「自然の体系」要約と私見 その4
Des extraits et vue privee sur <Systeme de la Nature> de Baron d'Holbach
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| 「自然の体系」 第一部 第14章 人間を抑制するには教育、道徳、法律で充分である。不滅への欲望、自殺について この章では、トーンが一変する。 冒頭で、「人間を現世で活動させる動機を、人間の想像力のうちにしか存在しない観念世界に求めてはならない」と述べたうえで、ドルバックは、「本書のなかで述べられたことに注意を払っていれば、とりわけ教育が、迷妄を治療する本当の手段を提供しうるのに気づくであろう」と指摘する。ここから社会批判に移り、「真に公共の利益を目指す、義(ただ)しく、啓発され、徳高く、抜かりない統治組織は、道理をわきまえた臣民を支配するのに作り話や嘘を必要としない。そうした統治組織は、自分の義務をよく知り、利害から公平な法に従い、自分のためになされようとする善を感じとれるような市民を、幻惑を用いてたぶらかすのを恥じるであろう」と語る。 さてドルバックの考える教育の質であるが、「正直で勇気があり、仕事に巧みで国に有用な市民をつくろうと思ったら、死への根拠のない恐怖感を幼年期から吹き込まないようにしよう」と述べ、この文脈のなかで、「実は不滅は存在しており、天才、才能、美徳にはそれを要求する権利がある」と、前章で述べた不滅の批判に留保をつける。 そしてこの新たな観点から、超然として刑死したソクラテスとフォキオンが称えられる。すなわち、「ソクラテスや、フォキオンのような人々の骨壺に涙をそそごう。彼らの刑死が人類につけた汚点を涙ですすごう。アテナイ人の忘恩を私たちの哀惜で償おう」といい、「人間を社会に結びつけている契約を考察するなら、あらゆる契約が条件つきで相互的、つまり両当事者の相互利益を前提としていることが分かる。市民は幸福という絆によってしか社会、祖国、協働者につながりを持てない。この絆が断たれれば、市民は再び自由になるのだ」として、契約からの離脱や自殺が肯定される。「端的に言えば、人間に死を軽視させ、世人が死後について与える誤った観念を精神から追放するほど有用なことはない」のである。 第15章 人間の諸利益、もしくは人間が作り上げた幸福の観念。徳なくして人間は幸福になりえない ついでドルバックは、「有用性は、人間の判断の唯一の尺度でなければならない。有用とは、自分と同類の幸福に寄与することであり、有害とは、彼らの不幸に与ることだ」と「有用性」を定義する。宗教や本有観念を否定し、すべての観念は感覚に由来する後天的なものであるとする彼は、この有用性(功利主義)の観点から「徳(社会道徳)」を定義していく。 「感覚的、知性的存在は、その持続のいかなる瞬間にも自己保存と自己の幸福を閑却するはずはない。したがって、彼には自らを幸福にする義務がある。だが経験と理性はやがて、彼が自分の幸福に必要なすべてを、援助もなくたった一人では獲得できないことを証明する。彼は他の感覚的、知性的存在と共に生きているが、それらは彼と同じく自分たちの幸福に専念している。だが彼らには、彼が自分のために欲している事物を獲得する手助けができるのだ。彼はこれらの人びとは、自分たちの幸福がそこに関わるとときにしか彼に好意的でないのに気づく。そこから彼は自分の幸福のためには、どんなときも自分の意図にもっとも協力できる人びとから愛情、称賛、尊敬、援助をかち得られるように行動する必要があると結論する。彼は人間の幸福にもっとも必要なのは人間であり、人間を自分のために動かすには、彼らに自分の計画を助ければ現実的な利益が得られると思わせなければならないことに気づく。しかし、人間に現実的な利益をもたらすとは、徳をもつということだ。そこで分別のある人間は、有徳であることが自分の利益になると感じざるをえない。徳とは、他人の幸福によって自分が幸福になる技術にすぎない。有徳な人間とは、自分に幸福を返すことができ、自分の保存に必要でもあれば、自分に幸福な生をもたらすこともできる人びとに、幸福を与える者なのである。」 富や快楽そして権力そのものは善でも悪でもなく、それをどのように用いるかによって善にも悪にもなる。 「人間にあって幸福がこれほど稀なのは、自分の幸福に無関係または無用な対象、あるいは自分にとっての現実的悪に転じる対象に幸福を結びつけるからでしかない。富そのものは善くも悪くもないが、用い方しだいで有用にも有害にもなる。それを用いるすべを知らない未開人には善くも悪くもない貨幣も、守銭奴によって貯めこまれて無用な物になり、浪費家や道楽者はもっぱら後悔を招き体をこわすためにそれを用いる。それを感じられぬ者には何でもない快楽も、それが体のためにならず、身体機構を狂わせ、義務をなおざりにさせ、私たちを他人の目に軽蔑すべき者とするなら現実的悪になる。権力はそれ自体では何でもないが、私たちがそれを自分の幸福に役立てないなら無用であるし、濫用されればただちに有害になり、不幸な者を生じさせるために用いられるならただちに忌まわしいものになる。」 第16章 何が幸福を構成するかに関する人間の誤謬が、人間の諸悪の真の源である。諸悪に用いようとされた実効のない療薬について 「理性は人間に壮大な欲望を抱くことを禁じない。野心は人類の幸福を目的とするならば人類にとって有用な情念である。」しかし、「人間のその同胞への権利は、彼が同胞にもたらしたり期待させたりする幸福だけに基づくはずだ。それがなければ同胞に行使する権力は明白な暴力、侵害、暴虐となろう。正当な権威はすべて、人を幸福にする能力のみに基づくのである。人は誰も他人への命令権を自然から授かってはいないが、私たちは自分に幸福への期待を抱かせる人には進んでその権利を与える。統治とは、統治される者の有利を図って主権者に授けられる万人への命令権でしかない。主権者は臣民の身体、財産、自由の擁護者であり守護者であって、臣民はこの条件でしか服従を承服しないから、統治は社会を不幸にするために自らに委託された力を用いるならただちに山賊行為にすぎなくなるのである。宗教の支配力はそれが国民を幸福にする力を持っているという、人びとのはまりこんだ臆見だけに基づいている。だから神々も人間を不幸にするなら忌まわしい亡霊でしかあるまい。統治と宗教は、どちらも人間の至福に寄与するかぎりでのみ理性的制度なのであろう。禍しか生じないような頸木に自らつくのは狂気というものであろうし、人間に得にもならないのに自分の権利を放棄するよう強いるのは不正というものであろう。」 ドルバックの政治批判はさらに続く。 「多くの偏見が人間を統治に関して盲目にした。国民は権威の本当の基礎を知らず、幸福をもたらすのを役目とする王にあえてそれを要求しなかった。神々にもまごう主権者は、生まれながらに残りの人間に命令する権利を授かって民衆の至福を思いのままに配分できるが、自分が生み出した不幸な者には責任を負わないと決めこんだ。こうした臆見の必然的帰結として、政治は全員の至福をたった一人の、また何人かの性悪な特権者の気紛れの犠牲にするという宿命的技術に堕した。国民は自分が災難をこうむっているにもかかわらず自分の立てた偶像を熱愛し、自らの悲惨の媒介者を愚かにも敬い、それらの不正な意志に服従し、それらの野望、飽くなき貪欲、きりのない気紛れを癒すために生命、膏血、財を惜しまなかった。主権者とともに害をなす権力を握るすべての者を愚かしくも尊敬した。声望、地位、肩書き、栄華、羽振り良さの前に跪いた。最後に、自らの偏見の犠牲者となった国民は若干の人間から虚しく幸福を期待したが、それらの者は悪徳のため、現に持つものを楽しむことのできぬ無力さのため、自分も不幸なために民衆の幸福にかまう気持はほとんどなく、こうした指導者らの下で民衆の物質的、精神的幸福はどちらも等しくなおざりにされたり、壊滅させられたりしたのである。」 宗教への激しい批判がこれに続く。 そして政治と宗教を考察した結果、「こうして人類の不幸の総量は減少するどころか、宗教、統治、教育、臆見のため、つまり運命を緩和するという口実で人間が採用させられたあらゆる制度のために増大した。このことは何度繰り返しても過ぎるということはないが、私たちは人類を苦しめる諸悪の真の源を誤謬のうちにこそ見出すだろう。人類を不幸にしたのは自然ではない。人類が涙のうちに生きるようにしたのは神の怒りではない。人間を邪悪で不幸にしたのは父祖伝来の堕落ではない。こうした嘆かわしい結果は、誤謬のせいでしかないのである」と結論をくだす。 諸制度によって、人間は現実的に不幸になる一方なのか。この点に関して、ドルバックはけして悲観的ではない。 「存在を続けたがるかぎり、完全に不幸だと言う権利はない。私たちは希望に支えられるかぎり、きわめて大きな善をなお享受しているのである。」自然とそれに基づく生への渇望を思うとき、政治や宗教といった人間がつくりだしたものへの批判は静まり、次のような美しい文章でこの章を締めくくる。「私たちが生き、心のばねがその力を持ちつづけるかぎり、心は欲望する。心が欲望するかぎり、心は自分に必然的な活動を感じる。心は活動するかぎり生きているのだ。生命は水が押し合い、継起し、途絶えずに流れて行く河になぞらえられる。起伏のある河床を流れざるをえない水はときおり障害物に出会って停滞を妨げられるが、水は自然という大海に回帰するまでほとばしり、飛び跳ね、流れることをやめないのだ。」 第17章 真の、または自然に基づいた観念のみが、人間の諸悪の療薬である。第一部の要約 「私たちは経験を案内人に立てることをやめるたび、誤謬に陥る。誤謬は宗教の裁可をとりつけると、はるかに危険で手がつけられなくなる。そうなると、私たちはけっして考え直すことを承知しない。私たちはもはや見も聞きもしない方が自分のためだと思いこみ、真理に目を閉ざすのが幸福の要求するところだと想定する。」 また、人間の迷妄に超自然的原因を想定する人間研究の博士、ドルバックにいわせれば「藪医者」は、「人間が生きているかぎり感覚し、欲望し、情念を持ち、身体組織から得られるエネルギーに応じて情念を満足させるようにできているのが分からなかった。彼らはこれらの情念を、習慣が根づかせ、教育が心のうちに播き、統治の害悪が強め、世論が是認し、経験が必要ならしめることに気づかなかった」と批判される。 前章からこの章にかけて、「生への渇望」とそれと一体の「快感原則」が肯定され、人間にとっての「自然」とはこの「快感原則」だという視点から論理が組み立てられているように思われる。そこから帰結するのは、宗教への辛辣な批判と同じ人物が書いたとは思えない穏やかな情念論である。 「情念を本当に抑制するものは情念だ。だから情念を滅却しようとするのではなく、情念を導くように努めよう。社会に有害な情念は、社会に有用な情念で釣り合わせよう。経験の成果たる理性とは、もっぱら私たちが自分自身の幸福のために耳を傾けるべき情念を選びとる技術である。教育とは人間の心のうちに、有用な情念の種を播いて耕す技術である。立法とは危険な情念を抑え、公益に有利となりうる情念を促す技術なのだ。宗教は人間の心のうちに、自分にも他人にも有害な情念のもとになる幻影、幻想、幻惑、ためらいの種を播いて養う技術にすぎず、人間はこれらの有害な情念と闘ってこそ、幸福への道を歩めるのである。」 結論 いよいよ、第一部の結論である。 「私たちは自然のうちに働く隠れた原因とその多様な結果を指示する種々の名辞は必然性を異なる観点から考察したものにすぎない、ということを結論できた。」 「これまでに述べたすべてから明白に帰結するのは、人類のありとあらゆる誤謬は経験、感官の証言、健全な理性を放棄し、しばしば人を欺く想像力とつねに疑わしい権威との導きにまかせたために生じたということである。人間は自然を研究し、自然の不変の法則を学び、現今の誤謬の必然的帰結である諸悪への真の治療薬を自然のうちにのみ求めることを怠るかぎり、いつも真の幸福を見過ごすだろう。」 最後にドルバックは読者に呼びかける。 「おお人間よ、それゆえお前の想像力やぺてんが生み出した幻影に心乱されるのはやめるがよい。漠然とした希望は捨て、耐えがたい恐怖を脱却し、自然によって示された必然の道を不安なく進むがよい。お前の運命が許すならそこに花をちりばめ、できることなら運命がそこに蒔いた茨を除け。うかがい知れぬ来世をのぞきこんではならない。来世の暗さというものを探っても無用または危険であることを充分証明しているのだから。したがって、お前が知るこの生のうちで自分を幸福にすることのみを考えるがよい。」 |
| 2003年7月8日 |
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