東浩紀氏によるデリダのエクリチュール論について(未完)

 『存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて』(新潮社、1998年)のなかで、デリダおよび著者の東浩紀氏が批判するのは、エクリチュールはパロール(声ー意識)をなぞっているという古典的な考え方ではないかと思う。したがって、デリダは原エクリチュールという概念をもちだして、これをパロールに先行させるが、実際のところ、この「原エクリチュール」という概念は非常にわかりにくい。ただし、パロールを単なるフォネー(音/声)の現象とするのではなく、そこに声と一体化した「意識」をもからめて考えるのだとすると、話はわかりやすくなる。つまり、原エクリチュールとは、原意識ではないかと。
 ただこのとき、デリダは個人を個人たらしめる意識の原点(オリジン)に遡行しようとするのではなく、ここで無意識の問題をからめてくる。つまり個人の意識というのは他者の転移であって、内なる原点は存在しないと。
 おもしろいことに、言語がこれと関係してくるわけで、言語はやはり本来的に「外」のものであるから(ex−、aus−)、言語を使ってなにかを表現するという行為にオリジナリティは存せず、エクリチュールはいわば無限の転移の繰り返しなのだという発想があると思う。
 こうして考えてくると、東氏が哲学者は郵便局で、偉大な哲学者とは大きな郵便局だと主張するのも理解できる。つまり彼らはオリジナルを創出するのではなく、ひたすら言語を通過させる。
 こうして、言葉と意識をネットワークの問題として同じ土俵にあげる土台ができあがるわけだが、そうして言語を大量に通過させるときに、どこかでしばしば配達ミスや差し戻しなどがおこる。この配達ミスこそ、言語流通(郵便ネットワーク)のポジティブな面からは見えてこない<オリジナル>だとデリダは考えていたというのが、本書(「存在論的、郵便的」)全体を通じた東氏の結論のひとつではないか。
 また実際、deconstruction、differance、grammatologie、responsabiliteをはじめとするデリダの術語は、誤配を誘うようにできてもいる。
 以上の整理によって、「デリダはなぜあのようなテクスト形体を選ぶのか」という東氏が初期に設定した疑問は、ある回答に達したことになるのではないか?

 いずれにしても、デリダの「エクリチュール」という概念は、書記言語ではない。
 言語の習得に先立つ「社会関係」こそがデリダのいう「エクリチュール」であって、この術語を用いることによって、デリダは「人は社会のなかに書きこまれてる」ということを示そうとしているのではないか。ただし私見では、そこまで主張するのであれば、「エクリチュール」ではなく、「テクスト(織物)」という術語を用いるのが適切ではないかという疑問は残る(もっとも、それだとメルロ=ポンティになってしまうであろうが)。いずれにしても、この辺、デリダは「世界内存在」という術語を提唱したハイデガーをしっかり継承していると思う。
 また発達心理学との違いでいえば、言語なり社会関係を習得していくことをデリダは自己形成とはみずに、フロイト的な「転移」つまり他己形成とみているのではないか。

 議論が過度に抽象的にならないよう、『存在論的、郵便的』のなかの東氏の文章も引用しておこう。
 「70年代初期のデリダは一般に、位置ずらしの局面における戦略、つまり転倒の「終わりなさ」が要請する転移的技法を「古名paleonymie」の戦略と名付けている。それはどのようなものか。例えばデリダは、「エクリチュール」という語を導入する。しかしその語は実は、もはや既存の哲学的二項対立、パロール/エクリチュール(話されたもの/書かれたもの)の対立に従わないものを指示するために用いられている。つまりここでデリダは、二項対立の外部を示すため、まさにその二項対立の内部に位置する古い名を維持し続けている。そしてそのような捻れは、脱構築のこの局面が転移的であるため生じる。そこではあらゆる語が「脱構築されるシステムの内側と外側」、つまり分析者と被分析者とに「二重に記載され」、「いかなる概念、いかなる名、いかなるシニフィアンもこの構造を逃れることはできない」。それゆえ「単一の著者により署名された操作は、定義上この隔たり[=古名の戦略]を実践することができない」。分析者デリダは、新しい事態を引き起こすため、被分析者の用いた古い語を再応用するしかない。」(同書、297〜8ページ)

(以下未完)



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