| 市民の権利・義務について (ガブリエル・ボノ・ド・マブリ) Des Droits et des Devoirs du citoyen (Gabriel Bonnot de Mably) |
| 第二の手紙 その2 |
| 「もしもですね、」卿は私に言いました。「もしも私が、前奏として、サリカ法典と世界のすべての玉座を転覆させるすばらしい改革プランをつくることを提案したら、またもしも私が、その次には勇気をもってパリの真ん中に自由を説きに行くこと、地方に党派をつくりそこに謀叛者を集めることお勧めしたら、なんとお答えになりますか。」「卿よ、」私は言いました。「お答えしないことをお許しください。」「しかしまた、」彼は力説しました。「失礼ながら、あと一言。」「あなたが是非にとお望みですから、告白しましょう。」私はこたえました。「あなたの英雄的な忠告には従わず、自由にさせていただきます。なにゆえ、私は、私にとって非常に明白な危険、わが国にとってより明白に無用であるくわだてを試すのでしょうか。巨大で、言うなればあまりにも高貴なヒロイズムは、私たちフランス人の目には笑止千万としか映りません。私が現在示している以上の祖国と自由への愛をもってしても、私は当地で幻視者と見なされるでしょう。同様の評判が立つと大成功はけして期待できないと、あなたは同意するでしょう。<このかわいそうな男は気がふれてしまった、残念だ。>と私の友人たちは言うでしょう。<判断力があるように思っていたが、好きだったギリシア人やローマ人の歴史を読んで精神を台なしにしてしまった。歴史などは、小説や戯曲をつくるのにいいだけだ。>国家の枢要にある人物は事態をより深刻に受けとるでしょう。私の正当さにもかかわらず、私を大逆罪の罪人扱いするでしょう。この罪人は特赦によって瘋癲病院(petites maisons)に収監されます。<なんという狂気。私たちはなにか良くないことをしているとでもいうのですか。>(そこに収監されている)すべての女性(訳者註記:売春婦)はわめくでしょう。彼女たちは、神よ、色事においては可能な限り自由であり、それ以上はなにも見ないのです。 お笑いになりますね。卿よ、満足のいくだけ笑ってください。私は自分がともに生きている人々を知っています。私は絶対に正しいのです。そしてもし私が、あなたが授け、私の義務にさえされた権利を大胆にも行使しようとすれば、泥や使用済みの石、腐った木材で確固たる建造物をたてようとする建築家よりもさらに非難されるでしょう。」 「大変結構です。」卿は叫びました。「それゆえ、私たちはあなたが想像される国だけしか見ないでしょう。なぜなら実際のところ、私はあなたほど勇敢でもないし、慎重さが足りないということもないからです。もしあなたが、侮辱と隷従に馴れた人々が法の存在を知らない東洋の政府のいずれかで生きておられさえしたら、命令しか知らず、考えることも行動することも敢えて行わないでしょう。もはやあなたの祖国を自由にすることを夢見るときではないと申し上げます。人は自分の権利を失うことはけしてありません。しかし、理性がつねにそれを追求するよう命じるとはかぎらないのです。理性は時期や情況を鑑みます。そして夢想のあとを走ることをけして認めません。理性は、心や精神にそれでもなおいささかの活気がある国民においては、より大胆でありながら、叡智に不足することはないでしょう。社会や市民について書いた哲学者の大部分が、私たちの権利と義務についてかくも混乱した観念しか与えておらず、多くの改革者が彼らの企図の座礁を見たのは、こうした区分の失敗によるのです。あなたの権利を無遠慮かつ同市民の先入見を激動させるにふさわしい方法で行使することがとがめられるかぎり、人類の心で熟考された知識が命じる警戒や手加減を自制しながらはたらかせる点で、あなたは称讃されるでしょう。まさに慎重さが同意する以上のものをしばしば期待することは賢明だと認めます。なぜなら、良き市民が共和国の救済に絶望するのは最後の極限においてでしかなく、しばしば、広がりすぎた希望が私たちのうちに私たちも知らなかった手段を発見させるからです。しかし、情況を判断するのは天才だけです。なぜなら、それだけが情況を好ましいものにしうるからです。 オランダ人が自国には王が存在しないと語ったとき、あるインド人たちはそれを気違いじみた寓話だとみなしたことをご存知ですか。トラシュブロスであれ、ブルータスであれ、こうした愚鈍な賤民になにをしろというのでしょう。トルコ人が、規則も形式もなく彼に対して百杖を課すもっともつまらない裁判官(カーディー)の前で震えあがるのは、自動運動にすぎません。ロシア人についてもほとんど同じことを言わなくてはなりません。市民であろうとするスペイン人は、フランス人よりも慎重に行動しなくてはなりません。なぜなら、かの国民は先入見、無知、怠惰のうちにあって、あなた方が活発なのと同じだけ不動であり、動くには敏速ですが、不安定で、新しいことを憂慮すると同時に渇望しているからです。自由人という点ではより勝る英国人は、バスティーユを恐れるフランス人において称讃される勇気しかもたないとしたなら、裏切り者でしょう。完全な政府をもつのにほとんどなにも欠けていないスウェーデン人は、ローマ人の自由を愛さず、その政府を変形させ、おそらくは破壊しうる軽微な失敗を恒常的かつあくことのない気遣いで修正しようとするのでなければ、放縦でしょう。」 ムッシュー、あなたがお考えのように、スタノップ卿のすぐそばにいることに魅せられて、私は次のように懇願しました。昨日約束した長い註釈に同意してください、より長く学説を開陳してください、そしてもし以上のようではないとしたら、いかなる原理によって、市民は同胞の気質を探り、その希望と恐れを計算し、かくしてその権利の延長、そしてとりわけその義務の本質を判断することができるかを私が知ることができるよう、適切な細部に立ち入ってください、と。 「私は知りません。」彼は言いました。「数世代ものあいだ、専制者の気紛れで一時的な意志に服従させられ、そこではいかなる革命も起こらないし起こりえない国だけしか。そこでは精神には無知があり、不平もつぶやきも秘密なのです。奴隷たちの叫びは、情念のなかでももっとも命令的でもっとも愚かな恐怖によって窒息させられます。個々の人間は、それゆえ、自分の弱さ、あるいはむしろ自分が無であることしか見ないし、感じません。こうした理由によって、トルコの表面を変え、情念に新たな流れをもたらすであろう不幸な戦争、君主の廃位、大臣の殺害、 兵士の叛乱といったもっとも重要な出来事は、後宮の外にいかなる変化も引き起こさないのです。しかし、災難の不変の限界に未だ達していないすべての国家においては、人々のあいだに法が存在しうるし、主人の気紛れよりも法に従う方が有益ではないかと推測されます。恐怖によって身震いすることなく考慮することが許されるならば、至上の権力は、市民、為政者あるいは君主の情念の果実である動乱と、政府がその権威を長らえさせ固めるために採用した多少とも有効な手段を受けとるようにと開かれています。国民体が自分自身で自分の適正な立法者ではないとしても、自尊心に負わせる考慮、彼をして恐れさせ尊重させる考慮が、国民体にはまだ残されています。一言で言えば、至上の権力が新たな進歩を遂げようとするたびに、それは障害を見出すでしょう。その歩みはゆるめられるでしょう。それゆえ、至上の権力は揺り動かされ、転位されるでしょう。私は、その時には革命は未だ可能だと考えています。良き市民は、それゆえ希望しなくてはなりません。そして彼は、その状態、能力、才能に従って、この革命を祖国に有益なものにするためにはたらくようにと義務づけられているのです。 自分が身をゆだねる法を自分で制定する主権をもった人民は、自由を不断に固めること、そして彼の国家組織に加えられる感じられない損害を繕うことをやめるならば、やがて絶対君主や特権的な家族に従うでしょう。なぜなら、法の執行を監視するために創出された為政者は、しばしば公共物に対してうかつで、彼らに従わなくてはならない単なる市民よりも明らかな優位に立っているからです。それゆえなおさら、もし、たとえばフランスのような君主制の臣民ができごとや情念の流れに警戒することなく身を任せるほど無思慮であったならば、日に日に自由に企てを行う専制は不断に進捗していくということを、疑わないでください。私たち英国人の一人は、」卿はつけ加えました。「非常にうまく言いました。もしもペストが命令、威厳、名誉、聖職禄、分配できる年金をもっていたならば、やがて、ペストとは神聖な権利に基づくものであり、その略奪に反対するものは有罪であるということを支持する神学者や法学者をもつに至るであろう、と。また、次の点にもご注意ください。恐怖、怠惰、吝嗇、浪費、 威厳と奢侈への愛といった専制の成功にもっとも好都合な情念は、魂の勇気、習俗の質素さ、粗食と労働への嗜好、公共財産への愛が稀であるのと同じほどありふれているのです。 自由な人民が彼をおびやかす危険に充分配慮せず、しばしばあまりにも安全に眠っているあいだに、君主制の大物は隷従を先駆けし、傲慢な小ブルジョワは廷臣の言葉や低俗さをまねながら自分たちの身分が増したと思いこみます。それゆえ、自由の見張り役となり、もし自由がひそかに攻撃されたならば救済に駆けつけ、専制への障壁を構築するのは義人の義務からなのです。今行っていることは行わなければならない規則でなくてはならないという信念、あなたの政府は原理において非常に賢明であり誤りを糺すことだけが問題であるという信念を捨てることから始めましょう。もっとも一般的で、社会にとってもっとも危険な誤りの一つはそこにあります。この誤りは、ほとんどすべての政府の進歩の永遠の障害でした。それは奇妙な計画の上にバランスのよい建造物を望むことです。人間は実際にはあまりにも愚かです。悪の流れを止めることをお望みですか。それを生み出した源を尋ねてください。この池を干上がらせることをお望みですか。そこに通じる水の流れを変えることから始めてください。もっとも有能な政治家さえも、もっとも粗野な田舎者が想像していることを考える精神をもっていません。しかじかの政府から必然的に生じる濫用を阻止するために、政治家は自分を守る法をもたらすことで満足するでしょう。怪物的な無知のなかにけしてよどまないようにしましょう。良き人が、私たちを軛に結びつけている鎖同様の先入見を一掃するようはたらきますように。最低の人間にも彼らの尊厳を知らせるように努めましょう。自然法(lois naturelles)の研究が軽蔑されませんように。みずからを啓蒙しましょう。みずからの権利と義務に通じた市民は、法を蹂躙するに充分な力、もしくは、かろうじてもっとも軽微な矛盾に悩むだけというほど充分な力をすでにもっている政府を威圧するでしょう。もし市民が愛国者を尊敬し考慮するならば、共和国の為政者自身が熱心な自由の保護者となるでしょう。彼らのあいだから護民官が生まれるでしょう。もし国民が啓蒙されれば、愚か者や無知な者への軛を重くするために専制が革命をつねに利用する代わりに、君主制がまたも経験しうる動揺のまっただなかで、法の権威の友である臣民が地歩を築くでしょう。 しかし、力、方法、手段、出発する距離に応じて、異なる経路で自由に向かわなくてはなりません。もし私が当地からパリへ行こうとするならば、」卿は言いました。「両足をそろえてジャンプはしないでしょう。私は一歩ずつ進みます。堤防を越え、シャントコーの丘、ヌイイの橋を通り、やがて、危険も疲労もなくパリに着くでしょう。精神的であるとはいっても、私たちの魂は肉体同様緩慢で鈍重です。長すぎる経路、早すぎる経路は私たちの身体器官を疲れさせます。もし私の魂が慣習によって休んでいた思考からあまりにも突然遠ざかると、あえて言えば、第一歩に立ち戻ります。なぜなら、見知らぬ土地にいるようで、魂は居心地が悪くなるからです。実行不可能な提案をしないためには、人間精神の歩みと情念の戯れを学び知らなくてはなりません。たとえば私たち英国人は、現在までのところ、王の権力についてあまりにも不完全な観念をもっています。そして「特権」の名の下、王国の廃虚の上に完全な共和国を打ち立てうるにはあまりにも広がりすぎた権威を、君主に残しています。私たちは、ローマ人のように自分を統治するには値しません。一方あなた方フランス人は、しっかり進んで行くには、私たちよりさらにこの目標からほど遠いのです。あなた方には、まず私たちが享受している種類の自由を鼓吹されること、すなわち、古い三部会(身分会議)の集会を再建することが必要です。」 |
| (その3に続く/2003・7・29) |