前太平記の世界

(須永朝彦氏「歌舞伎ワンダーランド」より)

 「前太平記」は、前述のごとく平安時代の清和源氏即ち武士の歴史を綴った近世出来の通俗史書だが(註)、類書が無かったので、広く読まれた。有識故実に詳しかった伊勢貞丈(天明四年死去)などは「時代不相応の事不埒多く、故実もなき事多し。何の用にも立たざる書なり」(安斎随筆)と厳しく批判している。「扶桑略記」「日本略記」「栄華物語」等を基に空想を逞しくして潤色加筆しているのは確かで、伝説に過ぎぬことも平然と書き込んであり、そこが広く行われた所以でもあろう。
  伊勢貞丈には八十三種を数える<偽撰の書目>があり(小宮山楓軒「楓軒偶記」に掲載)、「前太平記」や「前々太平記」も偽書の烙印を捺されている。狂言作者の虎の巻たる「世界網目」が引書つまり参考書として挙げる史書には、この<偽書>が少なからず認められる。「大友真鳥実記」「武家評林」「鎌倉実記」「時頼記」「小栗実記」「続太平記」等々。
  それどころか「世界綱目」は幕府によって売買禁止や絶版を命じられた<禁書>までも引書として搭載している。「島原記」「武家盛衰記」「赤穂忠臣記」「慶安太平記」「東国太平記」等々。幕末の狂言作者三升屋二三治の「作者年中行事」には「役名は至ってむづかしく、時代は引書なくては知れがたし」とあり、狂言作者と申すものの姿勢が窺えるかと思う。
  「前太平記」は全四十巻、平将門と藤原純友の反乱、源頼光と四天王の活躍(茨木・土蜘蛛・酒呑童子退治)、源頼義・義家の武功(前九年・後三年の役)がハイライトである。この三件が「将門純友」「四天王」「奥州攻」という呼称で浄瑠璃・歌舞伎の<世界>となり三つを総称して[前太平記の世界]とも括るのだが、「世界綱目」などは個別に搭載している。[前太平記の世界]は江戸の顔見世狂言に長く命脈を保ったが、顔見世狂言はまず再演されることはなく、またこの世界を扱う浄瑠璃系の人気狂言も少なかった――つまり繰り返し上演される狂言が乏しかったので今に残るものも僅かである。
  平将門は、神田明神に祀られていることからも明らかなごとく御霊である。御霊とは、簡単に言えば恨みを呑んで非業の死を遂げた貴人や武士の亡魂を指し、古くは早良親王・井上内親王・伊予親王・橘逸勢・菅原道真・崇徳院・藤原頼長などを数え、崇りをなす御霊は鎮めねばならなかった。道真などは正義懲悪の御霊だが、大方は悪霊として祟るのである。
  御霊信仰は早くから芸能と結びつき、浄瑠璃・歌舞伎にも菅原道真・崇徳院・曽我兄弟などの御霊が登場、将門も早くから採り上げられ<将門物>ともいうべき世界を形成したが、根底の謀叛人という本質は変えられておらず、むしろ魔人的性格が濃厚である。
  芸能における将門像は、専ら民間伝説などに拠ったもので、それは近世に至っても、「将門記」以下の史書に拠るという正攻法は採られず、謡曲「将門」(廃曲)や御伽草子「俵藤太物語」などが利用され「前太平記」が出るに及んでこの通俗史書に拠るようになったらしい。
  一口に<将門物>とは申すものの、田原藤太(藤原秀郷)の将門征伐を前面に出したもの、将門の反乱と純友の反乱を併せて描いたもの、将門の亡霊が活躍するもの、将門を女に仕立てたもの等々扱い方は様々である。
  上方でも古浄瑠璃「平親王将門」や近松門左衛門の浄瑠璃「傾城懸物揃(けいせいかけものぞろえ)」などが上演されているが、将門の人気は地縁の濃い江戸の方が遥かに高かったので、早くから歌舞伎に登場した。元禄年間の「平親王」「平親王将門」「平親王鉄(くろがね)の御所」「艶冠女将門(つやかんむりおんなまさかど)」以下、享保元年「大系図繋馬(だいけいずつなぎうま)」、宝暦三年「将門故郷錦(まさかどこきょうのにしき)」、同六年「将門榎装束(まさかどえのきしょうぞく)」と続き、このあたりから顔見世狂言にしばしば仕組まれ、やがて将門の亡霊は、時代に囚われぬという亡霊の属性を発揮(?)して、「曽我」や「太平記」の世界に出没したり、和藤内(「国性爺合戦」の主人公)や七草四郎(天草四郎)に化身したりするようにもなった。将門の本拠が下総国相馬郡であったところから、「相馬平氏の世界」という呼称も用いられる。
  <将門物>には他に将門の余類(遺児)を主人公とするものが相当ある。将門の遺児たちが親の無念を晴らさんとして立ちあがる――という伝説が史実を離れて民間に生まれたのは、ごく自然な成り行きで、通俗史家や物語作者がそこに着目したのもまた当然のことと首肯できる。将門の遺児は良門というが、正史には見えず、「今昔物語」に出るのが最初であり、されが伝説の衣を纏って、浄瑠璃・歌舞伎の中では将軍太郎良門という物々しい名前と変じている。
  将門の遺児には女子もあったとされ、こちらは様々な名で登場する。彼等は「四天王」の世界に、謀叛人として組み込まれるのが普通である。近松門左衛門の絶筆「関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)」(享保九年・1724)は、将軍太郎良門と妹の小蝶が天下を覆さんとして源頼光とその配下の四天王と戦う――という設定で、以後の作は大体これを踏襲しているが、中には良門が頼光に帰服して別の悪人を討つという異色作(相馬太郎ミバエノ文談<そうまたろうみばえのぶんだん>)もある。将門の娘は、小蝶の他に梅園・俤姫・七綾姫・春雨・滝夜叉姫などという名で登場するが、もとより正史にはこんな姫君の存在は記されていない。
  通称を「将門」という常磐津の舞踊劇「忍夜恋曲者(しのびよるこいはくせもの)」は、今日に残る殆ど唯一の<将門物>で蟇の妖術を使う滝夜叉姫が活躍する。将門の息女に滝夜叉姫の名を与えたのは山東京伝であり、「忍夜恋曲者」は京伝の読本「善知安方忠義伝」を脚色した「世善知特網旧殿」(散佚)の大詰浄瑠璃なのである。
  滝夜叉姫の登場する狂言に鶴屋南北の絶筆「金幣猿島郡(きんのざいさるしまだいり)」(文政十二年・1829)があるが、これは道成寺との綯交(具体的には浄瑠璃「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」の書替)で四天王は登場しない。市川猿之助が復活して何度か上演しているほか、昭和五十一年に歌舞伎座で、武智鉄二・補綴、中村歌右衛門と松本白鸚(当時は幸四郎)の主演で道成寺の筋を抜き上演している。
  南北は四天王の世界に将門余類の出る顔見世狂言として「四天王楓江戸粧(してんのうもみじのえどぐま)」(文化元年・1804)「四天王櫓イシヅエ(してんのうやぐらのいしづえ)」(文化七年・1810)「戻橋背御摂(もどりばしせなにごひいき)」(文化十年・1813)「四天王産湯玉川(してんのううぶゆのたまがわ)」(文政元年・1818)などを書いており、台本を読むだけでも、舞台面の面白さが想像される。中でも、「四天王産湯玉川」は傑作と思われるので、復活上演が待たれる。
  東の将門に呼応して蜂起した西海の純友の余類もまた「四天王」の世界に登場する。家来の中では伊賀寿太郎というのが剛の者で、歌舞伎では立者の役者が演じた。辰夜叉御前という妖女は、しばしば純友の妻とか姉妹とかに設定され、葛城山の土蜘蛛の精が乗り移ったりする。
  酒呑童子退治や土蜘蛛退治の伝説で名高い頼光の四天王(渡辺綱・坂田公時・碓井貞光・占部季武)は江戸期全体を通じて常に劇化されたものの、現代に残ったのは土蜘蛛の舞踊と山姥(坂田公時の母という設定)の舞踊ばかりである。
  後冷泉天皇の世(1054〜68)に陸奥の俘囚安倍頼時・貞任父子が反乱を起こし、陸奥守源頼義がこれを平定したのが前九年の役、白河帝の世(1073〜86)に出羽の清原氏の内紛を陸奥守源義家(八幡太郎)が鎮めたのが後三年の役で、この二つの変事を背景とする世界が「奥州攻」である。
  「奥州攻」の世界に則る狂言で今日に残ったのは、近松半二・他の浄瑠璃(宝暦十二年・1762)を原作とする「奥州安達原」のみで、それも通称を「袖萩祭文(そではぎさいもん)」とか「安達三(あださん)」とか呼ぶ原作の三段目「環宮明御殿(たまきのみやあきごてん)の場」の切だけの上演が常である。二段目には謡曲の「善知鳥(うとう)」が、四段目には安達原の鬼女伝説が織り込まれ、然も稀に見る大ドンデン返しが設定されている。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光という役(女姿もいつしかに引替りたる変生男子)が鍵と言えるだろう。
  昭和五十三年四月、国立劇場において郡司正勝・監修、中村勘三郎・主演(安倍貞任・貞任妻袖萩・貞任母岩手の三役)により「吉田社頭の場」「環宮明御殿の場」「道行千里岩田帯(みちゆきせんりのいわたおび)」「安達原一つ家(や)の場」「谷底の場」が通しでかなり丁寧に上演された。殊に「一つ家」から「谷底」の古御殿へと移る古怪な展開は人形芝居(昭和四十八年に国立小劇場で四段目までを通し上演)よりも遥かに蠱惑に充ちたものであり、一つ家の老婆が「賎の姿に引替えて、十二単衣に緋の袴」と変じ、「かくいふ妾は奥州六郡の司安倍の太夫頼時が妻岩手、情なくも我が夫(つま)は義家がために亡ぼされ、無念の月日を送るうち…」と身を顕すあたりから大ドンデン返しにかけて、歌舞伎の魅力が充分堪能できる台本であった。この半二の傑作については小泉喜美子さんに「奥州安達原小論」(「歌舞伎は花ざかり」に収録)と題する優れた一文が残されているので、参照していただきたい。
  「安達原」の谷底の場には鎌倉権五郎景政という荒武者が登場する。義家の家臣で「奥州攻」の世界で活躍する人物である。この景政は現行の「暫(しばらく)」では勇壮な若衆と変じて主人公を演ずる。「暫」は顔見世狂言には必ず仕組まれたので、本来は世界を選ばないのだが、歌舞伎十八番の「暫」はウケ(大抵は公家悪の謀叛人)を清原武衡、暫くを景政にするのが常のようであるから、現行の「暫」は「奥州攻」の世界に拠る狂言ということになる。勢力の有る女形が先代の追善興行に出したりする「女暫」は、たいてい巴御前とか板額(はんがく)とかの女武道の役で演ずるから、これは「木曾」や「和田合戦」の世界となる。
  「殺生石(せっしょうせき)」の世界は、謡曲「殺生石」や御伽草子「玉藻前(たまものまえ)」などに拠るもので、史書「前太平記」には言及がない。鳥羽院の時代に設定されるので、便宜上[前太平記の世界]に分類しておいた。大陸渡来の九尾の狐の怪異を描き、浄瑠璃「玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)」の三段目が歌舞伎に移されて残ったが、この「玉三」には玉藻前は登場しない。
  通俗史書「前太平記」は醍醐天皇の延喜七年(907)から鳥羽天皇の永久元年(1113)までの凡そ二百年間の事を虚実とりまぜて綴っているが、これを一日で見せてしまおうという狂言があった。宝永から宝暦年間まで五十余年に亘って江戸各座に出勤し江戸の狂言の定式(じょうしき)を確立したとされる二世津打治兵衛(つうちじへい)が延享三年(1746)五月に市村座に書き下ろした「一富清和年代記(いちのとみせいわねんだいき)」がそれで、浦島太郎を狂言回しに使って[前太平記の世界]すなわち清和源氏の歴史を二十五番続きで見せたものらしい。
  「江戸芝居年代記」には「此狂言、津打治兵衛工夫を以て、浦島太郎七世の孫を、人王五十五代文徳帝仁寿元年、時の武将六孫王経基より、人王八十代高倉院治承年中源頼朝迄、凡三百廿余年の事を一日の狂言に取組、一の冨清和年代記と題すなり」とある。
  役名を見ると、田原藤太・藤原純友・藤原忠文(純友将門)、源頼光・渡辺綱・坂田金時・安倍晴明・辰夜叉御前・伊賀寿太郎・将軍太郎(四天王)、鎌倉権五郎・安倍頼国・安倍宗任(奥州攻)などが網羅され、これに浦島太郎とその子孫(次郎から七郎)が加わる。「此狂言中は、幕毎に出て、年号は何時、武将は誰、何帝の御宇、何代め浦嶋に罷成ますると、幕外へ出て口上あり」とあるので、年代を追って一幕毎に、その時々の浦島が口上を述べたのであろう。
  二十五番続というのだから二十五幕あるいは二十五場あったものと推測され、そうだとすれば一幕は相当短いものであったと思われる。鶴屋南北が晩年に書いた「独道中五十三駅」のごとき可坊な狂言が想像されるのだが、「一富清和年代記」は台本が残っていないようなので、何とも申し難い。享保十三年(1728)の春に「浦島太郎七世孫」(二の替「清和年代記」)という、殆ど同じような役名を網羅した狂言が市村座で上演されており、おそらくこの十八年前の作が土台になっているのではなかろうか。

(註)
  結果を見て推測するのだが、江戸時代の人々が歴史を考える際に基準とした書物は「太平記」であったと考えられる。私が<結果>と申すのは、十七世紀後半の在野の通俗史家達が「太平記」に続く時代の通史を綴って「後太平記」とか「続太平記」とかの標題を冠し、「太平記」以前の通史を綴って「前太平記」「前々太平記」の標題を附していることを指すのである(中略)。順序として「太平記」に続くものとしてまず「後太平記」が書かれ、源平争乱以前の通史として「前太平記」(これは「後太平記」の<後>に照応させているのだろう)、更に遡るものとして「前々太平記」が企てられたと推量できる。(須永朝彦氏「歌舞伎ワンダーランド」22ページ)

 以上の解説は、須永氏の著作「歌舞伎ワンダーランド」(新書館/1990年)所収の「前太平記の世界」(同書39〜48ページ)を、須永氏の了解のもと再掲したものです。なお、再掲に当たって歌舞伎外題(タイトル)に使われる特殊な漢字の一部を片仮名表記させて頂きました。

世界――予め設定される時間と人物