市民の権利・義務について (ガブリエル・ボノ・ド・マブリ)
Des Droits et des Devoirs du citoyen (Gabriel Bonnot de Mably)


第一の手紙 その2

 卿は聞いて下さいました、ムッシュー、私が値しないほどの注意を払って。そして彼が答える様子で、私にはそれがわかりました。「お許し下さい、」彼は言いました。「私があなたの意見に完全に同意しないとしても。社会形成以前には人間の権利に限界がなかった、あるいはその時点では満たすべきいかなる義務もなかったと、人はあまりにも簡単に信じてしまいます。最初の人間は、生まれたばかりの子供と同様、そこから観念が生じるはずの感覚の使用を試み、展開させ、学び、完全にすることにまず専心するものだと仮定すれば、この学説は、人類誕生の最初の瞬間には正しいものでありうるでしょう。みずからの理性が啓発しないので、いわば未だに動物の段階にしかなく、彼らは快楽や苦痛の感情に機械的に従うでしょう。その時には権利も義務もありませんでした。この自動機械に道徳は生じていませんでした。なぜなら森の中をかけずり回る野生人、あるいは乳母の腕の中で戯れる子供には、道徳はけして生じないからです。もしそれが私たちのものではなく、またそれはけして実在しなかったとすれば、この情況は私たちとなんのかかわりがあるのでしょうか。
 しかし、快楽と苦痛の感情の繰り返えしが記憶のなかにいくつかの観念を刻みつけた後に、経験のたすけによって人間が彼らを取り巻く物体間の関係に気づきはじめたとき、また彼らが反省し比較し推論できるようになったときに、彼らの権利には限界がなく、彼らはいかなる義務も知らなかったというのは真実でしょうか。なにゆえ、この生まれたばかりの理性は、理性的であろうとしはじめた存在の上にいかなる権威も振るわないということがありえたのでしょう。私たちが正義と不正、誠実と不誠実、善と悪と呼ぶもの、これらすべては、均質で恣意的に見えないために政治的法のたすけを必要としたでしょうか。すべての市民協定以前にも、善意と裏切りは識別され、残酷となさけは識別されていました。なぜなら、人間は快楽と苦痛の感情を同類の有益な行動や残酷な行動によって試さなくてはならないように造られていたからです。そしてここから、私たちの本性を名誉あるものとする道徳の本能が伸展したはずです。

 ご注意ください」卿は続けました。「善悪の観念は、社会の創設に必ず先行しました。このたすけがなければ、人間はどのようにして法を制定することを想像したのでしょうか。守らなくてはならないこと、命じなくてはならないことをどのようにして知ったのでしょうか。あなたの哲学は、まったく原因のない結果を認めるようあなたを導くでしょう。もし人間が自然状態において悪を知っていたのであれば、それゆえ彼らはすべてをなすことはできませんでした。彼らの理性が法や為政者であり、彼らの義務はそれゆえ限定されていました。またもし彼らが善を知っていたのであれば、それゆえ彼らは満たすべき義務をもっていました。同意して下さい、」笑いながら卿は続けました。「私たちの本性を堕落させるどころか、社会の創設は逆にそれを完全化したのです。法および政治的支配の全機構は、情念に対してほとんどつねに無力な私たちの理性のたすけとなるためだけに想像されたのです。
 私には争う余地がないように思われるこの原理から、私は結論しなくてはなりません。もし私が誤っていないならば、市民には、社会がその情況をより有利なものにするよう強く要求する権利があります。人間が社会に集まりながら形成した法、契約(traite)、あるいは協定は、一般的には、市民がより賢明なものをまったく知らないかぎりそれに従わなくてはならない権利と義務の規定であると、私は同意します。しかし理性が人間を啓発し、完全にした後も、社会は過誤の犠牲となることを宣告されているのでしょうか。もし市民が不条理な協定を行ったとき、もし彼らが法の後ろ盾になることができない政府を設立したとき、幸福への道を探しながらもし反対の道を選んだとき、不幸なことにもし不実で無知な先導者によって道に迷わされたとき、あなたは非人間的にも、彼らが過誤や不注意の永遠の生け贄となることを宣告されるのですか。市民という資格は、人間の尊厳を破壊しなくてはならないのですか。理性をたすけ、自由を支えるために制定された法は、私たちを卑しむべきものに、奴隷にしなくてはならないのですか。人間の欲求を軽減すべく運命づけられた社会は、人間を不幸にしなくてはならないのですか。私たちがもつ幸せでいたいという広範な欲望は、私たちに向けられた不意打ちや暴力に絶えず抗議します。なにゆえ、社会が期待する結果を生み出すことができない法に対して価値あらしめることができる権利を、私は何ももたずにいられたのでしょうか。それでは私の理性は、私にとっても私が構成員である社会にとっても、満たすべき義務を私がけしてもってはいないと語るというのでしょうか。
 あなたがお読みになった著者たちは、」
卿は続けました。「たしかに、大変優れた有能な人たちです。しかし彼ら以前には、哲学は自然権(droit naturel)や政治の研究に未だ適用されていませんでした。彼らが著述したときには、君主制政府がほとんどいたるところで確立されていました。君主制政府はヨーロッパにもっとも粗野な先入見を氾濫させた不条理な封建政治をひきついだのです。国王、あるいはむしろ自分の名前と権威を濫用した大臣は、すでに人民同様不自由な真理にとらわれていました。グロティウスは哲学者というよりは碩学でした。それにしても、この深い才能は真理を見出すためにあつらえられたのだと感じられます。しかし彼は自分の力を警戒しました。大胆な真理は彼を驚かせました。そして彼は、繰り返される誤謬を攻撃し破壊するのに必要な勇気を欠いていました。彼は、人が自由の価値を知っている新しい共和国に生まれました。しかし運命は彼を祖国から亡命させ、(スウェーデンの)クリスティーナ女王への勤仕へと結びつけました。「戦争と平和の法」を執筆したとき、彼は、この著作を貴国のルイ13世の保護の下で出版するという気紛れを起こしたのです。国民の圧制者のためにしか自由が存在しない国に生まれたプーフェンドルフは、しかしながら、自分が知っていた真理を偽っているのではないかと疑うには、しばしば充分に哲学者であるように思われます。その真理のために、彼を保護していた君主の恩恵を犠牲にしようとは思わなかったのですが。ヴォルフは、この二人の学者のほとんどすべての誤りをもっています。そして誰もそれを読む忍耐をもたない彼の退屈な作品は、なんびとをも教化したり誤らせることができないのです。ホッブスは、社会の基本的な原則を私たちに知らしめるという栄光をロックから奪うことができたでしょう。しかし一連のできごとや利害関係によって、不幸な党派に結びつけられ、有能な才能のすべての資源を、人類にとって致命的な体系の構築に使いました。無政府状態がもたらす無秩序の代わりに、もし彼が専制の不都合を証明していていたとしたならば、有罪宣告をうけていたことでしょう。
 市民からもっとも正当な権利をはぎ取るために、これらの作家はどのようにふるまったでしょうか。彼らがすべての側面から対象を提示することはけしてないでしょう。あるときはあまりにも巧妙に疑問を分解します。またあるときは、無用な装飾で疑問を充たします。詭弁の上に詭弁を重ねます。彼らは法にふさわしい深い尊敬について語るでしょうか。彼らは、もし正しい法、すなわち私たちの本性に一致し本性と釣り合いのとれた法が存在するならば、人間性を辱め国家の衰微と破壊を準備することなしには従うことのできない不正な法も存在することを読者に注意させるよう、十分に気をつけるでしょう。彼らは人間についても、それを動かすバネについても知らないふりをするでしょう。制度と社会の目的に正反対のこうした処置は、偶然に一時的な利益や誤った利益を生み出すことがあるので、彼らは大胆にも、その調和を乱すことを恐れなければならないのはすばらしい政府なのだと言うでしょう。彼らは法に盲従しなくてはならないということ、いわゆる検討することの危険を、雄弁を繰り広げたり、あるいは単にながながと証明するでしょう。彼らには好きなようにさせておきましょう。彼らは、自然の作者があなたに理性を与えたのは間違っていた、あなたを支配しており苦労して考えることなどしない為政者の理性の前では沈黙すべきであると、論証するでしょう。困難、無秩序、内戦について語るとき、彼らは勝利します。想像力が警戒させられ、恐怖におちいり、彼らの言葉をあまりにもかるがると信じてしまうのです。
 それに代わって、もし私が、たった一つの不正な法でも、国家にどれほど多くの悪の種を播くことができるかをお見せするとしたら、もし私が、大半の政府のもっとも大きな悪徳は、人間の尊厳を損じようとするという非常にささやかな過ちにのみ由来すると論証するとしたら、もし私が、理性と私たちにそれを授けた自然への軽蔑から、私たちを自動機械に変える盲目的で卑屈な従属の致命的結果をあなたに直視させるとしたら、私はなにほどの者だというのでしょうか。秩序と安息への愛が解明されていないとき、もし私が、そうした愛は避けたいと思うすべての悪の前へと私たちを急いで駆り立てることを証明したなら、もし私が、専制は牢獄、絞首台、浪費、耳に届かない荒廃、凶暴でばかげた無能とともに、あなたの法律家の原理の避けられない帰結であると暴いてみせたなら、あなたにとって彼らはまさしく疑わしいものにならないでしょうか。
 ムッシュー、」
卿は確固たる調子でつけ足しました。「人は、罰されることなしに、自然が私たちに命じた秩序から身をそらすことはけしてありません。自然より賢明であろうとしたり、自然に諮ることなしに幸せであろうとするとき、私たちが罰せられるのは正当です。しかしなんということを私は言おうとしたのでしょう。いくつかの疑問を提示しただけで充分だったのではないでしょうか。この快い庭園に対して不敬ではないでしょうか、」卿は笑いながら語りました。「この場所で自然法や政治についてこれ以上語るのは。」「いえ、いえ、」私は急いで彼を引き戻しました。「話題を変えようとしても無駄です。あなたは私の眼を開きました、卿よ、それは私が誤りのなかにいることを示すためでしかなかったのですか。あなたのたすけなしには、私はけしてそこから脱出できません。光栄にも、あなたは次のようにおっしゃいました。真実を隠すのは罪であると。その楽しげなご様子があなたを罪ある者とすることを望まれるのですか。私の無知、先入見、そしてそれらの帰結は、あなたの意識しだいなのです。」
 私には語ることができません、ムッシュー、いかに多くの観念が混乱したまま私に押し寄せてきたかを。これまで私が考えていたことすべては崩壊したように思われました。自分が結びつくことができる真理を探し求める私の精神は、急いで一度に千もの異なった方向に進み出しました。私たちは散歩を続けるために立ち上がりました。卿の方では私にいつくかの彫像の称讃をさせようと望んでいました。しかし私は推論と自己啓発しか望んでいなかったのです。
 「あなた方の壮麗さは、」彼は言いました。「私にはあまりにも壮麗すぎるように思われます。この<アポロン>、この<牡山羊と戯れる子供>、私たちが称讃したこの<クレオパトラ>、小部屋を飾っていたにちがいないこの<闘士たち>を外気の損害にさらすとは、あなた方はその値を知らないかのようにみえます。」「ごもっともです、卿よ、」私は答えました。「あなたがこの庭園全体は道徳と政治に対する大きな過失だと教えて下さったので、それ以降、この小さな過失についてはすこしも気に掛けておりません。」「私をあまりに厳格な者にお考えです。」卿は答えました。「今度は、私があなたを和らげる番です。国王は美しい散歩をするにはふさわしくありません。フランス人こそがはばかることなくそれを享受できるのです。そうした散歩は彼の出費によるものなのですから。英国人はそれを多少とも喜んで見ることができます。あなた方が海上に築かせた帝国は、おそらく、この壮麗さに負っているのです。」
 卿が身をそらそうとしてもむだでした、ムッシュー、私は、未だ知らなかったこうした権利と義務にあまりにも心をとらえられており、彼を絶えずこの話題に引き戻さずにはいられなかったのです。「あなたのせいです、」私は言いました。「もし私があなたを責め立てるとしても。なにゆえあなたは、人間にとってもっとも興味ある道徳の一部について語られたのですか。まだ戻る時間ではありません。それにここから見える彫像は古くかつ凡庸で、うまく修理されていないものにすぎません。人間は、卿よ、それが作り出した芸術よりもさらにあなたの注意を引くに値します。」
 「それではほんとうにそれを望まれるのですか。よろしい推論してみましょう、私もそれに賛成です。しかし誤るおそれがありますから、」彼は言いました。「急ぎすぎないよう気をつけましょう。方法をもって歩き、市民の権利と義務についての探求をとおしてなんらかの確固たる規則を構築するよう、人間の本性を注意深く試してみましょう。もし私たちが、その品位を落とすことなしには切り離せないほど人間に本質的に属するものがあることを見出すならば、人間性に授爵するために形成された社会や政府には、市民からそれを奪う権利はけしてないのだと結論しましょう。
 私たちにもっとも本質的で高貴な属性は理性です。それは、神がそれによって私たちに義務を学ばせる機関であり、私たちを幸福に導くことができる唯一の先導者です。キケロは言っています。<元老院も人民も私たちを免れさせることができないのは、永遠不変のこの法からなのである。それはアテナイでもローマでも同一である。それはすべての時代に存続するであろう。そしてそれに従わないことは、人間であることをやめることなのである>と。もし私がその下で生きている政府が私の理性を自由かつ完全に使わせるならば、もし政府が、私が本質的と見なす義務の遂行を私に固めさせることにしか向かわないならば、私はその政府を尊敬しなくてはならないと、驚くほど強く感じるでしょう。為政者は人類の義務を果たします。私の義務は彼に従うこと、そしてなんらかの情念が社会の調和を乱そうとするときに彼のたすけを求めて飛び込んでいくことなのです。しかしもしあなたが、」
卿は私の手をとりながらつけ足しました。「たまたま、国家が為政者の情念の犠牲にされた地域にいるとしたならば、もし、自然の敵であり自然が私たちに授けた権利に嫉妬する専制が、ちょうど農夫が羊の群れを農園に導くように、あなたやあなたの同市民を奴隷へと導くならば、自然な独立を放棄して人間が政府や法を形成したときに人間がみずから提案したのは、まさに驚くべき目標なのだと、理性はあなたに語らないでしょうか。神が人間であれとあなたに命じるとき、あなたに野性的であれと命じる専制君主に対して価値あらしめることのできる権利を、あなたはなにももたないのですか。あなたの義務は、彼の不正に従うことからできているのですか。
 注意しましょう、」
卿は続けました。「自由が人類の第二の属性であること、自由は理性同様私たちに本質的であることに。もし自由を欠き、理性を行使できないよう宣告されていたとしたら、自然が私たちに思考し、反省し、推論する能力を授けてくれたことは何の役に立つのでしょうか。もし神が為政者の意志が私の意志の代わりになることを望んだのだとしたら、疑いなく、神はこの神聖な機能を果たすために特別な種類の存在を創造していたことでしょう。しかし神はけしてそうはされませんでした。それゆえ、私は社会において自由でなくてはなりません。それゆえ、法、政府、為政者は、社会という身体全体で、理性が個々の人間に執行させるのと同じ権力しか執行してはなりません。理性は、情念を導き、抑制し、鎮めるために、また情念の誤りに警戒し、それを予防するために私に与えられました。以上の点は、政府の義務も同じです。なぜなら、人間は、個々人の個別の理性に新たな援助を提供し、情念の上のぐらついた帝国を堅固なものにし、ある種の奇蹟によって、それらが有害なものでありうると同じ程度に有益なものにするためだけに法と為政者をつくり、それらを公共の力で武装したのですから。
 まだ素描しかしてはいませんが、人間の本性についてのこうした熟考の後に、私たちが政治や政府という美しい名前で称讃している狂気に目を転じること、また、市民の義務とは誤りの奔流に身をまかせることであり、彼の唯一の権利は忍耐強く不正を堪え忍ぶことなのだと信じこむまで自分を盲目にすることも可能なのではないでしょうか。人が服従している政府への盲目的な尊敬を勧めるとき、宮廷の追従者たちは何を意図しているのでしょう。未だ経験がなく、それゆえほとんど啓発されていない最初の人間は、法と政府を取り決める際に互いに軽蔑しあったのではないかと推測されます。それゆえ彼らは、自分たちが設立した最初の政治的政府に決定的に従属していると自分を見なしたはずです。政府への盲目的な尊敬は、自然によって自己形成が緩慢で過りに隷属する理性を授けられ、自分を伸展させ叡智をもって自分を導くために経験のたすけしかもたない存在に対し、非常に無分別な法を押しつけることであるように、私には思われます。私は現行のすべての政府に属するこの説の信奉者に尋ねます。アメリカのイロコイ族が野蛮さに赤面しはじめたとき、無情にも彼らは、イロコイ族が愚かさを繕い、開化する権利を拒むのでしょうか。もしアメリカ人が同胞の政府を改革する権利をもつならば、そしてもし同市民が未だに初歩的な無知のなかに横たわっているならば、なぜヨーロッパ人は、今日、社会の真の原理を知った後にすべてを変化させる時間と情念が忘れさせたのと同じ特権をもってはいないのでしょうか。法を制定することの委任なしにスパルタ政府を改革し、彼の同胞をギリシア中でもっとも有徳でもっとも幸福な人民にしたからといって、リュクルゴスをおせっかいだとか謀反人とみなそうとは、人はけして思いつかなかったのではないでしょうか。
 この学説は、」
卿は言いました。「非常に長い註釈を必要とします。しかしそれを試みるには、今日はもう遅すぎます。戻ることにしましょう。そして明日にでも、なぜならあなたがそれをお望みですから、私たちの哲学的散歩を再開しましょう。」
 私に示して下さい、ムッシュー、スタノップ卿の学説と熟考についてのあなたのお考えを。あなた以上にそれを判断できる人は誰もいません。なぜ彼が自然権と政治的権利の研究を処理する方法が、もっと早く私に知られていなかったのでしょうか。その方法が、私が親しんでおり、私からそれを取り除くのにおそらく多くの労苦を必要とするであろう誤りを私から免れさせてくれますように。私たちは社会にとってもっとも重要な題材を扱いそうな気が致します。もしお望みでしたら、私たちの対談の報告を続けさせていただきたいと思います。さようなら、ムッシュー、心からあなたを抱擁します。

マルリにて、1758年8月12日

【参照】
コンディヤックによる記号の三区分とマブリの法思想 (小サイト内)

(2003・8・13)



「市民の権利・義務について」目次

第一の手紙/その1