならず者と熱心な迫害者がこれにあたる。さらに十字軍兵士や旧教同盟員等もそれに加えることができる。」
 キリスト教の教義への批判は、たとえば復活について、「マギ僧が考え出したと言われるこの首をかしげたくなる説には未だに多くの支持者がいるが、彼らはこの説を一度も本気で検討したことがないのである」と仮借ないものである。
 「来世の教義にはいささかの有用性があり、それが若干の個人を本当に抑制しているとしばらく仮定してみよう。だが、そこから生じるおびただしい悪に比べれば、この微々たる利点など何であろう。来世の観念が抑制する臆病な人間が一人いれば、それが抑制できない人間の数は数百万にのぼる。それが無分別、残忍、狂信的、無能、邪悪にする人間は数百万いる。それが社会への義務から逸脱させる人間は数百万いる。それが心を悩まし、乱す人間は無限にいるが、その協働者にはなにも現実の善をもたらさないのである。」
2003年7月7日

 

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「自然の体系」要約と私見 その2

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