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幕が開くと舞台は将門山古御所、「夫れ五行子にありといふ、かの紹興の14年、楽平県なる陽泉の…」という中国種の詞章の置浄瑠璃があって、スッポンから傾城がセリ上がり、面あかりに照らし出される。常盤津の舞踊劇「忍夜恋曲者」、通称「将門」のわくわくするような始まりである。この傾城は実は平将門の遺児滝夜叉姫であり、幕切れの屋台崩しでは大蝦蟇に跨がり古御所の屋根の上に現れて大見得を切る。西洋流の思想とかドラマツルギーとかとはまず無縁のものだが、蠱惑的であることは無類である。
滝夜叉姫の狂言は、今日では殆ど「将門」しか出ないが、幕末には度々書替えられて上演された。 「将門」は天保7年の「世善知相馬旧殿(よにうとうそうまのふるごしょ)」の大詰浄瑠璃であり、この一幕のみが残った。滝夜叉姫は今日でも立女形の主要な役の一つだが、実は京伝の創作に成るキャラクターで文化3年12月板行の「善知安方忠義伝」の女主人公、「世善知相馬旧殿」は、「忠義伝」を脚色した狂言なのである。「忠義伝」は平将門の遺児姉弟の謀叛復讐譚である。もとより左様な事件が正史にある筈もなく、「今昔物語集」や、「元亨釈書」などに見える将門の遺児らしき者の甚だ不確かなる肖像を、近世の通俗史書や浄瑠璃・歌舞伎の<前太平記物>が潤色拡大したものを、更なる虚構の裡に描出したものである。
<将門の娘>について言えば、「今昔物語集」巻十七(平将行の第三女とする)や「元亨釈書」(平将門の第三女)の<冥土に堕ちるも善根の人ゆえに地蔵菩薩に救われて長寿を全うした>如蔵尼(にょぞうに)は、通称史書「前太平記」では多少の潤色は施されているものの未だ徳行の人である。
「忠義伝」に出る将門の娘如月尼(にょげつに)は、「前太平記」の如蔵尼の写しではあるが、蝦蟇の精霊の陰気を受けて天下を狙う国崩しの美女滝夜刃姫(板本の表記は「夜叉」ではなく「夜刃」)と変ずる。正史には毛ほども無く伝説俗書の類に細々と伝えられてきたものが、ここで一気に膨張して瑰麗な女人像と化したかのごとくである。
しかし、この滝夜刃像は、史書や物語を博捜した上で想像力を駆使して創り上げたというほどのものではない。将門の娘というものは、浄瑠璃・歌舞伎に度々登場しており、その名も小蝶(享保9年・関八州繋馬<かんはっしゅうつなぎうま>)、梅園(宝暦2年・楪姿見曽我<ゆずりはすがたみそが>*宝暦3年・将門故郷錦<まさかどこきょうのにしき>)、俤姫(明和元年・吾妻花相馬内裡<あずまのはなそうまだいり>)、春雨(安永元年・江戸容儀曳綱坂<えどかたぎひけやつなさか>)、七綾姫(寛政8年・清和二代遨源氏<せいわにだいおおよせげんじ>*文化元年・四天王楓江戸粧<してんのうもみじのえどぐま>)など様々である。具体的に指し示すことは難しいが、滝夜刃姫のキャラクターというものは、これら先行芸能に現われた将門息女像に拠っているとみて、まず間違いないだろう。<女将門物>の存在も考慮に容れた方がよいと思う。
滝夜刃という名は、京伝と親しかった桜田治助が天明4年(1784)に中村座の顔見世狂言として書き下ろした「大商蛭子島(おおあきないひるがこじま)」の一番四建目に端敵(男)であるが「藍沢の滝夜刃」の役名が見える。まだ調査が不充分で確かなことは申し難いが、京伝は、この狂言から趣向を幾つも借りて戯作に活かしているので、或いはここから採ったとも考えられる。
また「四天王楓江戸粧」(立作者・鶴屋南北)で、尾上松助が演じた辰夜叉御前(藤原純友の妻、葛城山の蜘蛛の霊魂が分け入って蘇生する)の凄まじい姿も、年代が接近しているだけに何らかの作用を及ぼしているかもしれない。蝦蟇仙人(肉芝仙)が出るのは、これはもう文化元年に松助が演じて大当たりを取った「天竺徳兵衛韓噺」の影響とみて差閊えないが、蝦蟇の妖術を遣うのは弟の将軍太郎良門であり、滝夜刃の蝦蟇の妖術は歌舞伎に脚色された際に仕組まれたものである。
いずれにしても、「忠義伝」の成立は同時代演劇のポピュラリティを抜きにしては考えられない。京伝の読本の成功作は、概ねかかる仕掛の裡に伝奇幻想的空間を獲得しているのだが、この仕掛が京伝の限界でもあり、壮大にして緻密な伝奇小説の完成は馬琴の研鑽を待たねばならなかった。
しかし、その馬琴と雖も、初めは京伝の敷いた轍を踏まざるを得なかった。即ち馬琴は、演劇を見下すような態度を取りながらも、浄瑠璃・歌舞伎の世界設定に則り、権八小紫(小説比翼文)、鉢木(勧善常世物語)、隅田川(隅田川梅柳新書)、薄雪(園の雪)、お俊伝兵衛(旬殿実々記)、お染久松(松染情史秋の七草)、三勝半七(三七全伝南柯夢)、お夏清十郎(常夏草紙)…という具合に演劇から著名な題材・人物を借り受けて、幾多の読本を執筆したのである。演劇が寛政期以降の小説に及ぼした影響の多大さに思い至らざるを得ない。
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