世界――予め設定される時間と人物

(須永朝彦氏「歌舞伎ワンダーランド」より)

 「仮名手本忠臣蔵」は赤穂浪士の芝居なのに、なぜ浅野内匠頭や吉良上野介や大石内蔵助ではなくて塩谷判官(えんやはんがん)や高師直(こうのもろなお)や大星由良之助という役名になっているのか。また「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」は伊達騒動、「鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」は加賀騒動のそれぞれ芝居なのに、なぜ足利家や北条家の事件として仕組まれているのか。 TVの時代劇や曽ての東映の豪華時代劇映画とは甚だ趣を異にする歌舞伎のこれらの演目を見て、少年時代の私は疑問と関心を抱いたものであるが、同様の体験を持つ方も多いのではないかと思う。これは、ひとえに<世界を定める>という歌舞伎および人形浄瑠璃(今日の文楽)の特殊な作劇法に起因している。
  それから、注意深い観客は、八百屋お七だのお染久松だのを主人公にした芝居が二つも三つもあることに、また同じ人物が幾つもの芝居や所作事(舞踊)に顔を出すことに気づいているだろうが、江戸の昔はもっと大勢の人物が繰り返し新しい芝居に登場したのであり、たとえば曽我兄弟が登場する狂言だけでも五百作以上は作られていたのである。これも<世界>に根ざしている。 更に、関守関兵衛実ハ大伴黒主(関の扉)とか手代要助実ハ吉田若松(法界坊)とか、それこそ実にしばしば登場人物が途中または終幕で「実ハ何々」と正体を現すのも歌舞伎の筋立の特異なところで、これも<世界>の設定に関係がある。それでは、<世界>とは<何>で<いつ>出来たのか。
  人形浄瑠璃も歌舞伎も庶民の娯楽として発展を遂げたものである。その草創期、脚本を書くに際して、作者たちは、徳川政権に関わる事件や人物の劇化は幕府の抑圧が厳しくてまず不可能であったから、一般の人々がよく知っていて然も興味を持ち得るような名高い伝説・物語・歴史上の事件などを題材として選ぶ必要があった。具体的には、庶民が好んだ先行芸能である能狂言・幸若舞・説教節などが扱った題材とほぼ同じようなもの――たとえば源頼光と四天王の酒呑童子退治、曽我兄弟の仇討、源義経に関する様々の伝説などが選ばれている。 同じ演目の繰り返しでは飽きられるので、後日譚にするとか、当世風の人物や風俗を織り込むなどの工夫が加えられ、これが作劇法として定着、脚本の枠組となったのが<世界>であり、万治・寛文年間(十七世紀後半)に流行した金平浄瑠璃(頼光と四天王の二代目、特に坂田公時の息子公平が活躍する)と共に発生し、近松門左衛門の浄瑠璃「世継曽我」(曽我の仇討の後日譚)や「碁盤太平記」(赤穂義士の事件を「太平記」に仮託して劇化)によって大きな機能を獲得するに至ったとされる。
 その後、<世界>は歌舞伎の作劇にも採用され、やがては必ず<世界>に則って狂言を作るという約束事が成立した。十八世紀半ば頃には江戸では向こう一年間の最初の興行である顔見世(十一月)に先立ち狂言作者と座元と座頭が<世界定め>(九月十二日)という会合を持ち、顔見世狂言の世界を決めるのが習慣となった。
  十八世紀後期の上方の狂言作者(初世並木五瓶、二世並木正三、二世並木千柳などが著者に擬せられているが、よく判らないらしい)が歌舞伎の故実と作法を綴った「戯財録」の「竪筋、横筋之事」という章に「竪筋は世界、横筋は趣向」とあり、これに拠れば竪筋の<世界>が<時間>で横筋の<趣向>が<空間>であると理解できる。<世界>を定めることによって時間(時代と一群の登場人物)は限定されるが、<趣向>を立てて新たな空間を作り出すことによって創意ないし新鮮味を示すわけである。「戯財録」には「譬へぱ太閤記の竪筋へ、石川五右衛門を横筋に入る」とあり、元来その<世界>に無い人物や事件または当世の風俗人情などが<趣向>に相当する。
  <世界>の機能ないし有効性は何かといえば、一つは過去の時代を借りて現代の風俗を描き得ること、一つは現代の事件を過去の時代に当て嵌めて描くことによって現代の政道や世相を批判諷刺できること、一つは<世界>に則って大胆斬新な<趣向>を盛り込み複雑な筋を持つ新作(書替狂言)を出し得ること等である。一面から見れば<世界>は枷とも制約とも捉え得るが、作者たちはこれを逆手に取ったともいえるだろう。
  特定の<世界>に拠ると申しても、浄瑠璃も歌舞伎も今日言うところの<歴史劇>ではなく、時代考証など施されなかったから、当然のこととして時代は限定されていても実際の舞台面は超時代的な趣を現出することとなった。中世の領主や王朝の姫君が当代の武家の風俗で登場するのはまだましな部類で、源平争乱期の吉野に鮨屋があったり、大化の改新の頃の奈良に江戸風俗の町娘が登場したり、鎌倉の稲瀬川に三囲(隅田川畔にある)があったりする。
  当時の観客はこれを自明の理として受け流したのだろうが、現代から見れば荒唐無稽の域を超えてファンタスティックでさえあり、そこに現代に作用する歌舞伎の一つの蠱惑力を認めてよいかと思う。更に<世界>というものを踏まえて歌舞伎を見物すれば、「判りにくい」と言われる筋の理解の一助にもなるだろうし、また新たな興趣も湧くのではないかとも愚考する。
  ついでに言えば、幕府の瓦解と共に歌舞伎の作劇上の<世界>も消失し、明治以降の新作で歴史上の事件を扱う場合はみな実名となった。幕末から明治にかけて活躍した河竹黙阿弥(二世河竹新七)が維新後に書いた狂言も例外ではなく、河内山宗俊も水戸黄門も実名で登場し時代も場所も偽りなく描かれているが、瓦解前の狂言にはあった超時代的感覚は失われている。僅かに「土蜘」「茨木」「紅葉狩」などの舞踊劇に旧来の歌舞伎の趣が認められるものの、名題(題名、<外題(げだい)>とも)はもう新時代風であり、興趣に欠ける。黙阿弥以後の劇場外部の作者に至っては歌舞伎風に書くことを恥と心得たようである。所謂新歌舞伎がつまらないのは、一つには<世界>を放棄しているからではないかと思う。

  以上の歌舞伎における世界構造の解説は、須永朝彦氏の著作「歌舞伎ワンダーランド」(新書館/1990年)所収の「世界――予め設定される時間と人物」(同書6〜9ページ)を須永氏の了解のもと再掲したものです。

対談:歌舞伎と小説の交流

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